あなたが赤い糸:43


 最近のジェイドは、シュニーが『旅行』へ行くたびに時間を持て余している。それというのも、やることがないからである。『花嫁』が不在にしている間に『傍付き』が課される教育というものがあるが、口に出すのを憚られるそれをジェイドは免除されているし、『魔術師』としても一通りの教育が終わってしまった為だった。

 卒業試験はしかるべき時を待ち、所定の手順によって執り行われる。つまりそれは試験という名がつけられているが、儀式めいたことであり、こちらの都合で期日が指定できるものではないのだという。その知らせは占星術師たちの集う、星見の館から下される。早ければ半年か数ヶ月前、遅くとも三ヶ月前に、日が指定されるのだという。

 どんなに短くとも向こう三ヶ月はやることがないので、ジェイドはやや途方にくれている。勉強をするにも必要な部分は終わっているので、論文を書くような研究をしようにも、周囲がいいからこの隙に休めと止めてくるので集中しきれない。やることがない状態で休むと落ち着かない、と零せば哀れむような視線を向けられた。

 君それ病気だから早めになんとかしようね、お医者さんの予約はしておいてあげたからね、と微笑んで告げたのはシークだった。当人に無断でそういうことをしないで欲しいのだが、幸か不幸かジェイドの予定は空いていた。数日後に控えた受診のことを乗り気ではなく考え、ため息をつきながら、ジェイドは前当主の部屋から廊下に出た。

 関係のないことを考えていないと、少女が告げた、要約すれば、だって『傍付き』はそういう風な好きじゃないんだものわたしはしってるんだからっ、というぶんむくれた訴えの内容について深く思い巡らせてしまいそうで。さりとて受診のことも気分を浮かばせる内容ではなく、己の不器用さに深々とした息が重なっていく。

 その欲望を抱くから、『傍付き』は教育によって壊される。ジェイドはただ、そうする意味がないから免れただけであり、ラーヴェは『花嫁』から言葉にして求められたからこそ、叶えられただけなのだ。言葉は正確でなければならない。暗号のように。正しく紡がれた『許可』だけが、『傍付き』の壊れた欲望を引き戻す。

 あいまいであっては叶わない。『花嫁』が『傍付き』を求めることは、触れられたいと願うことは、あまりに日常で普通のことだからだ。触ってほしい、と希われても、それは鍵となる言葉にならない。あなたのものだと告げられても、『花嫁』は『傍付き』の宝石であるから、なお解放には届かない。

 あえて意味を取り違えなさい、と目隠しをするように。丁寧に丹念に『傍付き』は教育をされる。勘違いを重ねていくように。真綿で首を絞められるように。希望を自ら粉々に砕いていく。期待する心のひかりを消していく。永遠でなくともいい。その瞬間まででいい。誰よりも傍にいる。その願いひとつを叶える為だけに。

 それでいて『お屋敷』は望みを残している。無事に宝石を送り出し、その後も研鑽を重ねた一握りの者だけが、十数年後にそれを知る。なぜ『傍付き』に剣が与えられるのか。なぜ、『傍付き』にだけ、佩剣が許されるのか。それは、刃物が花をうつくしく手折る唯一のものだからだ。望まれれば、それは許される。許されて、いたのだと。

 あなたのものにしてほしい。うつくしく育て上げた花が、他のどこでもなく、『傍付き』の元に己の幸福があるのだと。そう告げた時に。傷つけることなく、己のものにする為に、その象徴の為に剣が与えられ、予行演習めいた教育は行われていた。触れ方を、加減を、あまりに弱く脆い花をどう愛せばいいのかを。

 ラーヴェが三週間引きこもって出てこなかったのは、純粋にその成果である。異性の組み合わせであっても、同性であったとしても、結果は変わらないだろう。触れる欲望なき愛情があることを知っている。そういう恋の形があることも。『傍付き』がそれに当てはまらないだけで。

 あるいはそういう『傍付き』もごく稀にいるのかも知れないが、己の性別や様々なものを呪いつくすような女の不機嫌を感じる分に、前当主の側近の女は、絶対にそれに当てはまらない。牙を抜かれ爪を剥がれ耳を塞がれ目隠しをされ、首輪をつけられて、ひとつの望みだけが叶い続ける。

 傍にいる。もう、どこにも行かないで、傍にいる。誰が触れても、淡く心を開かれても。それでも、失わない。『お屋敷』は当主を鎖す大きな檻だ。そこにいる限り、もう決して離されない。ジェイドは出てきた部屋を振り返り、『お屋敷』の中では珍しく、ぴたりと閉まった扉を見た。

 全てが終わったら告げるのだという、とびきりのわがままを、少女が囁く日はまだ先だろう。ジェイドとシュニーの幸福を見送ったら、と少女はふたりに約束していた。その望みがどうか、女の想いに報うものであればいい。ジェイドは複雑な気持ちで息を吐き出して、人気のない廊下をゆっくりと歩き出した。

