あなたが赤い糸:46


 身構えながら、ゆっくりと段差を飛び降りる。そんな風な感覚で、ジェイドはコン、と硬質な靴音を響かせて着地した。それはあたかも、世界を渡ることを可能とした召喚術師や、空間魔術師が成した術であるかのようだ。しかし態勢を整えていられたのは着地までで、意識をがんと揺らす魔力の揺れに抗いきれず、ジェイドはその場にうずくまった。

 ジェイドが『戻って来た』のは、談話室の中程だった。森の中や人気のない廊下であることもあると聞いていたから、それは酷く幸運なことでもあった。口々にジェイドの名を呼びながら、幾人かが走ってくる。その中に己の担当教員の者も聞き留めて、ジェイドは何度か咳き込みながら、体に力を込めて立ち上がった。

 ふらつく体は、すぐ伸びてきた手に抱き留められる。その手の熱。伝わる魔力に、ジェイドはああ、と呻くように声を零した。

「シーク、君が……」

「……うん?」

 待ち構えていた教員や保健医がジェイドの元へ到着する、ほんの数秒の隙間に。それが失われてしまう前に。ジェイドは弱々しくシークを振り返り、くるしく、息を吸い込めないような気持ちで、告げた。

「卒業試験に、合格できない理由が……わかった」

「ああ……」

 うん、と勿忘草の瞳を、ぐしゃぐしゃに傷ついた色を隠しながら、シークは笑った。十五にならずとも、様々な条件が満ちれば、卒業試験そのものは受けられる。シークはこれまで三度挑戦して、三度とも不合格のまま『戻って来た』のだった。そうだろうね、とシークは呟き、そっとジェイドの肩から手を離した。

 そうしている間にも、言葉がほろほろと消えていく。眩暈にも似た感覚に、ジェイドは一度目を閉じ、深呼吸をしてから担当教員の男と、待ち構えていた保健医を出迎えた。心配そうな担当教員に、あなただって覚えがあるでしょう安心しなさいと叱咤しながら、学園在住の白魔術師はてきぱきと、ジェイドの診察を行っていく。

 魔力の乱れが落ち着く頃には、それに対する言葉は、もうすっかり消された後だった。特別な問題はありません、平常通り、大丈夫。白魔術師のお墨付きを得てほっと胸を撫でおろした担当教員が、不安と期待で満たした瞳でジェイドを覗き込んでくる。ジェイド、と名を呼ばれる。

 はい、としっかり響いた声に安心したように笑い、担当教員は所定の手順に従い、それを教え子に問いかけた。

「儀式から『戻って来た』魔術師へ問う。『卒業試験』を語れるか? なにを見て、なにを知り、なにを成したか。その言葉を持ち、告げられるか?」

「はい、先生。俺は……」

 告げようとする、けれど、消えていく。ほろほろと崩れてなくなっていく。そのことを、覚えているのに。どんな言葉を当てはめて告げればいいのか、分からなくなる。消えていく。苦心して言葉をかき集めても、それをなぜか、発声することが叶わない。水に沈められて、気泡だけが水面に浮かんでいくのを、見守るような気分でいる。

 はく、と口を動かして眉を寄せるジェイドに、担当教員は肩から力を抜いた。

「……糸を何本切って来た?」

「二本です」

 それだけがするりと、形を成して落ちていく。よし、と教員の男は頷いた。

「『卒業試験』が無事、終了したことを確認した。おめでとう、ジェイド」

 ジェイドは反射的に振り返り、シークになにかを告げようとした。恐らくは謝罪だったのだと思う。胸のくるしい感情は、そういう風にしたがっていた。けれども言葉が響くより早く、談話室に響く歓声が想いをかき消した。おめでとう、といくつもの声。『卒業試験』合格、おめでとう。

 やや茫然と口を開くジェイドに丁寧に向き合って、シークはゆっくりと首を横に振った。告げられることもなく消えてしまった感情と、言葉を、必要ないと否定する仕草だった。『卒業試験』は何度でも繰り返される。合格するまで。シークがそれを諦めて、ジェイドが断ち切って来たあの糸に、手を伸ばして千切るまで。

「……ジェイドは、どこへ行くんだっけ? 希望は出した?」

「砂漠に……『お屋敷』からも働きかけて貰ってるから、たぶん通ると思う……」

 シュニーの傍にいることが、ジェイドの望みだ。しかしそれ以外の望みを置き去りに、歩いて行きたい訳ではない。親しい友の幸福を願う気持ちを携えていきたい。こんな風に、裏切りたくはなかった。そっと諦めたように微笑する、当主の少年の擦り切れた笑みを思わせる表情で佇むシークに、ジェイドは手を伸ばした。

 抱き寄せて目を閉じる。失わせてしまった、と思った。それはこの世界で生きる魔術師が義務として負うもので、本当なら、異界の迷い子たるシークには関係のないことだった。それなのに、この欠片の世界の理が、シークにもそれを強要する。箱庭たる『学園』から羽ばたきたくば、未熟なる魔術師よ、その義務を果たせと。

