あなたが赤い糸:45



 当主の傍女は七人か、八人、いるらしい。それを教えてくれたのは他でもない当主の正式な配偶者、ミードだったが、さりとて『花嫁』がその正体に気がついているとは決して思えなかった。ミードの察しが悪い訳ではない。人数以外の情報を隠されていて、それ以上を知ろうとする興味を、ミードが全く持たない為だった。

 ただ、支えてくれるといいな、とミードは言った。幼い希望を、拙く編む声で。すこしでもいい。持つものを分かち合ってくれたら。つめたい手を温めてくれたら。助けにはきっとなれない。誰もなれないけど、でも。瞬きの、ひとつ。呼吸のひとつ。一歩歩くのでも。支えてくれたらいい。そういう風であってくれればいい。

 同胞を気遣う不安げな声。祈りの声。それは夫を想うとするにはあまりに穏やかすぎた。嫉妬も、怒りも、そこにはなく。ミードさま奥様なのですよね、とジェイドが苦笑しながら問えば、『花嫁』はなにを言われているのか分からない、とばかりにぱちくり瞬きをして。首を傾げて考え。

 しばしのち、あっ、と声をあげてこくりと頷いた。

「あのね、ちがうの。かんよーなの。わかった?」

「……はい。では、そのように」

「そうなの。かんよーなの」

 そういう設定で行くことにしたらしい。ラーヴェはほわほわと緩んだ笑顔で、そうだね、ミードは寛容だね、偉いね、とひたすら『花嫁』を甘やかしている。どやっとした顔で胸をはり、ミードはふくらむ気配のない腹を、服の上からふわふわと撫でた。

 懐妊数ヶ月であるという。妊娠の時期はちょうど年末。当主たる少年が最優の『花嫁』を手折った、とされた頃。ジェイドはなにか食べられないものを口に入れてしまった表情で、ミードを膝に乗せて愛でるラーヴェを見た。『傍付き』の男は幸せそうに緩んだ笑みで、ちまちまと刺繍を進めるミードを抱いていた。

 その瞳に絶望はなく。行き場をなくした愛情の苦しさも、嫉妬も、許されないものに対する怒りも、見つけることはできなかった。側近の女にあるような、傍にいることを許された、それだけの、かそけき希望の切なさも。ラーヴェはただ、満たされている。幸福と永遠が、男の中には満ちている。

 決定的な言葉はなにひとつない。これからもないままだろう。ラーヴェは口を割らないだろうし、ミードはこどもの父親を尋ねられても、きょとんとするばかりだった。ミードは御当主さまの奥様なんだからぁ、おとうさまになるのは御当主さまに決まっているでしょう、とのことだ。

 ほわほわふんわりした口調であるだけで、『花嫁』はそれを理解して、誰に教える気もないようだった。

「ねえねえ、らーヴぇ? みぃね、あっ、わたし! わたしね? ママになるの!」

「そうだね。なるね」

「でしょう? それでね、きっと、おとこのこ! らーヴぇに似たかっこいいおとこのこにするの……!」

 なぜ当主の次代であるのにラーヴェに似ているのか、という質問を胸の中ですり潰し、ジェイドはそっと胃のあたりを手で押さえた。性格が『傍付き』に似ているだとか、言動だとか、仕草だとか、そういう話だと思い込もう、と言い聞かせる。ラーヴェはやや困った微笑みで、『花嫁』の体をゆるく抱き寄せた。

「……男の子なの? ミード? 御当主さまに似せないの?」

「あっ、でもぉ、ラーヴェはママの! らーヴぇはぁ、ままのだから、ときめきを覚えたらだめなんだから……!」

 おなかに両手をあてながら言い聞かせるミードは至極真面目で、苦笑するラーヴェの問いについては聞こえないふりをしている。飽きたのか集中力が切れたのかほったらかしにされている刺繍と針を遠ざけて置きながら、ラーヴェは『花嫁』の名を呼び、頬をもにもにと弄びながら問いかけた。

「ミード? そのこは『花婿』になるの? それとも『花嫁』? どちらでも、御当主さまに似せようね」

「……ぱぱがいじわるいうねぇやややややぁああ! なんでほっぺつぶすのいじめいやあぁああ!」

 見れば室内にいる世話役たちは、ああああなぜか急に耳が遠くなったんですよ困りますよねえええええ、という微笑みで、全力で手で塞いでいた。ラーヴェはため息をつきながら、ばったばったと暴れるミードを折檻し、抱き寄せなおし、こつりと頬を重ねて言い聞かせている。

