暁闇に星ふたつ:58


 口付けの幸福を知っている。それがもたらす喜びの熱を。目眩と息苦しさを、ソキは確かに知っている。一度だけ、眠るロゼアに口付けたことがある。恋に落ちた日に。

 このひととはなれたくない。このひとのそばで、このひとと。しあわせになりたい、と。突き落とされるような恋に落ちた。

 恋情はあまく、毒のようにソキの隅々にまで広がった。許されぬ思いが幼子を『花嫁』として完成させ、さらに研ぎ磨きあげた。うつくしくなる為の恋だった。花ひらく為の恋だった。

 『花嫁』として、正式に認められる為の恋だった。幼子がそう呼ばれる為に必要な、最後のひとかけ。

 恋を知った者だけが、『花嫁』と呼ばれる。くちびるで触れる。禁断と知りながら犯した者だけが。そしてそれを罪とするように、ソキはある日、告げられた。『花嫁』として嫁いだ暁に、あなたさまはいつかそれを許さねばならない。

 だから知らなければなりませんよ。

 閨でなにをするか。なにをされるのか。どうすれば快楽となるか。なにが苦痛となるのか。誘惑して言うことを聞かせて。心身に負担になりすぎることなら、がんとしてはねのけなさい。

 辛いなら許さなくてもいい。ただもしも、嫁いだその先で幸福を見つけたその時に。

 拒絶の言葉は悲鳴ごと快楽に塗り替えられた。何度も、何度も。泣き叫んで暴れてロゼアを呼んでも、弱い喉が血を吐いて熱を出して泣きながら叫んでも、どうしてか、どうしても、その教育だけは、受けないことを許されなかった。

 ソキに触れたのは、まだ年若い青年だった。ロゼアよりすこし年上の。煮詰めた飴色の肌に、赤褐色の髪と瞳の。照れくさそうにあまく笑う。その顔も声も、とてもよく似ている男。

 目眩がするほど。一瞬、見間違えかけるほど。ロゼアによく似た、ロゼアではない男が、ソキに触れ肌に快楽を描いた。

 拒絶する喉が咳をして、弱々しく懇願を吐き出し。暴れる体力がつきて動けなくなった頃に。男は決まって申し訳なさそうな顔をして、ソキに甘味を呑み込ませた。部屋に焚きしめられた香と同じにおいのするたべものだった。

 ソキはいまでもそれが嫌いだ。

 肌が落ち着きをなくして、ソキがもういやです、とぐずりだすと男は告げる。気持ちよくなるだけだから。ちゃんと覚えて、分かって、それが終わったらすぐ帰れるよ。帰りたいだろ。

 うん、って言おうな。頷いて。うん、って。ソキ。ソキ、そしたらすぐ帰してあげる。

 ロゼアのところへ。でも、言えないならこのままだ。終わるまでは帰れない。帰りたいです。そうだな。ソキ、帰る。そうだな。さわらないで。違うだろ。さわるのやです。違うだろ。

 さわらないで、きらい、きらい。きもちいいの、ソキきらい。きらいきらいやだ。

 泣いて泣いて、ぐずぐず泣いて。ロゼアちゃんがいい、とソキは幾度も訴えた。ロゼアちゃんがいいの、ロゼアちゃんがいい。ロゼアちゃんにさわって欲しい。教わるのもロゼアちゃんがいい。

 やだやだ、ソキって呼んじゃだめ。ソキって呼んでいいの、ロゼアちゃんだけだもん。

 あなたにそれを、許してなどいない。笑う顔も、困った顔も、とてもよく似ている。ソキ、と耳元で呼ぶ声は、強く目を閉じてなお錯覚させる響きの。赤褐色の瞳をやんわりと和ませて笑う男に。

 なにもかも教え込まれた。言葉も、仕草も反応も。拒絶も快諾も。快楽も官能も。すべて。

 閨教育を施す者は、『傍付き』によく似た者が選ばれるのだという。『花嫁』の中には代替えとして、快楽をある程度望んで享受する者もあるという。叶わない恋の代わりに。触れられないひとの代わりに。

 ソキは最後の最後まで、徹底的に拒絶した。それでいて、ソキはまぎれもなく『最優』だった。

 ロゼアが苦心して磨き上げたしっとりとした肌を、どう触れられれば快楽を得られるのか。どう振る舞えば、告げれば、その心地よさが与えられるのか。望むそれ以上を求められた時に、なんと拒絶するのか。決して触れられてはいけないところ。純潔をなんとしても守り通せと。

 その男が教育以外でソキに触れたのは、一度きり。言葉魔術師に誘拐されたソキが、戻ってきて、体調がようやく安定したその時に。純潔を確かめろと命ぜられたのだろう。閨教育の為の部屋で。寝台で。男はやさしくソキに触れ、確かめ、吐き捨てるように監視の者たちにそれを告げて。

