あなたが赤い糸:53
おかえりなさいと抱き着いてきたシュニーにふんふん匂いを嗅がれ、しらないおんなのにおいがするううううっ、と怒り切った声で叫ばれた所で、ジェイドは問答無用で湯殿に叩き込まれた。実行したのはラーヴェである。ものすごく良い笑顔で服を着たジェイドを背負い投げて湯へ叩き込んだ友人は、さっさと姿を消していた。
弁解はいいから匂いを消しておいで、と言い残して居なくなったラーヴェに、その発言はいまひとつ俺の素行を信じてない、と遠い目になりながら、ジェイドは肌に張り付いた服を苦心して脱いだ。これはこれで女難である。シークはすこぶる正しかった。
帰ってくる前に城の部屋に寄り、肌を濡れた布で拭って予備の服に着替えてきたのだが、シュニーは誤魔化せなかったらしい。髪もしっかりと洗って出てくると、用意された着替えの上に、当主からの呼び出し状がぽんと置かれていた。シュニーはミードとレロクと一緒にラーヴェが見てるから、あがったら来ること、と書かれている。
これはもしかして今日は当主のお説教を受け、夜には不機嫌なシュニーを宥め、明日は陛下の尋問を受けながらシークに指さされて笑われる流れなのでは、と遠い目をして思い、ジェイドは深々と溜息をついた。着替えてきた服は、どこかへ消えていた。恐らくもう手元に戻ってこないに違いない。
今頃庭で焼かれていたとしても驚かなかった。のろのろと乾いた服に着替えながら、ジェイドはどこかぼんやりと瞬きをした。言葉が。女に懇願され語られた言葉が。言葉たちが。頭の中でぐるぐると回っていた。響いていた。強い匂いに、あるいは酒に、悪く酔ってしまった時のようだ、と思う。
あるいはシュニーは、それを感じ取って『しらないおんなのにおい』だと怒ったのかも知れなかった。口元に手をあてて、吐き気を堪えるような気持ちで思考を巡らせる。語られたのは女の半生だった。十数年前、ハレムに迎えられる前の、女のことだった。
砂漠の端、ちいさなオアシスで女は生まれた。貧しい暮らしであったのだという。幼い思い出はおぼろげで、ただ女の兄が物語をそらんじてくれたことだけを、よく覚えている。家に本らしい本はなく、あったとしても売られてしまうだけだった。時折立ち寄る商人や、王都の者に物語を強請っては、兄は妹に言葉を語り聞かせた。
母はいた。父はいなかったように思う。女はそう目を伏せて告げ、理由は今も知らないけれど、と柔らかな声で囁いた。『花嫁』の恵みがオアシスに配られ、ひととき貧しさは和らいだ。けれども生きていく為の金銭は水のように流れていき、またすぐに、空腹を抱えて眠りについた。寝物語を枕にして。
そうして、女に初潮が来た頃だった。突然に縁談が決まったのだという。相手の顔も年齢も、幼い女には知らされなかった。ただそれで、もうすこし裕福な暮らしができる筈だと、母が上機嫌でいたことは覚えていた。売られたのだ、とすぐ理解した。その数日後のことだった。母が死んだ。兄に殺されたのだった。
やさしかった兄は、拠り所であった妹を奪われると知っておかしくなってしまった。兄妹は生まれたオアシスを捨てて逃げだした。僅かばかりの金品を手に。頼る者もなく。宛てもなく。これ以上は失う物もなく。兄妹は砂漠をさ迷った。ちいさなオアシスからオアシスを転々と移動した。
砂漠の旅人は、常に歓迎を受ける。幼いふたりを訝しむ者もあったが、温かな食べ物と水は惜しみなく分け与えられた。着られなくなった古着や、靴。時には髪飾り。僅かな小遣いを与えられることもあった。妹は泣いて喜んだ。こんなに優しくされたことはない。こんなに、豊かだったことはない。
