あなたが赤い糸:50



 数日はまま、ままぁ、と泣き暮らしたミードは、女から残された手紙を受け取り、ようやくすこしだけ落ち着いた。手紙を読んでは泣き、まま、まま、とラーヴェにすがりつくことこそ変わらなかったが、ただ闇雲な悲しみではなくなった。ようやく、失ってしまったことを悲しめるようになったのだ。

 喪失はミードにとってあまりに突然で、予想もしていなかったことで、いなくなったことすら受け入れられないでいたらしい。ままにも抱っこしてもらうんだからっ、とふくらんだ腹を撫でては誇らしげにしていたのだと、ラーヴェがジェイドに零し聞かせた。そういえば少女は一回も、うん、とは言わなかったのだと。

 手紙はラーヴェにも、ジェイドにも、シュニーにも一通ずつ届けられた。ありがとう、元気でね、と書かれたそれは単なる別れの挨拶のようだった。数日後、もしくは数ヵ月後にまためぐり合える期待をそっと残すような、特別なもののない、悲しみを残さない言葉だった。またね、と書かれていないだけの、手紙だった。

 ミードのものに関してはもうすこし書かれていたのかも知れない。しかし『花嫁』はラーヴェにすらがんとしてそれを見せず、届けた女も内容までは分からないとのことで、ジェイドがそれを知ることはなかった。しかし少女は、己がいなくなった後にミードが落ち込むことを正確に把握していたのだろう。

 ミードは手紙を持ち歩き、ことあるごとに開いては、すんすん鼻を鳴らしてがんばる、と気を取り直すことが多くなった。そろそろ臨月も近くなってきた頃だ。気持ちが前向きになり、体調もぐっと落ち着いてきたので、医師やラーヴェ、当主の少年も胸を撫で下ろしてその日を待った。

 日々はめまぐるしく過ぎて行った。『学園』に入学し、『お屋敷』との往復を始めた頃と同じくらいの忙しさで、ジェイドの毎日は過ぎていく。王宮魔術師は聞きしに勝る忙しさで、ジェイドは王宮と『お屋敷』を往復し、時には数日をかけて砂漠の国内を飛び回った。

 思えばそこではじめて、ジェイドは『花嫁』『花婿』が持ち帰ってきた財貨の行き先と、その末をきちんと目にしたのだった。国に集められたその金品は、あらかじめの計画に従って各地のオアシスへ公平に分配される。時に金銭、時に宝石、時に水や食料、衣服。

 それが正しく行き渡ったか。どう使われていくか。過剰ではないか、不足はなかったか。公平であったか。公平とはなにか。望まれているものはなにか。生きていく為に、生かしていく為に、どの場所になにが必要なのか。ありとあらゆる情報が国中を循環する。血液のように、あるいは、一陣の風のように。

 魔術師は国中を駆け巡る。その目で見て確かめ、知り、時には感情や個人の倫理観を配したが故に公平な、魔術によってそれを判断する。魔術師はその為に端々まで足を運び、見知って、それを王へと報告する。一月は瞬きと共に終わり、一つの季節は呼吸と眠りの間に終わっていった。

 ジェイドが『学園』の生徒のように、一月いっぱいまでの長期休暇を言い渡されたのは、年末を目前にした頃だった。それまで一日か、二日の休日しか与えられていなかったことに、シュニーがついにかんかんに怒って、『お屋敷』の当主を通じた正式な抗議文を王へ提出した為だった。

 ジェイドはしゅにのでしょっ、こんなに忙しいのは浮気でしょっ、王様はジェイドに浮気させてるでしょっ、ジェイドはしゅにのっ、しゅにのなのかえしてかえしてもうだめやぁああだめなんだからぁああっ、という主張をものすごく丁寧にした文書であったのだという。

 かくして取り戻されたジェイドはご満悦のシュニーを膝に乗せ、ミードを見舞うことの運びとなったのだが。シュニーが我慢して我慢して、そうして噴火するまでの一部始終。それをつぶさに見ていたミードは、ジェイドにつつんっ、として顔を背け、いけないひと、と叱りつけた。

「しゆーちゃんをあんなに寂しくさせるなんて。しかも、しかも、うわきをするだなんて……!」

「……本当に心から申し訳なく思っていますが、俺も別に好きで忙しくなっていた訳ではなくて。でもあの、とりあえず……仕事の多忙は浮気に……?」

「ふくまれるでしょおおおっ!」

 ミードより先に、シュニーが怒りに怒った声でそう主張した。はい、すみません、と肩を落としてしょげるジェイドに笑いこそすれ、ラーヴェから助けの手が伸びることはない。微笑む目は、冷ややかな色を消さないままだ。こと『花嫁』に関して、『傍付き』の判定は特に厳しい。

 シュニーさまは耐えてらしたよ、分かるね、と友人に囁かれ、ジェイドは視線を逸らしながら頷いた。そんなに放置していたつもりはない。決してない。ないのだが、ある意味敵地である。頷く以外の選択肢は存在していなかった。申し訳なく思っていることも、本当であるのだし。

