あなたが赤い糸:51
おなかがいたい、とミードが弱々しく訴えたのは、年明けを数日に控えた深夜のことだった。すでに予定日は過ぎ去っている。呼び集められた産婆たちが、さてどうしたものかと顔を突き合わせ、日夜相談を重ねている頃のことだった。ラーヴェはすぐに用意を整え、当主へその旨を通達した。
ジェイドがそれを知ったのは、日が昇って朝食を終え、ゆったりと午前中の予定を相談している時のことだった。ラーヴェの補佐たるアーシェラが心配に顔を曇らせながら現れ、ミードの出産が始まったことを告げたのだ。『お屋敷』は常と変わらぬ空気を保っていた。宝石たちに動揺が伝われば、それは容易く変調となって現れる。
シュニーに、特別できることはなかった。当主はこの日の為に医療体制を整えなおしていたし、ミードの世話役たちも出来る限りのことをして待っていた。傍にはラーヴェが付いているのだという。そこは御当主さまでなくて対外的に大丈夫だったんですか、とジェイドはアーシェラに冷茶を飲ませながら苦笑した。
なにせ深夜からなにも口にしていないのだという。ジェイドはシュニーにアーシェラを引き留めるよう頼みながら、部屋を抜け出てその場所へ向かった。出産の為に用意された部屋の前。入れ替わり立ち代わり、産婆や医療師たちが出入りしているその周囲に、祈るように身を寄せ合っていたのはミードの世話役たちだった。
ラーヴェはいない。扉の向こうで、ずっとミードについているのだという。まあ、ラーヴェのことだ。周到に用意を整えているか手配はしているだろうし、一日くらい飲まず食わずでも多少は応えるだろうが、後に響かせることはしないに違いない。多分。
『傍付き』に対する雑な仲間意識を遺憾なく発揮し、ジェイドは離れたがらない世話役たちを宥めすかしてシュニーとの居室へ連れて行った。なにも言い残して行かなかったが、シュニーはすっかり理解していて、軽食と茶の準備が整えられていた。
己の世話する『花嫁』でなくとも、無碍にできないのが『お屋敷』勤めの本能的な習性だ。はいどうぞ、と勧められて、世話役たちは苦笑しながら椅子に腰を下ろし、それぞれに軽食や茶を口に運び、息を吐く。ありがとう、さすがだね、えらいね、と褒めると、シュニーはミードそっくりの仕草でえへん、と胸を張って見せた。
当主の少年がそっと顔を覗かせたのは、世話役たちが空腹を思い出し、それを満たして落ち着いた頃だった。深夜からわらわらと集まって動かなかった者たちが、そろって姿を消していたので、気になって探していたらしい。ここにいるならよかった、と安堵に零れた呟きに、世話役たちは照れくさそうに当主へ向かって一礼した。
複雑な思いは、各々に消化しきった後であるらしい。世話役たちの表情は一様に、当主に対する淡い感謝や敬愛に満ちていて、ジェイドはそれに胸を撫でおろした。少年だけがそれに落ち着かない様子で視線をさ迷わせ、シュニーの誘いも断って何処ぞへ戻ろうとするので、ジェイドは妻に許可を得てから、当主を送ることにした。
休暇中のありとあらゆる行動については、シュニーの許可制となっている。ゆっくりしてきても大丈夫よ、ミードの様子もちょっと教えてね、と告げるシュニーが、強がりではなく本当に落ち着いて、望んでそう告げたことを確認してから、ジェイドは当主を連れて歩き出した。
少年はシュニーとジェイドをじっくりと見比べ、ほっとした表情で頷いた。ゆっくりと歩くジェイドに並びながら、少年は非難がましげな声で傍にいてやってよかったんだ、と言った。
「あんなに、忙しくしていたんだから……。抗議文だって本当は、何回か出そうとしていたのに……シュニーが止めてたんだ。知ってたか?」
「いえ。……抗議されようとしていたのですか? リディオさまが?」
「うん? ……うん、そうだ。そうだけど……」
立ち止まって、まじまじと、少年は名を呼んだジェイドを見つめてくる。急にどうしたのだろう、と不思議がる表情だった。しかし非礼であるだとか、不快感を向けてくることはなく。どこかのんびりと考え込んだのち、少年はなにも言わず、こく、と頷いて歩き出した。
「ジェイドが、あんなにシュニーを放っておくだなんて、思わなかったから」
「……返す言葉もございません」
「頑張ってたのは、知ってる。結婚して、安心しちゃったんだろうな、とも、思った。でも……でも、あんまりに、シュニーは我慢してた。もう方々から怒られた後だろうし、今日、いま、言わなくても、いいとは、思ったけど……。顔を見たら、どうしても。……でも、もうしないんだろ? そう聞いた。……ほんとう?」
ひた、と視線を向けられて。嘘偽りなく、ジェイドはそれに頷いた。当主は安堵しきった表情で華憐に微笑し、ほんとうなら、それでいい、とあどけなく呟いて足を止める。視線の先には、ミードの出産室があった。一時よりは落ち着いたが、それでも見ていると若い看護師がひとり出てきて、ぱたぱたと何処かへ駆けて行く。
じっと。見ているだけで、少年はそこへ近づこうとしなかった。
