あなたが赤い糸:44
扉の前に立つ当主側近の女は、混乱した笑みのまま現れたジェイドを見つめて沈黙した。言葉がないようだった。どうしていったい、よりにもよってなんであなたなんですか、とその顔に書かれている。全くの同意見である。ため息しか出なかった。『水鏡』の少女はひどく申し訳なさそうにしながら俯き、ジェイドの背に身を隠している。
女はジェイドと『水鏡』を何度も何度も見比べて、いよいよ目の前の光景が避けられない現実のものであると受け入れると、仰け反って天を仰ぎ、ど、と言って呻いた。どうして、と言おうとして、一音以外は声にならなかったのである。女は苦しげに喉に手を押し当て、首を横に振って目を閉じ、やがて座り込んで頭を抱えた。
その気持ちは、ものすごく、よく分かる。座り込んだまま動かない女と、達観しきって凪いだ目で息を吐くばかりのジェイドを見比べて、『水鏡』の少女はますますしょんぼりと肩を落として涙ぐむ。気持ちを分かち合う相手は、どこからも現れない。当主の私室付近は人払いがされていて、静まり返るばかりだった。
「……ちょっと経緯だけ説明して頂いてもいいですか」
「前当主さまの私室からの帰りに、迷子になっているのを発見。保護。事情を聞いて連れて来ました」
「道に迷いました……。ほんとうに、ごめんなさい……」
今にも泣きそうに目に涙を溜める少女をどうしても放っておけず、ジェイドはため息をつきながら振り返った。びくっ、と怯えられるのに半分は苛立ちながら、手を伸ばしてやんわり抱き寄せる。あ、ぅ、えっ、と戸惑った声が零れるのを無視しながら、背をとん、とん、と叩いてやる。
少女は『花嫁』ではない。分かっている。シュニーとは別の存在だ。分かっている。だからと言って無視してしまうことはできなかった。あまりに似ている。似すぎている。違う、ということは明確に理解していても。淡い戸惑いや拒絶に、反射的な怒りと失望を覚えてしまうくらいには。印象が重なる。
というかシュニーの『水鏡』であるなら、もうジェイドには素直に甘えるべきだし、頼るべきだし、慰められるべきだし、なんというか嬉しそうにしてくれたりして構わないのだが。少女は慰めるジェイドをおろおろと見つめると、狼狽をひっこめることもせずにそろっと離れようとした。
ふ、と思わず笑みが深まる。逃げようとする体を力任せに抱き寄せると、ぴゃぁあっ、と声があがった。落ち着かせる為にやや雑に背を撫でながら、ジェイドは混乱する少女と額を重ね、無理に視線を重ねさせる。
「目的地ここだろ。どこ行くの?」
「あの、あの……わ……わたし、シュニーじゃないのよ……?」
「……見れば分かるけど?」
眉を寄せ、不機嫌な顔で問うジェイドに、だからぁっ、と『水鏡』の少女はやわらかな悲鳴をあげた。
「慰めてくれなくったって、いいの……! こ、こんなに、くっついて、ちかいのっ! だめなんだからぁ!」
「は?」
「なんで怒るのぉ……!」
なんで、と言われても。慰めて、と甘えてくるならともかく、可愛くないことを言われたからに決まっているのだが。ジェイドはため息をつきながら少女の頬に手を伸ばし、到底『花嫁』にはしない雑さでうりうりと撫で潰した。え、あ、あれっ、と目を白黒させる少女に、ジェイドは穏やかな微笑みでもって告げる。
「俺の『水鏡』なのに、シュニーみたいに甘えてこないってどういうことなの? 教えてもらえる?」
「え……えぇ……。だって……だってぇ……」
少女はぽそぽそと、強くは響かない甘いとろりとした声で、うわき、と言った。目を潤ませ、恥ずかしげに頬を染めてつんとくちびるを尖らせて、少女はだめでしょ、とジェイドに言い聞かせてくる。
「うわきでしょ。いけないでしょ。だめでしょ?」
「……迷子の保護は浮気に含まれないと思う」
「なぐさめるのはほごじゃないでしょ!」