 出張を除けば毎日帰ってきていたし、休日も必ずふたりで過ごしていた筈なのだが、朝早く夜遅い日が多く、寝顔を見る日々であったのも確かなことである。んもおおお、んっもおおおっ、とぷりぷり怒ってジェイドにくっつくシュニーは、そういえばすこし、痩せてしまった気がした。

「ごめん……。本当にごめんな、シュニー」

 世話役たちの渾身の尽力のかいあって、ジェイドが撫でる『花嫁』の髪はさらりとした指通りを保っている。お休みの間はずっと一緒じゃなきゃだめなんだから、シュニーのだんなさまのジェイドなんだからっ、と涙目でぐずって求められるのに、うん、うん、とひとつひとつ返事をしながら、胸を撫でおろす。

 シュニーがジェイドの妻となってなお、『お屋敷』に留まれることになったのは本当に幸運だった。そうでなければ早晩、枯れてしまっていたかも知れない、と思ってぞっとする。魔術師の身柄は王のものだ。物なのだ。忠誠と献身的な働きが求められ、魔術師として、ジェイドはそれに強い苦を感じたことはなかったけれど。

 学び舎にいた頃よりずっと傍にいられなくなったことを、シュニーはどんなに寂しく思っていただろう。

「ごめん……。だんだん、仕事にも慣れてきたし、もう、こんな風にはならないようにするから」

「ようにするじゃないでしょっ! ならないでしょっ! しゅにもうさびしいのや! ならないんじゃないんだったら、ジェイドを王様に貸してあげないっ!」

「ならない。ならないよ。ごめんな、シュニー。約束する。ごめん……」

 怒って頬をぷくぷくにして、涙目でぐずっと鼻をすすり、シュニーはジェイドの胸をぺちぺち叩いてくっつきなおす。数日は恐らくこんな感じだろう。本当にごめん、としょげながら抱きなおすジェイドの腕の中で、シュニーは無言でごそごそと座り心地を調整していた。

「……ジェイドくん。もう浮気しない?」

 じぃーっと疑わしげに見つめてくるミードに、仕事は浮気に含まれましたごめんなさい、と力なく頷きながら、ジェイドは深々と息を吐く。

「しません……。『お屋敷』からの抗議文のおかげで、朝も遅くなるし、夜も早く帰ってきます……」

「んもぉ。ジェイドくんは、なんでしゆーちゃんを置いて、お仕事に行っちゃうの? しゆーちゃんのお傍にいるのがお仕事でしょう? ちがうの?」

「兼任なんです……。陛下の魔術師と兼任しないといけないんです……」

 俺だって片方だけでいいなら魔術師辞めてシュニーの傍にいたい、と心底思いながら、ジェイドは遠い目をして呟いた。王宮魔術師は職業ではあるのだが、辞職が認められていないのが残念な所だ。多忙な代わりに給料はすこぶる良いので、休日や長期休暇には気前よく豪遊する者が多い。

 けんにん、とたどたどしく言葉を繰り返し、ミードはくてんとあどけなく首を傾げた。

「なんで?」

「俺が魔術師だからですね……」

「んん……。わかった! わたしも陛下にお手紙してあげる!」

 だってジェイドくんはしゆーちゃんのだもの、まかせてっ、とミードは気合を入れた顔になった。その愛らしさ故に否定してしまうことができず、ジェイドはラーヴェにすっと視線を移動させた。止めて、と目で求めるのに、ゆったりと笑みが深められる。

 ジェイドには理解できてしまう。これは、ミードがやろうと思っていることなんだから喜んで受け入れようね、という『傍付き』の典型的なアレである。味方ではない。陛下ごめんなさい抗議文が増えます、と胃を痛くしながら思っていると、くいくい、と胸元の服が引っ張られる。

 ぷううううっ、とシュニーが涙目で頬を膨らませていた。かわいい、あっちがう間違えたえーっと、今なにか怒らせることしたかな、と考えながら、ジェイドはゆるくうっとりと目を細めて囁いた。

「なぁに、シュニー」

「しゅにをだっこしてるのに、じぇいどったらべつのひとのことをかんがえてる……! うわき……!」

「ジェイドくんうわきっ? うわきなのっ? いけないひと!」

 収拾がつかなくなるので、なにとぞ、ラーヴェはミードの口だけでも塞いでほしい。ちらりと視線を向けても、今日は体調がよくて元気で本当によかった、というほのぼのとした表情しか浮かんでいない。ジェイドの苦悩は、シュニーを放置した罰として恐らく積極的に推奨されている。

 ため息をついて、ジェイドは拗ねるシュニーを抱き寄せなおした。シュニーの為に生きていたい。傍にいたい。幸せでいて欲しい。それだけなのに。それだけのことが、いつも随分と、ジェイドには難しい。シュニーのことを一番に考えてるよ、好きだよ、と告げると、『花嫁』はくちびるをつんと尖らせながら頷いた。

 シュニー、と名を呼ぶと、不機嫌をやや和らげてくすぐったそうに笑う。ジェイド、と呼ぶ声は耳に優しく、甘く。触れては染み込むように、すっと甘く消えて行った。

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