 少女の部屋は『お屋敷』の母屋ではなく、やや離れた場所に設えられている。特別な用事がない限り廊下を行きかう者はなく、賑わいが近いこともない。穏やかな空気がのんびりと漂っている。だからこそ。廊下を怯えたように歩き、辺りを見回す少女の姿はひどく目立った。

 ありていに言えば不審者である。開放日はとうに昔のことであるし、今日は商人の訪れもなかった筈だ。知らないうちに迷い込んでしまうには、この建物は複雑な道筋を通らなければ辿りつけない。ジェイドは眉を寄せ、背後を振り返り、周囲を見回して溜息をついた。

 廊下にいるのはジェイドと、こちらに背を向ける少女だけで、誰かがやってくる気配はない。さてどうしたものか、と悩みながら、ジェイドは少女へ歩み寄った。『お屋敷』の者として声をかけ、対処せずにはいられないが、抵抗された場合に制圧していいものかどうかが分からない。

 しかし、無視してしまう訳にはいかず。ジェイドは俯き、怯えて震えているようにも見える少女に、そっと声をかけた。

「あの……」

 ぱっ、と少女が振り返る。まあるく見開かれた瞳は、甘そうな林檎の色をしていた。

「……え?」

 思わず呟き、ジェイドは凍ったように動きを止めた少女に手を伸ばした。なにを考えていた訳ではなく、しいて言えば、それは眼前にある存在を確かめようとする動きだった。肌に指が触れる寸前。違う、と分かっていて、ジェイドは静かに問いかけた。

「シュニー……?」

 かくん、と少女の脚が折れる。力が抜けたようだった。廊下に倒れ込む寸前。腕を伸ばして少女を抱き寄せ、ジェイドもその場にしゃがみこむ。ジェイドは少女の体を抱いたまま、茫然と言葉を探していた。少女もまた、全身から力を抜いて、俯きながら言葉を探しているようだった。

 不幸なまでに誰も通りがからない。沈黙だけが広がっていく。なにかを確かめたいのに、なにを聞けばいいのか、どう言葉を持ってくればいいのかが分からない。悩んでいると突然、少女が立ち上がろうとした。許さず、ジェイドは息を吐きながら少女を強く抱きしめた。

 あぅ、とも、うぅ、ともつかない声が腕の中から弱々しく響く。息を吐きながら天井へ向けていた視線を下ろすと、少女はまだ顔を手で隠しながら、耳まで赤く染めて震えていた。呼びかけたいのに。少女を呼ぶ名を、ジェイドは知らない。困り果てるような、苦しいような気持ちになりながら、ジェイドはもう一度少女に手を伸ばした。

 震える手に触れて、顔を見せて、と囁く。少女は無言で首を横に振った。いや、と。だめ、という言葉だけが返される。ジェイドは微笑んで、少女の手首を掴んだ。びくっと体を震えさせるのに構わず、顔から手を引きはがして、覗き込む。少女はぽかんと口を開いて、涙ぐんだ目でジェイドを見つめ返した。

 鼓動が跳ねる程、少女はシュニーによく似ていた。くせのない白雪の髪に、ほんの僅か色合いの違う林檎のような瞳。白くしっとりと整えられた肌は丹念に整えられたもので、纏う香水は恐らく、同じものだろう。身長は少女の方がやや高く、体つきはしっかりとしている。体重も恐らく、同じくらいに調整してあるのだろう。

 顔立ちもよく似ていた。印象を似せるよう、化粧で調整もしているのだろう。真昼の廊下ではなく、差し込む光の調整された室内であるなら、一瞬見間違えたかも知れない。それくらい、少女はシュニーにとてもよく似ていて、とてもよく、似せられていた。

 乱暴な仕草に驚く少女をまじまじと見つめて、ジェイドは自然に微笑んだ。

「……どうして、ここにいるの?」

「あ、の……あの、えっと、わたし」

「君がなんであるのか、分かってる。だから誤魔化さないで教えて」

 少女は泣きそうにくちびるを震わせ、俯いてジェイドの名を呼んだ。甘く響く、うつくしい声だった。どう整えたものか、その声音すら、とてもよく似ている。甘やかして慈しんでしまいたい欲望と、ひどく冷たくして傷つけてしまいたい衝動が、胸の中で渦を巻く。

 ジェイドは、少女の手首を掴んだ指を、己の手のつめたさを意識して見つめた。こうして触れることなど、ない筈だった。

「……教えて」

 話すことなど。

「俺に……閨教育をする、シュニーの『水鏡』である君が。どうしてこんな所にいるのか」

 会うことなど、ない筈の。

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