いうこときいてくれなきゃだめでしょっ、と怒って言い聞かせてくるさまが、シュニーそっくりで本当にかわいいのに全然かわいくない。あー、はいはい、そうだね、だめだね、と適当な返事で頬を潰して気がすむまでいじめ、ジェイドはややすっきりした笑顔で、ぜいはあ息を乱す少女から手を離した。
少女は頬に両手を押し当て、林檎色の瞳に涙をいっぱい溜め、ぐずぐずと鼻をすすりあげた。
「いじめっこ……楽しそうにいじめてくる……報告書とちがう……!」
「いじめてないよ。人聞きが悪いからやめような」
「わたし、シュニーじゃないから言うことはきいてあげない……! や、やぁーっ、うそっ、ほっぺつねったぁ……!」
つねってないよ摘んでるだけだよ、と微笑みと共に言い聞かせ、ジェイドは少女の柔らかな頬を、むにむに摘んでひっぱった。むにん、と伸びる。かわいい。ほわっとした笑顔で頬を弄るジェイドに少女は目をまんまるくして涙ぐみ、いやいや、と抵抗にもならない身じろぎをした。
「『花嫁』に対する加虐傾向ありって報告しなきゃ……!」
「は? シュニーにこんなことする訳ないだろ?」
「もぉー! うわき! うわきでしょ! うわきじゃないの……っ?」
いじめてないし浮気でもない。いやんいや、とぷるぷる震える少女の頬を好きに摘んでもちもちして、ジェイドは満ちた笑顔でぱっと手を離した。
「ところで、御当主さまになんの用事?」
だめ。言わない。だめだめっ、とばかり、きっとまなじりを険しくした少女は、両手で口を塞いでぷいと視線を逸らしてしまった。本当にかわいいのに、かわいくない。さてどうしたものか、と微笑むジェイドに、背後から、女の呆れ声が問いかける。
「……聞いて連れてこられたのでは?」
「事情を聞いたら迷子だというので。地図を見せてもらって、これだと道筋を説明してもまた迷子になるな、と思ったので連れてきました。御当主さまに呼ばれた、ということまでしか」
精巧とは言いがたい、省略の多い手書きの地図だった。握りしめていたせいでくしゃくしゃになったそれを何とか解読し、なるべく人目につかない道を選んで連れてきたら当主の私室だった、というだけだ。執務室ではないからこそ嫌な予感に顔をしかめるジェイドに、女はそうですよね、と息を吐く。
知っていたら、他でもないあなたが、ここへ彼女を連れてくる筈もない。言葉の意味を問うより早く、女が守っていた扉が、内側からゆっくりと開かれた。
「……ジェイド」
ためらいがちに。どこか、ばつが悪そうに。そろっと顔を出して呼んだのは、当主となった少年だった。はい、とゆるく微笑んでジェイドは答える。どういう顔をしたらいいか、すこしだけ考えながらも、笑みは自然と浮かんだものだった。膝をつくかどうかを悩んで、距離があったからこそ、普通に立ったままで視線を返す。
少年はジェイドを見返して、口元に静かな笑みを浮かべてみせた。ほっとした、安堵の見える笑みだった。ジェイドがこうして少年に向かい合うのはずいぶん久しぶりのことで、なんと声をかければいいのか分からなくなる。新年の挨拶で姿を見たから、息をしてくれているのは分かっていた。
顔色は、あまりよくない。扉の前に立つ女性が気がかりな視線を向けているので、やはり体調がよくないのだろう。眠られておられますか、と問う声は意識せずに零れて行った。恐らくそれがジェイドの、一番不安なことだった。少年はしあわせそうにはにかんで、ゆっくり、首を横に振った。
「ありがとう、気にかけてくれて」
あんなことをしたのに、とかすかな声で呟き、少年はふっと耐えきれなくなったようにジェイドから視線を外した。焦点はゆるゆるとさ迷っていて、どこにも落ち着く所を見せない。御当主さま、と女が呼んだ。生き残った『傍付き』がそう呼びかけるのを、ジェイドは初めて耳にする。