 震える腕でソキを抱き上げ、強く抱いて息を吐いた。損なわれなかったことを喜ぶのとは、すこし違う。ほんものの安堵に満ちた吐息だった。男は、怯えるソキの耳元に囁き告げた。二度とはないだろうけど。もしこんなことが次にあったら、戻った時にロゼアに言いな。

 意図してロゼアと口調を重ね。声の響きも表情も仕草も立ち居振る舞いなにもかも。ロゼアに似せて振る舞う男の。それだけが、ほんものの言葉だった。部屋には常に監視役がいた。監視の女が男を引きはがすのは一瞬で、早口で告げられた言葉は、ソキの耳には届ききらなかった。

 閨教育はそれからも繰り返され、けれどもそのおかげで、ソキは白雪のあの部屋で、己のことを守りきることができた。なにをされるか知っていた。なにを相手が望んでいるかを。その為になにをされるのか。そうさせない為に、抵抗はせず、それでいてどうすればいいのか。言葉を。教わっていた。その為の準備だった。

 白雪から砂漠に戻った時にも、男には会わなかった。『お屋敷』に常駐する者ではなかったからだ。仮にいたとしても、会いたい、という気持ちを抱く相手ではないのだが。閨教育はいつも、馬車に乗せられ連れて行かれた。首都からは出ていない、砂漠のあの都市のどこか、という所までしかソキには分からない。

 ゆめうつつを彷徨いながら、ソキは男から教わった言葉を思いだそうとする。それでも、確かに一度聞いていて。そしてよく似たことを、最近、誰かに教えてもらった気がしたからだ。首筋に触れて離れて行った熱を感じながら、ソキはぼんやりと瞼を持ち上げ、瞬きをした。

 意識はまだ夢の中にある。こてりと首を傾げて、ソキは肌がざわつくのを感じながら身を起こした。月の障りが近いからなのか、それとも、すこし前にロゼアを求めて強請ったからなのか。結局、いつものように触れてはもらえなかったけれど。それから時々、肌が快楽を求めてしまう。落ち着かないでいる。

 あまい香りもしないのに。ソキは首に手を触れさせながら、離れて行った熱のことを考える。触れていたのは一瞬で、でも、吐息がふわりとくすぐっていたから。手や指ではなく。それは。口付け。ぱちっ、とソキは慌ただしく瞬きをした。え、あ、あぅっ、と真っ赤な顔で手をぱたつかせて。

「ろっ……ろぜあちゃあぁああっ!」

 ソキに背を向ける形で寝台の端に腰かけていたロゼアを、とろとろのふわふわの甘い声で呼んだ。え、とロゼアは虚をついたような声を出し。珍しくも一拍、反応までに間をおいて、ソキのことを振り返る。

 きゃぁきゃぁはしゃいで顔を真っ赤にして、あたふたと髪を整えているソキに、ふわりと浮かべられる笑みは優しくも甘い。

「おはよう、ソキ。なぁに、どうしたの。良い夢でも見た?」

「きゃぁんやんやん! ソキが起きてる時に触ってくれなくっちゃだめえぇ! ソキ、こないだも言ったですぅ……!」

「うん? ……うん。おいで、ソキ」

 ひょい、と抱き上げられて、体が寝台からロゼアの元へ取り戻される。膝の上。ぬくもりを分けあい、体をすりつかせながら、ソキはむくれた気持ちでロゼアに猛然と抗議した。起きている時に触ってくれなければ、ゆーわくできないのである。ゆゆしきことである。

 起きてる時、おきてるー、ときー、ですよぉーっ、と言い聞かせてくるソキに、ロゼアはしばらくの間、首を傾げて。やがて穏やかな笑みでソキを抱きなおし、ふふ、としあわせそうに緩んだ声で笑い、頭に頬をくっつけてくる。そうする時のロゼアは、機嫌が良い。

 ゆーらゆーら体を揺らされて、ソキはふあぁとあくびをした。もうちょっと寝ような、と囁くロゼアは、ソキが寝ぼけてなにか訴えたのだと言わんばかりである。もうー、ろぜあちゃんたらてれ隠しですぅー、と眠たくむくれながら、ソキはロゼアの肩あたりに頬をくっつけて。

「あ、あすぅうううううっ!」

 床にアスルが転がっているのを見つけて、大慌てで両手を伸ばした。ぎょっとしたロゼアがすぐに気がついてアスルを拾い上げ、ぽんぽんと埃を払ってから返してくれる。寝てて落ちちゃったんだな、と告げるロゼアにこくこく頷きながら、ソキはアスルごめんねええええ、とやわらかなあひるを抱きつぶした。

 なぜか。ほんの僅か緩んで、消えてしまっている呪いを。丹念に修復してから、もう一度眠りについた。


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