兄は妹の手を引いて微笑んだ。よかった、と言って幸福そうに微笑んだ。手は離されることがなかった。どこまでもどこまでも、その手を引いて旅をした。一年が過ぎ、二年が過ぎた。きっかけがなんであったのかはもう忘れてしまった、と女は言った。兄は男となり、妹は女になった。空き家に移り住み、生活をはじめた。
懐妊が分かったのはすぐだった。しあわせになろう、と男は喜んだ。ちゃんとした家族をつくろう。男はそう言って、王都へ働きに出た。『お屋敷』に荷を運ぶ商人の、護衛に雇われたのだという。一月に一度、男は給金を持って家に駆け戻って来た。
盗み見た『お屋敷』の暮らしを、男は女に語って聞かせた。そこは楽園のようだった。豊かで、なに不自由しない暮らし。うつくしく、麗しい人々。物語として、女はそれを聞いた。あまりにうつくしくて、夢のようで、嫉妬するには遠かった。男は誠実に、懸命に働いた。女はふくらむ腹を撫で、その帰りを待っていた。
ある日。男は帰らなかった。何日待っても、半月経っても、ひとつの便りもないままだった。女は苦心して人から人へ訪ね歩き、やがて、男が殺人の咎で牢にいることを知った。母を殺めたことが、今になって知れてしまったのだった。男は牢で黙ったきり、なにも語らないのだという。
殺しの罪は、死によって償われるのが砂漠の習わし。理由を語れば和らぐものもあるだろう、と周囲がいくら説得しても、男はがんとして口を割らないのだという。女は息を失うような気持ちで、胸をつまらせた。ふたりは、共に逃げた。罪は女にも及ぶだろう。男は、兄は、妻を、妹を庇っているのだった。
臨月の近い腹を抱えて。止める者の声も聞かず、女は一心に王都を目指した。ふたり、手を引かれて歩いた日々を思い返しながら。どうぞこれ以上奪わないでと泣きながら歩き続けた。ふ、と意識が途絶え。女が目を覚ましたのは、王都の端にある館の一室だった。
うつくしい少女ばかりが暮らす館を、『お屋敷』かと尋ねておかしげに笑われた。砂漠で倒れていた女を、ひとりが見つけて保護したのだという。『お屋敷』に用事があるなら繋がりがある場所だから、誰ぞが来たら聞いてみればいい、と囁くひとりの少女に、女は混乱しながらなにもかもを訴えた。
少女が特別、聞き上手だった訳ではない。ただ、恐らく、誰かに聞いてもらいたかったのだ。苦労ひとつしたことのないような、やわらかいてのひらの少女だった。女と、同い年くらいに見えた。女はその時ようやく、十五になったばかりだった。まだ幼さを失いきらぬ年頃で、心は擦り切れ、疲れ果てていた。
生まれ、育ち、兄のこと、母のこと、腹の子のこと。牢に捕らわれた夫のこと。泣きながらなにもかも話す女を少女はやさしく抱き寄せて、なにも言わずに背を撫でてくれた。しばらくここで療養なさい、と少女は告げた。流れかけていたの。動いてはだめ。館にはお医者様もいるから、診て頂きましょう。ここで産めばいいわ。
ここはどこ、と女は問うた。少女は甘やかに微笑み、館、とだけ告げた。わたくしたち『水鏡』の住まう館。ご安心なさい、お客さま。この場所を知る者はすくなく、王とて、わたくしたちの領域へは手出しできない。たおやかな言葉の意味を知らされることはなく。女は夢のような日々を過ごした。
眠り、食べ、眠り、医師の診察を受ける日々。そうして腹の子が産声をあげた日の、夜も深まった頃だった。少女がそっと寝室を訪れ、赤子に目を細めてかなしそうに笑った。その仕草で、女は分かってしまった。赤子の父は、もういないのだ。少女はそれを知っていて、この日まで、女に隠しおおせたのだ。
砂が零れ落ちていくような日々が始まった。泣く赤子に乳を含ませ、必死になりながら、心からなにかが零れ落ちていく日々だった。得たのに、失ってしまったのだ。得る前に、失ってしまっていたのだ。半年が過ぎ、一年が過ぎた。赤子がはじめて、女を母と呼んだ。男の不在を思い知った。失ったものの空虚さを。