 『卒業試験』で呼び込まれる、砕かれた世界の欠片で、ジェイドがなにをしてきたかシークは知っている。それを語る言葉を封じられていても。

「ごめん……」

 談話室からぽつぽつと、戸惑った視線がふたりに向けられる。それでいてそれは、戸惑いだけではなく。いくつも視線が、逸らされていた。ジェイドの担当教員も、保健医も。卒業資格を持つ者は皆、くるしく、シークから視線を逸らして目を伏せていた。

 繋がりを断ち切った瞬間の、心地よくも重たい音が、耳の裏にまだ残っていた。

「シーク、ごめん。……ごめんな」

「……君がいるなら、ボクも砂漠にしてもらおうかな」

 謝罪に応えず。シークは優しく響く声で、己を抱き寄せた友人の背を叩いた。

「結婚式も見に行かないといけないしね」

「……普通に招待して、許可が下りれば、卒業資格無くても出席はできる」

「友人の祝い事にね、背を押してもらいたいだけだよ。いつまでも、ずっと……この未練を持ってるのはね、いけないって、ボクだって分かってる」

 瞬きで奪われた故郷を。帰るべき家を。帰りたいという気持ちを、未練だと。そう言わせてしまったことが、ただ苦しい。出来ることはない。悩みながら、ジェイドは思わず呟いていた。

「シークにも『花嫁』がいればいいのにな」

「……ん?」

「『花嫁』がいればいいのになって」

 なにもかもを捧げて、悔いのない。そういう相手がいればいい。きっとシークの帰る場所になるよ、とジェイドは言った。帰りたかった場所へ連れて行ってくれるひと、では、ないけれど。愛することができて、帰りたい、と思える場所になれば。そこが新しい家になる。

 帰る場所になってくれる人がいればいいのに、と思うジェイドに、シークは苦笑して肩を竦めた。

「ボクにはいいよ。泣かせてしまいそうな気がするし」

「……ああ、うん。シーク、好きな子は泣かせるもんな。ほんとすぐ泣かせるもんな……」

 泣いている顔も可愛い、ではなく。泣いている顔、が、可愛い、という趣味の持ち主である。比較的お気に入りらしい藤色の少女や、きゃんきゃんかみついてくる白魔法使いの少年を、暇さえあればつついて泣かせて保護者を怒らせる、と言うのが、最近のシークの日課である。

 意外と年下にもてるよな、と呟いたのは、その二人が一日一回はぴいぴい泣かされているのに、シークの周りをちょろちょろするのを辞めないと知っているからである。どうしてだろうねえ、と自分でも不思議そうに苦笑して、シークはさて、とジェイドの背を押した。

「さ、ボクはもういい。大丈夫だから、やるべきことを済ませておいでよ。……『卒業試験』の合格、おめでとう、ジェイド。欠片の世界に生きる魔術師の、これからに幸いあれ」

「……ありがとう」

 やらなければいけないことがあるのは確かで。行って来る、と小走りに離れたジェイドは、ふと気になって一度だけ振り返った。シークはもうこちらを見てはおらず、いつの間にか傍に寄ってきていた少年少女にじゃれつかれて、腰を屈めてなにか話しているのが見えた。

 帰りたい場所に帰れず。けれど、ジェイドがいなくとも、シークはひとりきりではなかった。そのことに、心から安堵して前を向きなおす。誰かが慰めになってくれればいいと思う。本当にそう思う。ジェイドは、心の全てをシュニーに渡してしまっているから、もうどうしてもそういう風にはなれないから。誰か、と祈るように思って、歩く。

 どこかにいる誰か。これから巡り合う誰か。あるいは、もう見知った誰か。どうか。シークを救ってあげてくれないだろうか。ジェイドの両手はシュニーでいっぱいで、時折触れることはできても、もうこれ以上を抱え込むことができない。傍にいることができても、ずっとではない。離れていく。会いに行くことはできても。

 祈ることは無責任ではないだろうか、とジェイドは思う。祈って、願って、自分では救うことすらできないのに。当主の少年のように。ジェイドではシークの助けにはなれない。救いにはなれない。なれないのだ。それでも、シークはジェイドを友と呼ぶ。ともだち、と呼んで笑ってくれる。それを、光だと、思いたかった。

 くらやみの、指さした遠くの、遠くの果てに見えるひとすじの光。そこを目指して、休みながら、立ち止まりながら、それでも、それを希望とするように歩いて行けたら。やがて辿りつく場所で、待っていたよ、と告げられたら。ここに来てくれることをずっと信じて、願って、祈っていたよ、と。そのことは、救いにはならないだろうか。

 ひりつく喉を潤す、とうめいな水のように。いつか手に入る希望に、なってはくれないだろうか。なにをしてあげられるだろう。どんなことならできるだろう。諦めず、足元の汚泥に立ち止まらず、ただ歩んでいくだけの力に。どうすればなれるだろう。ジェイドは、シークの。そういうものでありたい。その為にずっと、考えている。

 それは、卒業資格を得た日。ミードが布に咲かせる花が、とうとう、残りひとつになった日のことだった。

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