ふ、と意思を灯した瞳で瞬きをして。ふ、と息を思い出したように。薄く開いたくちびるで、胸をゆっくり上下させて。眠りにまどろむような声で、少年はあいまいに、うん、と言って扉に体を預けた。
「でも……いいよ、あんまり気にしないでいてくれて。もちろん、嬉しいけど……ジェイドに、嫌われるのは、つらいから。嫌うくらいなら、あんまり、関心を……持たないでいて」
「嫌う、など……なぜ?」
整えられた形こそ個の好みが反映されたものだが、『花婿』はひとに愛されるように出来ている。少年は嫁ぐことなく当主となっただけであり、その本質が変わった訳ではない。嫌いになれ、と命じられたとしても苦心するだろう。そこにいるだけで、大切にしたい、と思わせる。傷つくことなどなければいい、と願ってしまう。
誰もが。『お屋敷』の誰もが、少年に対してそう思っている。誰の『傍付き』であっても、世話役や『運営』たち。『お屋敷』に携わる者すべてが、か細い祈りのような気持ちを胸の中から消せないでいる。だからこそ年始の混乱も、少年の元へは届かなかったのだ。誰もがそれをためらった。
己の立つ足元さえないような雰囲気で、微笑むことで全てを拒絶する、うつくしい花園の長に。言葉はもう、届かないのだろう。それでも。感情を乗せた言葉が、傷つけてしまう可能性を、誰もが恐れ遠ざけた。嫌いになどなれない。己の『花嫁』に対する、服従にすら似た、反射的な気持ちと同じ強さでそう思う。
あなたを、嫌いになどなれない。言葉にしても告げたジェイドに、少年は困った笑みでゆるゆると首を傾げ、なるよ、と言った。だって、それだけのことをする。それをもう決めてしまった者の静けさで、少年は顔をあげて微笑んだ。枯れ果てた笑み。
おいで、と少年が手を差し出したのは『水鏡』の少女に、だった。
「まさかジェイドが連れてくるとは思わなかったけど……。来たってことは、いいんだろ?」
「……はい」
「うん。……ごめんな。ありがとう」
少女はするりとジェイドのぬくもりから抜け出し、少年の前で差し出された手を取った。いいえ、と静かな声で呟き、少女は少年の手を恭しく、額に押し当てて目を閉じた。
「わたくしたち、『館』の『水鏡』は……新たな『お屋敷』の御当主さま、あなたの望みのままに、この身を捧げます。どうぞ……わたくしたちが、すこしでも、あなたの助けになれますように」
「……ひとり、か。ふたり。産んだら自由になっていい」
「いいえ、御当主さま」
なんの為に『水鏡』が呼ばれたのか。はっきりと理解して顔色をなくすジェイドの、なにもかもを、制したのは側近の女だった。なにも言わず、なにもせず。することを、許されず。ただ少年の傍に控える影に徹する女の、隠しきれない感情のある眼差しが、ジェイドをその場に縫い留める。少年の望みの通りに。
シュニーによく似た面差しを穏やかに緩ませ、姉のよう、母のように、少女は少年の手を取った。
「わたくしたちは、とても自由です。その、自由な意思の中で……あなたに寄り添うことを、選びました。ですからどうぞ、そんな風には思われないで……」
「……それでも、命令だっただろう、って。嫌ってくれてよかったんだ」
「あなたを」
苦しげに、震える声で少女は言った。
「楽にしてあげられなくて……ごめんなさい」
少年は首を横に振る。ぽつ、と呼ばれた響きが、少女の名だろうか。それは聞き覚えのない響きで。シュニー、というそれとは、まったく別の音をしていた。少女は少年に導かれ、部屋の中へ姿を消す。振り返った少女は、くちびるの動きだけで、ジェイドにさよなら、と告げた。
それから、もう二度と、ジェイドは少女の姿を見ることはなく。二月程、あとのこと。当主の名を明かされぬ傍女のうち一人と、ミードに、懐妊の兆候があると知らせが下された。
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