記憶が途切れている。おかしくなっていたのだ、と女は言った。恋しさに、失ってしまったものの大きさに。失ったことを、信じたくない愚かさに。母のように、死を目の当たりにした訳ではなかった。だからどこかで、生きているかも知れない、と思い、その想像にこころが震えた。
一年、二年。三年が過ぎた頃、女は息子に待っていて、と言い聞かせて館を抜け出した。王都の端から中心へ。入り組んだ道を抜け、人々に男のことを訪ね歩いた。雇われていた商家を訪ね、牢の場所を聞き、警備にすがって問いかけた。あのひとはどこ。どこにいるの。教えて。どうか。誰か。
気が狂った女を哀れみ、ひとりの牢番が墓地への案内を買って出た。罪を犯した者が集められた墓地の片隅。そのひとつを、牢番が指し示す。これ、と言われて女はその場にへたりこんだ。女が求めていたのは血肉のある男である。決して、名の刻まれぬ墓標などではない。
女は。あまりの悲しみ故か、失えぬものを、そこで失ってしまったのだという。気が付けば女は、立っている場所がどこなのか、なにをしにここに来たのかを、忘れ。帰る場所も、待たせている者も、己が誰であったのかすら、分からなくなっていた。
心を病んで王都をさ迷い、誰彼構わず男のことを問いかけていた女のことは、結構な者が覚えていたが、その身の上まで知る者は誰もいなかった。さてどうしたものだろう、と女を持て余した牢番に、手を差し伸べたのは『お屋敷』であったのだという。
恐らくは内々に保護して、館へ戻してくれるつもりだったのだろう。しかし、その迎えが到着するより先に。視察に降りて来ていた王が、女を見初めてしまった。心を病み、気を狂わせ、己すらを失ったのだという女に、王はひどく同情した。そして、ハレムの門が開かれたのだ。それは保護であり、王による女の所有であった。
かなしみにより失われた女と、それを見初めた王のロマンスは、民衆に好意的に受け止められた。ジェイドも聞いた覚えがあった。物語のよう、と『お屋敷』の少女たちが口を揃えてはにかんでいたことを知っている。女が、楽園のよう、と言った場所で、それは麗しい王の恋物語として語られた。
女がそれを思い出したのは、数年前のことであったという。ジェイドはその時期に心当たりがあった。王が殊更、魔術師を物として酷使しだしたのは、その頃からである。恐らく記憶を戻した女と、想いがすれ違い始めた鬱屈故だろう。寵妃は、王を『恩義ある方』と言った。
感謝の気持ちはあれど。愛おしく、恋しく、情ある者に対する響きでは、なかった。明日のことは考えたくない。ジェイドはのろのろと湯殿を出て、とりあえず当主のもとへ向かおうとして。廊下をぱたぱたとかけてきた少年に、あっ、と叫ばれ睨みつけられた。
「ジェイド! 聞いたぞ、お前、またシュニーさまを泣かせて……!」
ラーヴェさんからシュニーさまを奪ったくせにっ、どうしてお前はそうなんだよっ、と何年も何年も難癖をつけてくる年下の少年をうろんな目で眺め、ジェイドは胸に両手を押し当てて、深々と息を吐きだした。
「いまだけはお前に会いたくなかった……」
「は……はぁあああっ?」
失礼っ、最悪っ、最低っ、とぎゃんぎゃん叫んでかみついてくる少年は、『花嫁』につく『傍付き』候補生のひとり。ジェイドとラーヴェの、次の世代にあたる少年たちのうち、ひとりだった。少年の名は、ハドゥル。五年に一度の開放日にて、幼い頃、外からこの『お屋敷』に迎えられた、身寄りのない者のひとりで。
その瞳はごく珍しい、鋼の色をしている。灰色に青緑が宿った、鋼色の瞳。王の寵妃と同じ瞳。悲鳴じみた響きで、呼ばれた名の。
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