暁闇に星ふたつ:60
ソキの前ではご褒美だのなんだの喜んでいたエノーラは、じわじわと調査が進み事実が明らかになっていくにつれ、無表情になっていった。シークとはエノーラの天敵である。致し方ないこととはいえ、キムルは注意して見ていたのだが。いよいよシークが犯人である説が濃厚となり、魔力残留に話が及んだ瞬間だった。
いっさいの無表情のまま、エノーラは剃刀で己の腕を切り裂こうとした。毒を出すやだ出す、と泣くでも騒ぐでもなく淡々と言い放ったエノーラに、ウィッシュが卒倒し、キムルは頭を抱えてからエノーラを殴り、さすがに笑えないと首を振る白魔法使いがささやかな切り傷を治療した。五王に召喚された場でのことである。数日前のことだ。
白雪の女王はきらびやかな笑顔で、シークの引き渡しを要求していた。殺そう、と微笑んでいた。さすが主従なだけあって、思考回路や発言がよく似ている。許すか殺すかの二択である。慈悲はない。砂漠の王が俺だってそうしてぇよと叫ぶ中、魔術師たちはエノーラを引きずって医務室まで撤退したのだった。
その再来になりかねない狂乱に、はいはい落ち着こうねとエノーラの肩を叩きながら、キムルは視線で命じて武器になりそうなもの一切をエノーラの傍から遠ざけさせた。極めて情緒不安定である。しかし、今はまだエノーラに動いてもらわなければいけないのだ。全ての魔術師の為に。
あの日のように。いまも、また。エノーラにしかできないことがある。
「エノーラ」
強い意志を宿して。一億の孤独と共に時を止めた瞳がキムルを見る。ふ、と錬金術師の男は笑った。妻はチェチェリア。幸運にも得た主は楽音の王そのひと。心と意思を定める所、預けるひとはもう決まっている。だからあまやかな感情ではなく。そんなものではなく。
キムルはエノーラの額を指で撫で、静かに、ただ、言いきった。
「助けになろう。君の」
「当り前よ」
お前が、と乱暴な口調でエノーラが吐き捨てる。指先を手の甲で払い、思い切り眉を寄せながら。
「お前が助けないで、誰が私の助けたりえるの? キムル。……あなたが。ここで、て……手伝わないのは、困るのよ」
言いながら。ようやく普段の状態を取り戻したのだろう。嫌そうに言い淀みながらも素直に告げるエノーラに、キムルは肩を震わせて笑った。その通りだ。けれども、その通りのことを、口に出して求められるのは心地いい。エノーラの異質さは他者の理解を拒み、また、最初からそれを前提としないことが多い。
己の感覚ひとつで辿りつく答えに、エノーラは説明する言葉を持たない。それができるのは、なぜかキムルだけだった。その異能が花開いた時から。なぜかキムルだけは、エノーラが言いたいことを、辿りついたものを、理解できた。そこへ行くことはできずとも。
片翼と呼ぶには嫌悪が勝り、相棒とするには絆そのものが存在しない。ふたりの間にあるのはただ、お互いの能力と才能に対する信頼。それだけだ。お互いに、できることを。それだけを信じている。あるいは、己の意思より強く。
エノーラはゆっくりと息を吸い込み、吐き出した。持ち上がった瞼の奥。瞳は業火を宿している。
リトリアに託された手紙は三通。ひとつは、エノーラから。ひとつは、キムルから。もうひとつは、チェチェリアからの物だった。手紙の配達に来たの、とにこにこ現れたリトリアに、ツフィアは苦笑して部屋へ招き入れた。
「まったく。すぐ一人で出歩いて……フィオーレは? 置いてきたの?」
「レディさんのお見舞いへ行くのですって。すぐそこまでは一緒だったのよ」
ここの所、足繁くツフィアの元へ通うリトリアが、決まって口にする言葉だった。部屋の前までは一緒なのだというが、ツフィアはちらりともその姿を見ていない。リトリアの護衛と監視を兼ねているのにそんなことでいいのかと思うが、ツフィアの部屋以外では一緒にいるらしい。
そんなに会いたくないのかと眉を寄せ、ツフィアはリトリアにそれを問いかけた。リトリアはとびきりの秘密を零すようにくちびるに指を添え、くすくす笑ってあのね、と囁く。背伸びして、ツフィアの耳元で。
「フィオーレね、だって俺ツフィアに評判悪いんだもん、ですって」
「……今更なにを言っているのかしらあの男は」
額を押さえ、ツフィアは息を吐き出した。今更すぎることである。ツフィアの中でフィオーレの評価が、よく働く医療箱以外のなにかになったことなどない。なにを告げ口したのかしら、とリトリアの頬をつつくと、少女は甘くはにかんでなぁんにも、と言った。
「でも、ツフィアったらすぐにフィオーレと付き合うのをやめなさいって言うのだから、評価をあげられるように頑張ってねって」
