あなたが赤い糸:06

「ん?」

 すい、と布が指でほんの僅か、開かれる。なに、とすぐに顔を覗かせたロゼアに、ソキはそわそわ、もじもじ落ち着かない様子で問いかけた。

「まぁだ? まだです?」

「もうちょっと。そんなに焦らなくても、お祭り終わらないよ」

「うん……。あ、あのね、ロゼアちゃん。ソキ、久しぶりに輿に乗ったでしょう? ……あの、あのね」

 半年ぶり、なのだそうだ。輿が動く際の些細な会話でそれを聞き留めていた妖精の目の先で、うん、と静かに頷いたロゼアが、さっと合図を送る。り、とひとつ、残響を落として。鈴の音が止まった。その間も、ソキはもじもじと手をいじってすこし俯き、言い出しにくそうに唇をもぞもぞさせている。

 ソキ、と優しい声でロゼアが促した。

「……なぁに。どうしたの?」

「ん、んん……あの、あのねぇ……」

 うん、と頷いて。微笑むロゼアに、ソキはつん、つん、と人差し指を突き合わせ、頬を染めてぽそぽそと呟いた。

「ソキ、半年前より大きくなったでしょう……? 重たくないか、皆に聞いてくださいです……あの、それでね、あんまり長く乗っていて、それで、重くて疲れちゃうでしたら、たいへんです。だからね、ちょっと急いでも……ソキ、気持ち悪くなるの、我慢できるですから、大丈夫なんですよって、言って?」

「ソキ」

 いとしくて。いとしくて、たまらない、と。細められたロゼアの瞳が、語っていた。すいと伸びた指先で、ソキの不安げに結ばれたくちびるの端を、やわやわと撫でて。ふ、と笑み零すように、大丈夫だよ、とロゼアは言った。

「重たくないよ。……ソキ、それで、朝も、昼も、あんまりご飯食べなかったの?」

「だってえぇ……」

 いじけた様子で、ソキは髪に結ばれた赤いリボンを引っ張ったり、指に結んだり、突いたりしている。その手を絡めるように繋いで、きゅぅ、と握って、ロゼアはもう一度、しっかりとした声で囁きかけた。

「誰もそんな風に思ったりしないよ。疲れた時に交代する人も、ちゃんといる。安心していいよ、ソキ」

「うん……。うん、わかったです」

「それで、誰がそんなこと言ったの? 誰かが、重たい、だなんて言ったんだろ? 誰?」

 くちびるを尖らせていじけながら、ソキはぽしょぽしょと響かない声で、聞き慣れぬ名をいくつか口にした。そっか、と笑みを深くしながら、ロゼアの手がするりとソキの頬を撫でていく。

「意地悪を言われたんだな。嫌だったな」

「……重たいのは、いじわる?」

「ソキは重たくないよ。抱っこするとちょうどいいくらいだ。……さ、もうその人たちのことは忘れような」

 こくん、とソキは素直に頷いた。いい子だな、と心からソキを褒める声でロゼアは囁き、ゆっくりしているんだぞ、と言い残して布が閉じられる。すぐに鈴の音が響き、ソキは胸を両手に押し当てて、つかえが取れた表情でほっと笑った。

「よかったです……! あのね、あのね、ソキは重たくって輿持ちのひとが大変だから、おでかけをやめにしなさいって言われていたです」

 空間として閉鎖されている錯覚があるが、実際には布一枚があるだけである。妖精との会話が外に筒抜け、というのを全く分かっていない晴れやかな声だった。そう、とぎこちなく頷きながら、妖精はさすさすと羽根を手で擦った。言われたことを忘れような、ではなく。その人たちのことを、と言ったロゼアがなにをするのかは、考えないことにした。

 妖精も、一応言い添えてやる。

『輿は確かに重いかも知れないけど、四人で持っていたから、そう大変なものではない筈よ。それに……それを言うなら、抱っこだって大変なんじゃないの……? 部屋から輿まで、ずっと抱っこしてもらっていたでしょう? でも、重いとも、なにも言われなかったじゃない』

