あなたが赤い糸:58


 王の執務室がハレムの離宮に移されたのは、ジェイドに懐妊が告げられた数日後のことだった。その間に王は城内にもそれを告げていたから、広がったのは祝いと倦怠感に似た諦めの空気だ。寵妃の懐妊は祝うべきことである。喜ばしいことである。しかし祝福しきれない。心からは、とても。

 離宮に執務の場を移さなければならない、と側近たちが判断を下し実行に移してしまったことは、すなわち王の寵妃への執着が落ち着かなかったことを物語る。不安定な時期だけならばまだしも、それがいつまでの移転であるのか。子が腹に宿っている一年だけのことなのか。あるいは、健やかに育ち行くその先までであるのか。

 楽観する者はいなかった。幸い、ほんとうに幸いなことに、王は執務そのものに対しては厭うことなく向き合ってくれている。同じ室内に居らずとも、すぐ顔を見に行ける距離に身を置くことで、停滞しかけていた業務が滞りなく流れ始めたのは事実だった。

 目の前に置けば仕事はしてくださるんですよ、とため息をつきながらやや雑に王を評価したのは若き側近その人である。ジェイドよりすこし年上の青年は、寵妃の子が無事に産まれてくれば腹違いの兄となる。母は失われて久しく、父である王との関係は親子とするより純粋な上司と部下である。

 そうであるからこそ、いまさら青年を次代の王とし早急な代替わりを求める声が上がり始めたことに関しては、純粋な迷惑しか感じていないらしい。ありがたさを感じない迷惑ですね、と本気の声で吐き捨てて、青年は抜け殻と化した城の中にある旧執務室で、王の下へ運び込む仕事の選別をしながら言った。

「大体ね、どの面下げて国継がない? とか誘いかけてるんだって話ですよ全員逆賊として斬首すんぞ黙れよって気がしません? しますよね? あー、陛下に頼んでこようかなぁ……」

「そういう物騒な呟きはせめて筆頭か筆頭補佐の前でお願いしていいですか俺ではなく」

「年上って緊張するんですよね」

 そういう寝言やめてもらっていいですか、と頼むジェイドに、青年は打たれ強い笑顔で繊細なんで優しくしてもらっていいですか、と言ってきた。繊細な人間は、王位継承の誘いをかけてきた相手の顔面を拳で殴って鼻の骨を折ったり、あまつさえそれをさわやかな笑顔で朝礼の時に発表したりしない。

「常時の立ち入り許可証もらった仲でしょう。仲良く優しくしてください」

「職場で同じ空気を吸ってる仲以外になりたくないですし、許可証は返上したいですし、優しさの概念を見失っている所なので諦めてくれませんか」

「これはひとり言なんですが、残念ながら私は魔術師殿より立場が上なんですよね……。権力という言葉は、実にいい響きをしています……」

 どうして『お屋敷』でも城でも、ジェイドの上役には一癖もふた癖もある性格精神構造立場を持った者しかいないのか。シュニーの所に帰りたい、と遠い目になるジェイドに、青年は笑顔ではいこれよろしくお願いします、と結構な高さのある紙束を押し付けてきた。持って行け、ということである。

 自分で行けばいいじゃないですか、という文句は、机を埋め尽くす夥しい書類の山の前では飲み込まざるを得ない。今の所、この分別業務をできるのはこの青年だけである。王の庶子。母はハレムの女の、世話係であったとされている。懐妊が知れるや否や、ハレムを追い出された女は、子を産むとすぐ自害したのだという。

 だからまあ王が今度こそ母も子も守ろうとしている美談としてもうちょっと我慢してもらっていいですか、と心からは思っていない笑顔で城で働く者たちを説得して退けた青年は、複雑そうな目を向けてくるジェイドに、ややくすぐったそうに笑った。

「これが終わったら私も行きますから。陛下と寵妃殿に、どうかよろしく。あとさっさと王妃にしてあげてください手続き色々めんどくさいので、と陛下にお伝えください」

「自分で言ってくださいお願いします」

「万一、今更私に対する父性やら母に対する罪悪感やら芽生えられるとめんどくさいだけなので、積極的にそういう話題を避けています。あと心が繊細なので父として陛下に向かい合うとかそんなことできません。繊細なので」

 繊細という言葉の概念が破壊されるのを感じるので、その単語を口に出すのをやめてほしい。今日はあと何往復必要ですか、と聞かなかったことにして問うジェイドに、青年はさっと書類の山に目を走らせ、眉をひそめて瞬きをした。

「五……いえ、六往復前後ですね。一時間に一往復の頻度でお願いします」

「……一度にもうすこし多く運べば短縮されますか?」

「これ以上の量は陛下の集中とやる気を削ぎます。間隔を短くするのも同じ理由でお勧め致しません」

 残念な気持ちを抱くほど、青年は王のことを理解しきっている。親子ですね、と関心して思わず呟けば、繊細な心が修復不可能に傷つきかねないのでそういうの口に出さないで頂けますか、と心底迷惑かつ嫌そうにため息をつかれた。

「褒めるなら優秀な臣下ですね、と言って頂きたい。血の繋がりとか恐れ多いですしその事実は積極的に消して行きたいですし」

「……陛下は一応、認知されていた筈では?」

「ほんっと迷惑なのでやめて頂きたかったんですけどね認知」

 だいたい十二、三しか離れていない相手を父親だと思えってそこからもう難しいでしょうとため息をつき、青年はジェイドに向かっていってらっしゃいと手を振った。この話題でこれ以上会話したくない、という分かりやすい拒否だった。紙束を持って立ち上がり、ジェイドは執務室からハレムへ足を運んだ。

