あなたが赤い糸:52


 女難の相が出てるからまっすぐお家に帰るんだよ、とシークに言われたのは三十分前のことである。ジェイドは視線をそらして床のモザイク模様に使われたタイルの欠片を数えながら、お前今度はなににハマったの変な宗教はやめておきなって言っただろ明日悩み聞くから、と言った己の判断を悔いていた。

 悔いていたが、信じられなかったのもシークの日頃の行いあってのことだ。一月前には願いが叶う植物に水をやり始め、半月前には運気が向いてくる謎の果物を買い込み、一週間前には希望を拾える鞄に小石を詰め、三日前には市場で騙されて幸せになれる壷なんぞを買ってこなければ、もう少し真剣に忠告を聞き入れることだって出来た。

 異界生まれの少年は『学園』を卒業したからこそ、やや精神の均衡を欠き、なにかにすがりながら日々を生きている。青ざめた頬に血の気の色が戻る為にそれが必要なのだとしたら、無理に取り上げてしまうのは、あまりに哀れに思えた。でも買い物癖は改めさせなければ、と息を吐き、ジェイドはそろそろと室内を見回した。

 砂漠の王宮、その一室である。しかし見覚えがまったくない。魔術師が立ち入ることのできる場所というのは、自由なようで厳密に定められており、連れて来られたのはその外側の一角だったからだ。その上、入り組んだ廊下を進んだ先にある、隠し部屋である。

 部屋に放り込まれたと同時に取り払われた目隠しの布を眺め、ジェイドは深々と息を吐き出した。視覚は塞がれていたものの、身体感覚は狂わされず、魔力も封じられることはなかった。視覚ひとつ奪われたとて『傍付き』として訓練を受け、『魔術師』として成長したジェイドから位置感覚を奪うには至らずに。

 だからこそ、ジェイドは胃の痛い息を深く吐き出した。現在位置は王のハレム、その中か、極めて近いどこかである筈だ。当然のことながら、魔術師はハレムに自由な出入りを許されていない。緊急時に王を呼ぶ為の立ち入り許可はあるものの、自主的な意思で赴くことは禁じられている。

 立ち入り禁止区域に無断侵入した罪と、ハレムでの不貞を疑われる、上にシュニーに今度こそ浮気断定されて当主がジェイドの『お屋敷』身柄監禁計画を実行する可能性の高さに微笑み、ジェイドは一番罪が軽そうな魔術の行使、及び不意の事態への徹底抵抗を決意した。

 他のなんであっても悪いことは悪いことであるから、事故であろうと女難であろうと、罪を償う覚悟くらいはしているが。シュニーに浮気だと思われることも、それが原因で体調を崩してしまうことも、絶対に許容できない。なにせシュニーは新しい命を育てている最中だ。負担が大きく、心痛から枯れかねない。

 そこまで分かっていてほいほいとりあえず付いて行っちゃうのが君だよね、と呆れるシークの幻を丁寧に無視し、ジェイドはようやく立ち上がった。シークも一度、背後から不意に襲い掛かられて視覚を塞がれたりしてみればいい。反射的な抵抗を意思の力で抑えきった己の判断は、あの時点では賞賛されるべきだった。

「……女難かぁ……」

 現時点で受けたくない災厄第一である。女難。ため息をつきながら、ジェイドは閉ざされた扉を注視した。鍵はかかっているだろうが魔術で補助をすれば蹴り破れるし、見張りも数名程度なら問題なく地に沈められる。あまり騒ぎになることは歓迎できないが、人が来る前に最短距離で脱出すればなんとかなるだろう。

 よし、と荒事への覚悟を決めるのと、空気が揺れたのは殆ど同時だった。ぱたぱたと掛けてくる軽やかな足音。息つく間もなく鍵穴が鳴り、外側から扉が押し開かれる。甘い化粧のにおいがふわりと漂った。灰色に青緑が宿った、鋼色の瞳。艶やかな夜そのもののような、黒檀の髪。煮詰めた飴色の肌。ハレムの女で間違いない。

 王の寵愛する、たったひとりの妃。正妃に最も近いとされる女だった。幾度か王が伴っているのを見たことがある為、顔を知っている相手である。向こうがジェイドを認識していたかは定かではない。女難かぁ、としみじみ遠い目になりながら、ジェイドは息を吐いてその場に跪いた。

 成熟した、きよらかなうつくしさを持つ女である。少女めいた印象を残して完成させる『花嫁』とは、全く別の印象を与える、どこか瑞々しい雰囲気を持つ妃だ。きれいな人だとは思う。しかし、じぇいどのこのみはしゅにじゃないの、と涙ぐむ妻の姿を想像してしまったが為に、ジェイドは世を儚みたい気持ちになった。

 一刻も早くこの場から立ち去りたい。なんらかの手違い、人間違いであることを祈りながらじっと動かないでいるジェイドに、息切れをした女の、震える声が弱々しく響く。

「この……この方が、『お屋敷』の……魔術師の……?」

 はい、とジェイドを連れてこの部屋へ連れてきた、恐らくはハレムの警備兵の声が答える。女は、ああ、と息を吐いた。ふたりにして、と女が懇願する。王の寵妃。どんな我侭でも叶えられるだろうと囁かれる女は、けれど、切実な祈りを乗せてその言葉を囁いた。

