あなたが赤い糸:49



 墓標なのだというそれは、手のひらに乗る大きさをしていた。結晶化した蜂蜜色の、ちいさな石。香炉の形に切り出され、角を丸く削って整えられている。あまやかな香りが染み込んでいるようなそれは、あまりにうつくしく、あいらしく、どこかいとけなかった。

 あまりにいとおしくて、それをどうしても、墓標だと思えない。前当主の少女の、墓標であるのだと。側近の女は五指をやわらかく折り曲げ、香炉のかたちをしたそれを包み込むようにして持った。目を細めて、己の指越しにそっと口づける。

 その仕草を、ジェイドは黙して見守った。場に集った『傍付き』たちや『運営』の数は数十に及ぶが、誰も一声も発さず、身動きさえしなかった。音のない真昼の、穏やかな静寂。青空に見守られる、中庭の片隅で行われている、それが葬儀だった。

 季節ごとに色とりどりの花が咲き乱れる、中庭の一角。群れそびえたつ建物の、渡り廊下や回廊の柱が、中庭に格子状の影を落としている。地に落とされた影模様の、淡い隙間。その一角に、女のてのひらから香炉がそっと下ろされた。

 丹念に耕された柔らかな土の上。木々と花の、淡い影と光差す場所。それがもし花の種であるなら。土に根を潜り込ませやがて芽を出し、花を咲かせる住処とするのに、とても良い場所だろう。『傍付き』たちが白い大きな花弁を、雨のように撒いて行く。ひえた甘い香りが穏やかに漂った。

 前当主の微笑みが見えるようだった。ジェイドは込み上げてくる感情をやり過ごすために、一度大きく息を吸い込んだ。体調が急に悪くなった、という幕引きではなかったのだという。少女はじわじわと弱っていった。それは当主の座を受け渡す前後から、『お屋敷』の誰もが知る事実のひとつだった。

 長くはない、ということも。言われずとも誰もが察し、知っていた。それは火が風に消されるように。あるいは糸が解けるように。やわらかく、そっと響くもののような終わりだった、と女は言った。抱き上げた腕の中で眠り、そのまま瞼を開かなかったのだと。

 女は。『花嫁』を失った『傍付き』の女は、白い花に埋められていく香炉の傍に座り込み、石の表面をずっと指先で撫でていた。過去、幾度かその光景を見たことがあった。この場所からどこへ行くこともなく枯れてしまった宝石たちは、決まって中庭の日当たりの良い場所に墓標が置かれて弔われる。

 その形は香炉であったり、咲いた花であったり、ちいさな動物や植物であったりと様々だ。それは決まって原石を元に作られる。不透明な蜂蜜色の香炉は、失われた少女の髪と、特に瞳の色を思わせた。蜜色の瞳を、時折、とろりと蕩けさせるように笑う。好奇心に満ちた、悪戯っぽい、それでいて穏やかに背を正して立つ。そんな少女だった。

 香炉の置かれた土の下に、少女はいない。脆い骨は殆ど残らず、灰は『お屋敷』の掟に従い、静かな砂漠へ還された。残るのは失われた空白と、いとけない墓標。七日間この場所に置かれた後、香炉は専用の廟へと移される。そこへ訪れる資格をジェイドは持たない。鍵を渡されるのは失った者だけだった。

 悼む気持ちを向ける形を、だから七日間しか目に写せない。ひとり、ひとりと立ち去り、日常の業務へと戻っていく『傍付き』を見送り、ジェイドはそこへ立ち続けた。ゆるゆると日が暮れ、茜色から紫紺の夜が足元へ降りてきても、その場を動けるような気持ちに、落ち着けることはなかった。

 あの少女にはもう永遠に会うことができないのだ。思えば幼少期に肉親から離されたジェイドが、はきと親しい存在を弔うのは、これが初めてのことである。『お屋敷』を訪れるきっかけとなった『花婿』たる祖父の死は、どこか遠くで行われ、終わったあとに旅支度と共に知らされた。死とは長く、そういうものだった。

 失うことに慣れていないのだ、と唐突に気がつく。時にあっけなく枯れてしまう宝石たちの存在は知っていても、シュニーと『学園』で必死だったジェイドが、それを強く意識することはなく。また、時折見かけた、中庭に座して動くことのできない少年少女の存在からは、焦燥に似た気持ちで目を逸らして生きてきた。

 あのように。足に立ち上がる力を、呼吸をする意思さえも乏しく失われてしまうことがあるだなんて、考えたくなかったからだ。シュニーが失われてしまう可能性が、あんな風に唐突にあるだなんて。だから葬儀にも出た記憶が殆どない。一度か、二度、花を捧げたことはある。それだけだった。

 ラーヴェは苦笑しながら、ジェイドに『傍付き』としての作法と決められた言葉をいくつか教えてくれたが、真っ先に花を捧げて以後、足早に区画へ戻ってしまった。ミードの体調が優れないのだという。少女とミードは、ジェイドの目から見て関わりの薄い母と娘であったが、情がないという訳ではなかったらしい。

 亡くなったと聞いた時からミードは嫌々と癇癪を起こして嘆き、つわりの重さと相まって、ここ数日はずっと寝台に臥せってしまっている。わたしがついているから、心配しないで、とシュニーに送り出されなければ、ラーヴェは決して傍から離れようとしなかっただろう。