 執務室がハレムの離宮に移されてから、変わったことがもうひとつ。それは先に常時携帯として通行許可証を渡されていた三人に加え、ジェイドにもそれが与えられたことだった。おかげでジェイドは青年につけられ、日がな一日話し相手と書類の運搬に使われている。

 もうひとり増やすならジェイドじゃなくて筆頭にしてください、という意見は当然あった。あったがしかし、王が退けたが故に今に至っている。理由はごく単純な事情で、ジェイドの評判がハレムの女性たちにすこぶるよかった為である。王に休暇を願いに行った一度しか、表立ってそこを歩いたことなどないのだが。

 その、一度。王や寵妃の異変、出入りする普段とは違う者たちに不安がり、様子を伺いに顔を出していた女たちは、確かに多かった。その誰一人として、親しく話をした記憶などないのだが。王からジェイドなら、という理由を告げられた時に、しかし訝しんだのは本人だけだった。

 魔術師たちは一様に暖かく、なまぬるく、呆れと諦めが混ざったようなまなざしでジェイドを見て、ため息をついた。まぁたやったんだろう君、と口に出して苦笑したのはシークひとりだったが、誰もが同じ気持ちを抱いているのが分かる表情だった。また、というか。なにもしていない。前科もない。

 濡れ衣である、と主張するジェイドに、シークは静かな声で言った。つまるところ君は貴人に慣れきってる上に息をするように綺麗だの可愛いだのよくお似合いですだのを一切の嘘なく心から言って褒めるしそれでいて下心が全然ないし、しかも自覚があるのかないのか知らないけど顔がいいんだよ、と。

 ジェイドの顔かたちが整っているのは『花婿』であった祖父のおかげであり、その他は『傍付き』としての教育あってのことである。確かに王のハレムだけあって素敵な方々ばかりだったからご挨拶はしたけど、と告げるジェイドに、君は挨拶する時に相手を褒めて微笑むのまでが一組だもんねと、魔術師たちは首を振った。

 女難は落ち着いてるけど終わってはいないから、まあ暗がりに連れ込まれて乗っかられないようにだけ注意しなよ、と有難く思えない忠告をしてきたのが、シークだけではないから頭が痛かった。王に仕えるうつくしい方々がそんなはしたない真似をするはずがないでしょうと反論すれば、そういう所がアレ、と首を横に振られた。

 ハレムの空気は落ち着いている。寵妃に対する嫉妬でひりついた空気を漂わせることなく、緊張しすぎる者もなく。やわらかな、言ってしまえば控えめな祝福で満たされている。女たちは一様に、どこか同情的な顔を隠そうとはしなかった。王の前でそれを出す者はなかったが、かわいそうに、そう呟いて女の眠る部屋を見る者はひとりではなかった。

 日に何度も書類を運び込むジェイドに、女たちはそっと声を潜め、寵妃の様子を問いかけた。王があまりに執着するので、女たちさえ、親しく傍に行くのを控えているらしい。体調を伺う手紙さえ、王は見咎め声を荒げて破り捨てたことがあるのだという。

 手を上げられることはなかった。寵妃も、女たちの誰一人にさえ。その時には。時間の問題かも知れない、と思うほどに王の執着が怖かったと、ジェイドは零された。今は以前の様子に戻っている。落ち着いていて、穏やかで優しく、寵妃のみならず女たち一人ひとりに対する気遣いを忘れない。それがいつまで続くのか分からない。

 あの方は、と哀れむように女は言った。今度こそおかしくなってしまったのかも知れない。事故のように、惹かれあい。ハレムを追われた哀れな側女のことを、覚えている者も、知っている者も、残っていた。寵妃はすこし、その側女に似ていたのだという。記憶が戻る前の寵妃の、その控えめな微笑みが。

 移転した王の執務室は、寵妃の部屋へ行く廊下の中程にあった。使われていなかった部屋を開放したのだとは聞くが、そのせいで女たちは足を遠ざけ、寵妃の元を訪れるのは王ばかりである。女たちの見舞いを咎めはしていないと王は告げたが、同時に必要とも思っていない声音だった。

 寵妃は静かに日々を過ごし、誰に会いたいとも、なにが欲しいとも、王に強張ることをしないのだという。ただ、窓から外を眺めることが多くなった。なにか気晴らしになることは知らないか、と問われ、ジェイドは深く頭を下げ、女たちが心配しておりました、と告げた。

 どうぞ、お妃さまと女たちとの交流を。貴方の庭の花はどれもうつくしい。そのうつくしさを磨くことはあれど、摘み取ろうとする盗人はどこにもおりません。ご安心ください、そして、どうか、と懇願するジェイドに、王は気を害した様子でそうか、とだけ告げた。

 『お屋敷』の知識を求められていたことは察していたが、それより必要なのは、親しい誰かの声と熱だ。下がれ、と告げられたのは数日前。そこから進展はなかったように思うが、書類を運び込むジェイドの背を追い越し、ひとりの女が小走りに、廊下の奥へと向かっていく。すこし距離があるにも関わらず、華やかな笑い声も、いくつか。

 大丈夫、と言い聞かせるように、ジェイドは落ち着かない気持ちを飲み込んだ。まだ王に言葉は届く。届いているのだ。それでも、今日もまた六往復。本来なら必要のない処理を経て、王の下に書類を運び込まなければいけない。ため息をこぼしかけるのを堪えて、ジェイドは魔術師としての主君に、失礼いたします、と声をかけて部屋に入った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る