あなたが赤い糸:60


 初夏の頃。魔術師の目覚めと、旅立ちの季節である。今年は白雪からも、砂漠からも、楽音からも新入生は出ないのだと聞かされて、王宮魔術師は一様に、つまらないと溜息を吐き出した。風の噂では花舞にひとり、案内妖精が向かったと聞けど、その位置ではなにを間違えても砂漠の城を通過しない。

 星降へ向かう魔術師は、道行の逆走を許されない。そうであるからこそ、白雪、砂漠、楽音、花舞、星降の、国の順番が入れ替わるという天変地異でも起こらない限り、初々しい新入生と案内妖精に会う機会は、まだまだ先の話になりそうだった。

 そういうことだから担当教員の指名が来ないことを各自祈るように、と通達され、ジェイドは苦笑と共に、朝礼を終えて三々五々、各地へ散らばっていく同僚たちを見送った。砂漠の魔術師は人手不足で、ジェイドを除き皆過労気味である。担当教員の指名は名誉なこととはいえ、拒否権がない。一人抜ければ、もう全員が共倒れになるだろう。

 王の執務室が城へ戻ってくる気配は、未だ遠く。喜ばしいことと言えば寵妃の腹に宿った赤子が、健やかに育っていることくらいだろうか。変わらず、旧執務室とハレムを往復する日々を過ごすジェイドは、生温く鬱屈した空気にも慣れ、己ひとりが温存される現状を、なんとか受け入れた所だった。

 入学する前から、卒業した後までも延々過労だったんだから、ここで楽隠居状態にでもさせておかないと早死にする、というのが、砂漠の魔術師一同の、共通した意見であるらしい。中々に受け入れがたいものがあるのだが、毎日体調が良いのは確かである。シュニーも、ジェイドの顔色が良いと嬉しそうににこにこしていた。

 シュニーの体調は、一時より上向き、そこで穏やかに安定した。最近は日中も臥せることなく、起き上がって本を読んだり、編み物をして過ごしているらしい。『花嫁』の体調は、『傍付き』の安定に同調する。それをジェイドが改めて理解して、ようやく、己の今を受け入れる気持ちになれたのだった。

 日々は足元を不確かにしたまま、なまぬるい安定と共に流れていく。一日は同じ繰り返しを積み重ね、時が砂時計のよう滑り落ちていく。王宮に漂う、拭い難い焦り、不安な気持ちをそのままにして。一日、一日を過ごして。ジェイドが、はた、とそれに気が付いたのは夏至の日の、夜のことだった。

 旅立つ魔術師が、『学園』に迎え入れられる夜。祝祭の気配を遠くに宿した空気が、砂漠にも降りてきている。その、ぼんやりとした神聖さに導かれるように。ジェイドは夢から醒める気持ちで、静まった廊下に視線を走らせた。魔術師たちの居室が集まる一角。足元が見えない程に暗いのに、部屋には半数も灯りがともらない。

 それでも、以前はもうすこし明るかった。妖精たちが飛び回っていたからだ。まあるい金のひかり。その存在が放つひかりは、いかなる時であろうとも、魔術師を助ける導となる。それが、いまはひとつもない。天井の近くも、花瓶の傍にも。静まった部屋の中から、零れる魔力の欠片さえ。ひとつも。

 最後に。妖精を見たのは、いつのことだっただろう。血の気の引いて行く音を聞きながら、ジェイドはそれを思い出そうとした。初夏には居ただろうか。分からない。春には居ただろうか。覚えがない。冬の、寒さが厳しい頃には。年明けの祝祭の空気には。最後に、ジェイドが。妖精を見つめて、言葉を交わしたのは。

 あの日の『お屋敷』で。ミードに祝福を授け、消えるように去ったヴェルタ。ジェイドの案内妖精。その姿が、その言葉が、最後だった。あれきり、妖精の姿を見ていない。『お屋敷』でも、砂漠の城でも。どんな場所でも。それは明らかな異常事態だった。日常からひとつ、景色が、いつの間にか消えてしまっていた。

 妖精が砂漠を訪れていない、という訳ではない。妖精たちが請け負い、運んでくれる手紙や荷物は、途切れることなく届けられている。しかしそれは所定の場所に書類や、荷が置かれている、ということであって。伝令妖精や、気まぐれに散歩をしに来る妖精たちの姿を、あれきりジェイドは一度も見ていない。

 砂漠の壊死は、はじまっている。妖精たちは環境の変化に敏感だ。元より欠片の五国は、『向こう側』に住む妖精の生息範囲外なのである。魔力の質が違う。空気が違う。水が違う。食料が違う。長居すれば居心地が悪くなる、程度の、ごく微量の毒を孕んでいる。そこを長期的に旅する為の、守護の呪いが案内妖精の指名だ。