 どうか声を聞かないで。言葉を。聞こえてしまっても忘れて。ふたりにして。ふたりだけに。陛下に対する裏切りだけはしない。それだけは。私を救ってくださった、大切にしてくださる恩義ある方を、裏切ったりなどはしない。だからどうか、おねがい、ふたりに。わたしたち、ふたりだけに、して。

 本当に臓腑の底から全力でお願いするからそれだけはやめてほしい、とまがおになるジェイドの視線の先、無常にも扉が閉じられた。いかなる理由があろうとも、仕える王の寵妃と閉ざされた部屋でふたりきりになったことが知れたら大問題である。失礼します、と立ち上がって扉へ駆け寄るジェイドの腕を、女は強い力で引き留めた。

 震える手の、腕の、渾身の力だった。たおやかな姿からは想像できない力に、ジェイドは息を飲んで女を見下ろす。ハレムに現れて十数年、王の寵愛を一身に受け続ける女の顔は、青ざめていた。体調が悪いのではない、と『傍付き』の目が冷静に判断を下す。女はひどく緊張していた。それがなんの理由かまでは、分からなかった。

 放してください、と言うべき声が喉の奥で封じられる。血の気を失った白い爪を、ジェイドはじっと見つめていた。いかないで、とか細く女が乞う。大変なことをしているというのは、分かっています。でも、どうしても、あなたに、聞きたいことがあって。だから。おねがい、どうか、いかないで。ここにいて。

 どうか、と。一粒だけ落ちる雨のように。ぽつ、と言葉が零れたきり、響かなくなってしまった。困ったな、とジェイドは眉を寄せた。砂漠の王は魔術師が敬愛するに相応しい男だ。しかしやや、魔術師を『物』として扱いすぎる傾向にある。シュニーが大騒ぎしてようやく、ジェイドがゆっくり休めたように。

 片や寵妃、片や『お屋敷』がついているとは言え『物』たる『魔術師』である。よくて禁固、最悪斬首の可能性が頭をちらついた。『お屋敷』は決してそれを許さないだろう。王と『お屋敷』が対立すれば、砂漠の財貨が枯渇する。早ければ数年のうちに。確実に。

 お許しください、と囁くジェイドに、女は震えながら顔をあげた。血の気を失ったくちびる。鋼色の瞳が、ジェイドの姿をしっかりと見る。灰色に青緑が宿った、鋼色の瞳。その色に覚えがあって、あれ、と思うジェイドに、女は希望に触れたように笑った。

「やっぱり……あのこは、『お屋敷』で……生きているのね……?」

「……あの?」

「わたしのぼうやが、今も……」

 ぼろ、と涙が零れ落ちる。後から、後から、零れ落ちていく。ああ、と呻いてしゃがみこんでしまった女を置いて駆けて行く訳にも行かず、ジェイドはつい癖で、布で涙を拭ってやった。あ、しまった、と思ったのは女がジェイドを見て、きょとんとした顔をしてからのことだった。

 すみませんっ、と淡く叫んで両手をあげたジェイドに、女は幾度か瞬きをして。ふわ、と陽だまりのような明るい笑みを浮かべて、くすくすと肩を震わせた。

「優しいのね」

「忘れてください……。許可なく触れましたことを、どうぞお許しを」

「はい。ええ、もちろん、許します。……ですから、どうか話を聞いてくださいな。『お屋敷』の魔術師さん」

 いえ俺はこれでも一応は砂漠の王の魔術師なんです、と呻くように告げたジェイドに、でも『お屋敷』の方なのでしょう、と女は微笑んだ。

「奥様が、『お屋敷』の方なのでしょう……? ですから、毎日、そちらと……王宮を通って生活してらっしゃるのだと、陛下にお聞きしました」

「そう、です、けど……」

 ジェイドの奥方が『花嫁』であったことは、極秘事項である。なにせ『傍付き』が、よりにもよって己の『花嫁』を娶ったとなると、外へ嫁がせる為の養成機関としての『お屋敷』の、そもそもの前提が覆されないからだ。目を泳がせて同意するジェイドに不思議そうにしながらも、なら、と女は、どこか熱に浮かされた声音で囁いた。

「そこで働いている人たちとも、顔見知りなのでしょう?」

「……全員の顔と名前は、到底一致しませんが」

 ジェイドが関わる人員も、判別がつくのも、全体の一割か、二割にも満たないだろう。『花嫁』に関わらない裏方の数は、それこそ小規模な都市の人員ほどいる。王都の半数は、なんらかの形で『お屋敷』関係者だ、とも冗談めかして言われるくらいなのだ。『花嫁』が乗る馬車の、馬の世話係という所まで雇用は生まれている。

 恐らく、女が考える『お屋敷』の規模と実際の所には大きな隔たりがある。それをどう説明したものかと眉を寄せるジェイドに、女はそれでもいいの、と言った。

「だってあなたは、わたしを見て、覚えのあるような反応をしたわ。ねえ、見覚えがあるのでしょう……? わたしの瞳の色を、あなたは『お屋敷』で見たのでしょう……っ?」

 ならばそれが、わたしの知りたい唯一のこと。女は悲鳴のような声で、ジェイドに教えて、と縋りついた。このハレムへ迎えられる前。わたしがまだ、ちっぽけな辺境のオアシスの、少女だった頃。なにもかもを忘れてしまっている間に、何処へとやられてしまったわたしの息子は、『お屋敷』で生きているのでしょう。

 そうして、血を吐くような声で震えながら呼ばれた、ひとつの名に。ジェイドは確かに、覚えがあった。

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