「抱っこはいいんですぅ。ロゼアちゃんだもん」

 抱っこしてもらってぴとっとくっついて、そこまでがソキである。だから重たいとかそういうのとは違うのだ、という主張を頷いて聞き流し、妖精はややくたっとしたリボンに目を向けた。出発前から、先ほどもいじいじと引っ張られたせいで、ほどけてしまいそうなありさまである。

『ねえ、そのリボンなんだけど……』

「おリボン! ロゼアちゃんが! くれたですううぅっ!」

 これ以上はないというほど幸せそうにソキが語った所によると、妖精が迎えに来て、また訪れるまでの間に、ロゼアが贈ってくれたものなのだという。それまでロゼアがくれる贈り物といえば花や甘味であり、もちろんそれもとても嬉しくてたまらないものであったのだが、リボンはいっとう特別なものであるという。だって残るんですよ、とソキは言った。幸せそうに瞳を蕩けさせて。

 時間の経過で枯れてしまうものでもなければ、食べれば無くなってしまいものでもない。毎日目にして、触れて、髪を飾ってもらって。今日も、明日も、次の日も、ずっと。それはソキの手元にあり続けるものだ。それが幸せで、嬉しくて、たまらないのだと。はしゃぎきった声で嬉しいです、素敵でしょう、と何度も何度も繰り返すソキに、妖精は肩を震わせて笑った。

『よかったわね。あなたに、とてもよく似合っているわ』

「えへへ。ありがとうです……。ソキね、リボンだぁいすき。結んでもらうのすきすきなんです」

 そう言ってまた手でリボンに触れるので、するりとほどけてしまわないか、妖精は心配になった。言おうにもなんとなく、幸せに水を差してしまうようでためらいがある。ロゼアちゃんが丹念にソキの髪をとかして結んでくれたんですよ、と自慢されてしまえばなおのこと。妖精にうまく結んでやる自信はなかったし、ソキが自分でやりなおせるとも、到底思えなかった。

 まあ、ロゼアがまた顔を覗かせれば分かることだろう。お祭りで、きれいなリボンが売っていたら見たいです、とそわそわするソキが、ふっと顔をあげる。り、りり、と残響を響かせて、鈴の音が落ち着いているのに妖精も気が付いた。顔を輝かせるソキの目の前で、布が巻き上げられる。熱っぽいざわめきが押し寄せ、ソキと妖精の頬をぶわりと撫でていく。

 ぱちぱち、せわしなく瞬きをするソキに笑って。ロゼアが見てごらん、と囁き落とす。

「ついたよ、ソキ。……ほら、お祭りだ」

 そこは、広大な市場の中心だった。夕闇が広がり始める暗がりを、無数の灯篭が彩っている。そこを、歩くのも大変だろうに、と思わせるくらいの人々が行き交っていた。それでいて、行き交う人々と輿の間には奇妙な空白があった。よくよく妖精が確認してみると、広々とした通路に杭が立てられ、紐で空間が区切られている。

 行き交う人々を、市場の様子をよく見ようとソキが身を乗り出すと、広場中から歓声があがった。『花嫁』さまだ、と幼子の声。こんばんは、という挨拶。よくいらしてくださいました、と落ち着いた響き。星の祝いを、祝福を。このまたとない夜に。うるわしき砂漠の至宝、『花嫁』さまに幸いあれ。無数の声にソキはロゼアに身を寄せながらも、おどおどと、物慣れない様子で手を振った。

 また、歓声があがる。歓迎されているのだ、ということがはきと分かって、ソキは顔を綻ばせてロゼアに抱き着いた。その背をぽんぽん、とロゼアが撫でる。輿から落ちてしまわないように座りなおさせて、ロゼアがソキの目の高さを合わせながら、市場の様子を指さし、ひとつひとつ説明していく。あれは行商人、あれは灯篭市、あれは甘味屋、あれは大道芸。