 流れる心配は、今はなく。けれども長引けば分からない。難しい顔をして医師が告げても、でもでもだって、とミードは感情を落ち着けることができなかった。だって、だって、もうちょっとって。産まれたら、だっこ、してくれるって。よかったわねって、まま、いったもん。いった。みぃ、だから、まま、まま。

 おねえさまもいなくなったのに、ままもいなくなっちゃった。やだ、やだ、と泣くミードの手を握って、シュニーはラーヴェがいる、と囁いた。ラーヴェは絶対にいなくならないでしょ、シュニーも一緒にいるでしょ、ジェイドもいるでしょ。いなくならない。いなくなったの、悲しいね。シュニーも悲しい。一緒に悲しいのしようね。

 ジェイドもちゃんと、悲しい、してきてね。シュニーはミードとちゃんと待ってるから、悲しいのしてきて、大丈夫だからね。可愛がってもらってたでしょ。しゅに、ちゃんと知ってるんだから。いってらっしゃい、ジェイド。言葉に背を押されて、歩き、けれどもまだそこから足を踏み出すことができない。前にも。後にも。

 夜がもうそこまで来ている。冷えた花の香りはもうかすかに漂うばかりで、代わりにその白さが、淡い灯篭のようにくらやみに色をにじませていた。女は夜の訪れを意識しない顔つきで、ただ、墓標を撫でていた。ようやく、と伏せたまなざしが穏やかな感情を滲ませている。

 ようやく、あなたに、触れられた。

「……シルフィールは、あなたに……さよならを言えなかったことを、申し訳なく思っていました」

 息をして、ただそれだけを繰り返して時を過ごして。それだけをしていたい、という気持ちを落ち着かせて。女が口を開いたのは、もうあたりが暗く夜に覆われた頃だった。闇の中でも苦にならないのは、『お屋敷』のそこかしこに灯りが灯されているからだ。

 中庭を見下ろす回廊に、渡り廊下に、部屋の窓辺に。いつもより多く灯篭が置かれている。火が揺れている。鎮魂の祈りと、悲しみのように火の熱と影が揺れている。時折人影が現れ、女とジェイドを見下ろしては、しばらくしていなくなる。『お屋敷』の誰もが、前当主の喪失を悼んでいた。

 シルフィールさま、と。はじめてその名を口に出して呼び、あまりに慣れない響きだと思った。ジェイドは少女のことを御当主さま、あるいは前当主さまと呼び、誰も彼も、女もそのように呼んでいた。とうめいな響きのその名が、紡がれることはなく。口にすることはなく、耳にすることはなかった。

 悔やむように。それでいて、見えない鎖からようやっと解き放たれたように。のびのびと、ほっとした表情で微笑して、女はええ、と頷いた。

「『ジェイドくんに会いに行く暇がなかったの。だから、伝えてね。ありがとうって言っていたって』と。……眠る数日前は、とても元気で。たくさん話をしてくださいました。貴方や……シュニーさま、ミードさまに宛てた手紙や、日記もいくつか。落ち着いたらお持ちします」

「……話、されたんですか?」

 少女は側近たる女を、決して傍から離そうとはしなかったが、会話が多くある訳ではなかった。執着はしていたが、ふたりの間には常に距離があったように思う。だからこそ不思議な、安堵交じりの気持ちで尋ねる。女は香炉を撫でながら、いとおしく目を細めて微笑した。

「シルフィールも、御当主さまと同じように、元からの候補として育てられた方ではありませんでした。様々な条件が重なり、当主となられた……。その座は、あの方には、ほんとうは重すぎた。分かっていたのに……」

 それでも私たちは縋るしかなかった。あの儚くちいさな、あいらしい方に。シルフィールはそれに確かに応えてくださいました。ジェイド、あなたが知るように。ぽつりぽつりと、言葉が零されていく。ジェイドの他にも誰かが、暗闇の中で耳をそばだてている気配がした。

 女もそれに気が付いていたであろうに、咎めず。言葉を留めることもなく。告げた。

「頑張ったでしょう、と仰って。はい、とても、と言ったら……じゃあ、もう、いいでしょう、と」

 くしゃりと顔をゆがめて笑い、浮かぶ涙をそのままに。女は震える指先を、香炉に押し当て囁いた。

「名前を呼んで欲しい、と」

「……なまえ」

「『花嫁』だった時のように。名前を呼んで、好きと、言って欲しいと……それが」

 あの方がずっと秘めていた、『とびきりのわがまま』の中身でした。シルフィール。名を宝物のように告げて、呼んで、囁いて、女は引いた指先を、己の口唇に押し当てた。暗闇の中から、いくつもすすり泣きが響く。聞き慣れぬ少女の名がさわさわと空気を震わせる。微笑んでいた少女の、返事をする声だけが響かない。

 悪戯っぽく笑いながら、少女がふと姿を見せてくれないものか、ジェイドはあたりを見回した。そんなことはないと分かっていて、それでも、期待しすがる程に、会いたかった。さようなら、も。ありがとう、も伝えられないまま。名を呼ぶこともできないまま。失ってしまった『花嫁』だった。

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