 それでも通常なら、遊びに行ってすこし疲れた、くらいの感覚で妖精たちは行き来する。それが、砂漠では、もうできないのだとしたら。運び込んで、すぐ帰って。忙しく動き回る魔術師たちを見ているからこそ、言葉は届けられなかったのだろう。気が付く時を待って、その時にはもう手遅れでも、妖精たちは仕方がないと言ったかも知れない。

 妖精の同胞、魔術師たちの仕える王が、この国をそうしたのだから。




 長居したくないことは確かだよ、とジェイドに捕まった荷運びの妖精は、角砂糖を口にしながら困った顔で首を傾げた。『お屋敷』から持ってきた最高級の角砂糖を片手に、待ち構えること四日目。ようやく姿を見つけることのできた妖精は、魔術師にやや気まずそうな顔をして。

 バレちゃったかぁ、と言わんばかりに、お茶と休憩の誘いに乗ってくれた。

『そーんな深刻に考えられる程ではないんだよ。別にまだ』

「……まだ」

『うん。まだ。うーん……今の状態は、なんていうかな……。風邪ひいたひとが寝てる部屋の空気を、一週間くらい入れ替えなかったくらい。いいから早急に換気しろって感じ? 長居したくないなって思うの分かるだろ?』

 とてもよく分かる。額に手を押し当てて呻くジェイドに、室内からは面白がる視線が向けられていた。王の旧執務室。青年は書類を捌く手を止めないまま、ジェイドと、目には見えない妖精の語らいを観察している。見えない、声も聞こえないのに、ジェイドが用意した角砂糖が減り、ミルクは飲まれて減っていく。

 ほんとうに、そこにいるんだ、と。幼い頃物語に憧れ、目を輝かせた、その顔つきのままで。見守られることに、こそばゆそうな顔をして。妖精はぱたぱたと羽根を動かし、だからさぁ、と魔術師に向かって語り掛ける。

『俺たちにしてみれば、砂漠の陛下が風邪ひいてるのに、お前らなんで放置してるの? 部屋ごと死ぬよ大丈夫? 分かってる? って感じ』

「放置している訳では……ないんだけど……」

『例えだよ。魔術師が忙しそうにしてるのも、見て分かってる。ただ、方法が的外れっていうか……。うーん近寄らないでおこうかなめんどくさいし……っていう感じ? 全体的な妖精の空気感がそんな感じだから、抜け駆けして教えるようなのも出てこないし? 仕事はするけど、巻き込まれたくないから避けておこって、そんな感じ? わかる?』

 わかる、とジェイドは力なく頷いた。案内妖精は面倒見がいい性格をしているが、それだって、魔術師が直に起こしている訳でもない騒ぎに、わざわざ首を突っ込んで解決してやる程のお人好しではない。妖精たちも同じこと。まあ解決するならする、しないでしない、で様子見よっか、五十年もすれば王だって死ぬし、というのが基本方針であったらしい。

 あーあー抜け駆けして告げ口しちゃった、俺が言ったってバラさないでね、と角砂糖をかじる妖精に、ジェイドは深く息を吐きだして頷いた。

「言わない。分かった……。その上で、教えて欲しい」

 不満顔をする妖精の前に、最高級の角砂糖をそっと追加して積み上げながら。ジェイドはしぶしぶ頷いた妖精に、解決策はある、と聞いた。妖精は面白がる顔つきで、あるよ、と言う。簡単なことであるのだと。

『王を変える。そこの彼でいいんじゃない? 彼、王の血縁だろ?』

 王の血というのは、特別なものだ。世界からの祝福を受け、時にはこうして、世界に対する呪詛すらをも撒き散らす。そうであるから妖精には、見れば分かる、のだという。あれをさっさと戴冠させればいいと思う、と告げる妖精に、ジェイドは真剣な顔で、ゆっくりと首を横に振った。

「妖精の丘に除草剤撒いてきてください、とか言いかねないからやめて欲しい」

 なんの話してるんですか、と問われても答えたくない。気にしないでください、と告げれば、青年はふぅんと目を細め、首を傾げてみせた。その他で、というと妖精は困った顔で口ごもり、しばらくなにかを考え。王が変わればいいよ、と言った。その心が。国を守り、愛し、慈しむ王のものに変われば、戻れば、それでもいいよ。それでいいんだよ。

 それができるなら、と妖精は言った。弱い人の心が、一度壊れてしまったそれが、元に戻るのは困難であるのだと。長い時の中で見知ったが故の、やさしく憐れむ微笑みで。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る