 うん、うんっ、と目を輝かせて必死に見入るソキの隣から、妖精も広場を見回した。円形に広がった小高い場所から、まっすぐな道が幾重にも伸びている。用途ごと、店の傾向ごとに通路が分かれているのかも知れない。飾られた星灯篭は通路ごとに統一された色合いで、それだけでも十分に目を楽しませた。どの通路も人で溢れていて、空白があるのはソキの輿周辺だけだった。

 紐を乗り越えて侵入されないよう、見張りに立つロゼアと揃いの服を着た青年の元へ、人々が次々と訪れる。商人が多いようだったが、ご挨拶を、と求める老婦人や、花を差し出す少年たちが、ひっきりなしにやってくる。商人の対応だけは警備に任せ、その他であった場合だけ、ロゼアは説明の声を止め、ソキの耳にそっと囁きかけた。

 ソキはそのたびに、恥ずかしそうに視線を向けて。ありがとう、と言ったり、警備の青年経由で花を手にしてはにかんだ。風が通り抜けたのはその時だった。ちりり、と鈴がなる。あ、と声をあげてソキが手を伸ばした。ほどけてしまったリボンが、ソキの指先をすり抜け風に飛ばされる。やあぁっ、と悲鳴をあげたソキの傍ら、ロゼアの視線の先を追って、妖精はとんっと花籠を蹴った。

 人なら、走っても追いつけまい。妖精の羽根は風と共に飛ぶ。時に、風を追い越してさえ、飛ぶのだ。妖精は危なげなくリボンを掴み、あうあうと泣きそうなソキの元へ、急いで戻ってやった。ソキ、ソキ、と落ち着かせようとするロゼアの目に、妖精は映らない。リボンが戻って来たことも、分からないのだろう。

 大丈夫、取ってくるよ、すぐ戻るから、と囁き、焦った様子で今にも駆けだそうとするロゼアに、妖精は慌ててソキの手へリボンを受け渡した。きゅっ、とすぐさまソキの手がそれを握り込む。ロゼアの目には、急にリボンが現れたように見えただろう。え、と戸惑う声をあげるロゼアに、ソキが半泣きの声で、震えながら言った。

「妖精さん、が、とてきて、くれた、です……! あ、あり、ありがと、う、です……! よ、よか、た……ごめなさ、ロゼアちゃん。ごめん、なさぁ……! ソキ、ソキ、リボン、なくしちゃうとこだったです……! だ、だいじなのに、ソキ、リボン、だいじに、だいじに、してるですよ。ほんとですよ! う、うぅ……」

「うん。……うん、うん。分かってるよ、ソキ。大丈夫。ありがとうな、ソキ。大丈夫。大丈夫だよ……」

 おいで、と囁いてソキを抱き上げて。すりついてくる体をしっかり抱き寄せて、ロゼアは深く安堵した、落ち着いた息を吐きだした。ぽん、ぽん、ぽん、とソキの背を撫でる。

「ごめんな。すぐ結びなおせばよかったな。結びなおそうな」

「うん。うん……! 妖精さん、ありがとうです。ありがとう……!」

「ありがとうございました。よかった……」

 リボンは、すぐにソキの髪に結びなおされた。しっかりと結ばれたそれに恐々触って確かめ、ソキはうるんだ目で妖精に手を伸ばした。両手で、そっと触れられる。まだ震えるつめたい指先に引き寄せられ、あたたかな、まろい頬に抱き寄せられた。

「ありがとうです……」

『ううん。いいのよ。……気をつけましょうね』

「うん」

 安堵にとろん、としたソキは、眠そうにも見えた。緊張の糸が切れたのだろう。そろそろ帰ろうか、と囁くロゼアに、ソキは甘えた仕草で頷き、妖精をそっと、そっと、花籠へとおろした。宝物を、大事にする。いとけない、幼子の仕草だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る