「……ラーヴェが傍についている、とのことですが」
「うん。知ってる」
「……よかったんですか?」
うん、と面白がる響きで呟いて、当主の瞳がジェイドを捉える。くす、と静かに少年は微笑した。首が傾げられる。
「ほんとに忙しかったんだな、ジェイド」
暗に、知らないことをからかいながら、当主は穏やかな口調でそれを告げた。ミードより早く、ふたりの『水鏡』がひそやかに出産の時を迎えた。当主たる少年はいずれもそれに立ち会ったが、貧血でぱたぱたと倒れ、役には立たず。以後、出入りが禁止になっているのだという。
「だから、ミードの傍には代理としてラーヴェがいる、ということで最初から決まっていたんだ。……ちょうどいいだろう?」
周到な用意を整えきったことに、満足した笑みで告げられる。ジェイドは苦笑しながら、はい、とだけ頷いた。どこから、なんの為の準備を整えていたのか。分からないが、少年がそうしよう、と思ったことがきちんと成されたのなら、それでもう良い気がした。
部屋まで送ります、と告げたジェイドに、少年はそれを積極的に歓迎していない笑みで頷いた。構ってくれなくていいのに、と顔に書かれている。気が付かなかったことにして、一歩を踏み出そうとした時だった。す、とジェイドの目の前をひかりが横切った。金色の、魔力のひかり。妖精のひかりだった。
『あ、ジェイド』
は、と声をあげるより早く、声をかけられる。
『なんか、郵便出しに来たらジェイドが長い休みだっていうから、珍しいこともあるな、と思って見に来たんだけど……。あれ、なに? 大丈夫?』
「ヴェルタ……」
現れたのは四枚羽根の鉱石妖精だった。名を、ヴェルタという。ジェイドを迎えに来た案内妖精だった。言葉の通り、ジェイドの様子を見に来たら、ミードの出産に遭遇して戸惑っているらしい。こどもが産まれるんだ、と簡単に説明してやると、妖精は腕組みをして、へぇあれが、と感心した声で言った。
『でも、あんなに痛がってて……なにか難しいんじゃないのか? 医者も、何人も出入りしてるし……。負担がかかりすぎてるように見えたけど』
「……ああ」
分かっていた。『花嫁』の脆い体に、出産は耐えきれないことが殆どだ。それでも、祈るように、大丈夫だよ、と告げるジェイドを見つめて。妖精はふぅん、と頷いて羽根をゆるりと明滅させた。
『祝福してやるよ』
「……え?」
『だから、祝福してやる。俺が。あのこを。……そうは言っても、まあ、痛みを軽くして、ちょっと気持ちを和らげてやるくらいのことしかできないけど。頑張るのは本人だ。負担を乗り越えられるかは、あのこにかかってる。でもさ、ジェイド……知り合いなんだろ? 不安なんだろ?』
そんな顔をするものじゃないよ、俺の魔術師、と。ヴェルタはちいさな手で、ジェイドの頬をゆっくりと撫でた。俺の案内した魔術師、旅をして導いた俺のいとしご。歌うように囁いて、妖精はやんわりと目を細めて笑う。
『気まぐれだよ。ちょっと助けてあげる。それだけだ』
「……ジェイド?」
不安げに腕を引かれて、ジェイドは息を飲んで傍らの当主へ視線を向けた。少年には、ジェイドがいきなり一人で話し出したようにしか見えなかっただろう。なにかいるのか、と問う当主に妖精が、と告げる間にも、ヴェルタはすいと空を泳いで部屋の中へ入り込んでしまった。
ジェイドは戸惑いながら案内妖精がいたことと、その申し出を当主へと伝えた。出産を耐えきる『花嫁』は稀である。のちの記録を正しくする為にも、偽りは許されなかった。妖精が、と呟いた少年は、そうかと安堵に胸を撫でおろして微笑した。なら、ミードは助かるんだな。よかった、と囁きはほんものの喜びに満ちていた。
当主を部屋へ送り届けて、もう一度出産室の前を通りかかると、柔らかな薬草の香りが漂っていた。妖精の祝福が成されたのだ。お礼を言おうと姿を探すが、気まぐれな妖精はすでに花園に帰ってしまったらしい。苦笑しながら部屋へ帰ったジェイドは、シュニーの前にひとりの看護師の姿を見つけて目を瞬かせる。
どうしたの、と問うより早く、ジェイドを見つけ出したシュニーは、満面の笑みで胸をはった。
「ほめて!」
「う、うん? えらいな、シュニー……? なぁに、どうしたの?」
「うふふん。シュニーねえ、おかあさんになるの! じぇいど、おとうさん!」
えへん、とミードばりにふんぞりかえるシュニーに、そっかシュニーはかわいいなそっか、と頷きかけて。意味を理解して。ジェイドは思わずシュニーを抱き上げてその場でくるくる回り、見ていた看護師に安静にさせてくださいっ、とさっそく特大の雷を落とされた。
ミードの出産は無事に終わった。としごとしご、みぃのけーかくとおりっ、とくったりしながらも、知らせを聞いて喜ぶミードの状態は安定していて。ありがとう、と笑うラーヴェに、ジェイドは心からおめでとう、と言った。
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