 御当主さまの、だね。パパじゃないよね。御当主さまがお父様になるんだよ。そうだよね、ミード。眉を寄せて困った顔で囁くラーヴェに、ミードは不満いっぱいですっ、と頬をぷううっと膨らませ、しぶしぶ、本当に仕方がなさそうに、義務感たっぷりの仕草で頷いた。

「ちゃんと分かっているもの……。言ったらいけないの……。内緒のぱぱなの……」

「ミード?」

「いやぁああんらヴぇがみぃのほっぺをいじめるぅー!」

 反省と改善は困難な筈である。ジェイドはそろそろと視線を戻し、御当主さまだよ、と言い聞かせているラーヴェに、それを教えるかどうか悩んで息を吐く。ミードは絶対に、分かっていて、わざと言っている。御当主さまがお父様なのに、自分をママと呼んでいるのが良い証拠である。

 ラーヴェがそれに全く気が付いていない、とは思い難かったが、年始から数ヵ月、ずっとぽやぽやふわふわしているのだ。うっかりしている可能性も、なくはなかった。

「うー、うぅー……! あ、ジェイドくん。ねえねえ? ジェイドくんは、いつパパになるの?」

 とんでもない方向で矛先を向けようとしないで欲しい。顔を真っ赤にしてげほっと咳き込み、ジェイドは弱々しく首を振り、放置された刺繍を指さした。枠には中途半端な花がひとつと、空白がふたつ、残っている。

「まだです……予定を組んで実行することでもないですし、まだですほんとまだです……」

「そうなの……? しゆーちゃんは、年子にするって言ってたよ?」

 先の『旅行』から帰って来たシュニーがミードの懐妊を知るなり、張り切って次の予定を立てて行ってきますと笑顔で出かけて行った理由が判明した。えっなんでそんなすぐに、と寂しがっていたのはジェイドひとりである。そして当事者になるジェイドにその予定を知らせてくれないのが、じつに『花嫁』だった。せめて言って欲しい。

 聞けば『旅行』実行の許可を下した少年も、ふぅんいいんじゃないか年子、と言っていたらしい。相談して欲しいとは言わないが、それとなく知らせるくらいは、本当にお願いだからして欲しい。心の準備というものがあるので。真っ赤になって咳き込んでむせるジェイドを不思議そうに見つめ、ミードはことりと首を傾げた。

「ジェイドくん。年子、いや?」

「……いえあの……それ、ほんとにシュニーが……?」

「うん。あのね、ないしょの計画なの! ……あれ? ないしょのけいかく……あ! ないしょだった!」

 どうしようないしょ、ないしょだったのに、とおろおろと口に手を押し当てるミードに、ジェイドは心からの笑みを向けた。

「聞かなかったことにしますから、いいですよ」

「ほんと? ほんと? 約束ね、ぜったい、ね。……ほんと?」

「はい。本当です。……聞かなかったし、なにも知らない……うぅ……」

 弱って額に手を押し当てながら、ジェイドは胸を撫でおろす『花嫁』の様子をそっと伺った。今日は体調も機嫌も良いらしくのんびりとしているが、最近はつわりで一日ぐったりと眠っていることも多いのだと聞く。『花嫁』は弱く脆い。出産に耐えきれるかどうかは、殆ど賭けのようなものだった。

 万全の体制が整えられていると聞く。前当主の少女も二度の出産に耐え、けれども三度目は命と引き換えになる、と言われてそれ以上を止められた。当主は、『花嫁』ではなくなった分、ある程度体を強く整えなおされる。一般人と比べれば微々たる調整だが、それを乗り越えられるだけの体力が供えられるのだ。

 ミードは『花嫁』である。その危険を当人が知らぬ訳はなく、ラーヴェが承知していない筈もない。刺繍はできる時でいいので無理しないでくださいと言い置いて、ジェイドは『花嫁』の私室を辞した。またね、と機嫌よく手をふるミードは、それでももう母親のような顔をして、ふくらみの薄い腹を大事そうに撫でている。

 あっなまえをかんがえなくちゃっ、とふわふわ響く幸せそうな声が、立ち去る背に風のように届いた。

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