避けられているのは、間違いなくそのせいである。あげられる評価が残っていないと、分かっていることは評価してやってもいい。リトリア用に整えておいた甘いミルクティーを飲ませながら、ツフィアは手紙を開封した。まず、エノーラのものから。
一行目に、リトリアちゃんちょっと胸大きくなったんだけどと書かれていたので閉じて置き、うんざりしながらチェチェリアのものを開封する。
「……読まないの?」
「あとで。……リトリア、エノーラと二人きりになって駄目よ」
「はぁい」
ツフィアは、だめ、がたくさんある。くすくす笑うリトリアは、身の危険というものをちっとも分かっていない。だめよ、ともう一度言い聞かせ、ツフィアはチェチェリアからの近況に目を通した。学園での騒ぎ。ソキの呪いの詳細。王たちの意見。魔術師たちの動揺と動き。魔力に関する調査。
シークが事件に関わっている可能性。
「……リトリア。この手紙は王の検閲を通ったのよね?」
「ええと……? んと、チェチェがね。あとはなんとかするから、持って行けって」
検閲が終わっているものに対する言葉ではない。ともすれば王への反逆行為だ。なにをしているのか、と血の引く想いで手紙を読み進める。ツフィア、と心配そうなリトリアに、大丈夫よ、と言葉を返すのがせいいっぱいだった。大丈夫、大丈夫よ。大丈夫よ、リトリア。
繰り返し。己に言い聞かせるように囁き告げる。あなたは私が守ってみせる。
「……うん」
うっとり目を細めて。歌うように、リトリアは囁いた。うん、嬉しい。ミルクティーで喉をうるおしながら手紙を読み終えるのをじっと見つめられて、ツフィアは息を吸い込んだ。手紙の続きに意識を向ける。エノーラがソキの呪いを解析した。結果の詳細はキムルが書いた。読んでほしい。
キムルの手紙をもどかしく広げる。久しぶり、元気にしているとリトリアからは聞いているよ。その書き出しの次は、すでに錬金術師の言葉があった。ソキの呪いの詳細と精密さ。恐れるもの。過去の事件。状況から考えてもシークしかいない。証拠がない。証拠だけがない。
適性。魔力の付与を可能とするもの。エノーラが文献という文献を読みあさっているが見つけられない。不自然な焼失への指摘。仮説。言葉はぐるぐると渦を巻く。ツフィア、どうか、と願われる。たくさん、それを願われたことがあるだろう。聞き飽きたかも知れない。うんざりしていることと思う。
けれど、どうか。どうか、今一度、願わせてくれないだろうか。求めることを許してくれないだろうか。語ることを。言葉魔術師。君の、彼の。適性。その詳細について。辿りつく。知識として欠けているのは、それ。証拠として見つけ出せない、足りないものがあるのだとすれば、それ。
だから。どうか。
「……ツフィア?」
いつの間にか。手を握って震わせてしまっていたツフィアの前に、リトリアが立っていた。顔をあげ、なにかを言う前に微笑まれる。
「ツフィア。大丈夫」
手に触れて。リトリアは柔らかく微笑んだ。大丈夫よ、ツフィア。わたしも。わたしだって。
「怖いものから、ツフィアを守ってあげられるから。……だから」
はなして、とリトリアが言った。それは恐らく、ツフィアを今苦しめるなにかに対して、だったのだろう。手紙の内容を知りたかったのだろう。そう思って、それが確かなことだと、分かるのに。許された気がした。ようやっと、重たい枷から解き放たれるのだと。
「……リトリア。頼みがあるの」
「うん! ……うん、うん、なに? なに? ツフィア。なに?」
「陛下に……五王に、お伝えして」
言葉魔術師。その適性を持つ者として。得た知識、術式、そのなにもかもを。
「……リトリア」
「うん?」
「あなたを、信じるわ」
言葉を、胸に沈めるように。リトリアは両手を胸に当てて、深呼吸をして。うん、と頷いて笑った。ツフィアは思わずリトリアを抱き寄せ、祈るように目を閉じて震える。しばらく、リトリアは動かないでいた。戸惑うのではなく。考えているようだった。
おずおずと持ち上げられた手が、ツフィアの髪に触れて、撫でる。とうめいな声が零れ落ちた。ゆったりと紡がれる祝福。子守唄だった。もう、と笑うツフィアに、リトリアもはにかんで告げる。でもすこし、元気が出たでしょう。よかった、と笑うリトリアは、また別の旋律をやわやわと紡いでいく。
呪詛を遠ざけ、祝福を歌う。愛を信じて、それを守ったリトリアの。それが、予知魔術師としてのかたちだった。
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