暁闇に星ふたつ:56
生乾きの髪をタオルで拭きながら、ロゼアが溜息をついている。寝台の上でころころアスルと戯れていたソキが意識を向けても、ロゼアから視線が向くことはなかった。その横顔は疲れきっている。
ソキは寝台の上をもそもそ移動して、端に腰掛けているロゼアの背にくっついた。
ん、と柔らかな声が降って来る。あまやかに笑む赤褐色の瞳。
「なに? だっこ?」
「ロゼアちゃん、おつかれです……。ソキのせいです……? ソキが言うこと聞かないからです……」
でも、でも、だって。だってぇ、と呟いて、ソキはしおしおとうつむいてしまった。言うことを聞きたくない訳ではないし、悲しませたり、困らせたい訳ではないのだ。ソキはただ、ロゼアを守りたいだけなのである。
そうできるのはソキだけだ、という確信があった。瞬きの向こうには暗闇がある。そこはなにかに塗りつぶされている。
いそがなきゃ、と心が騒ぐ。はやく、はやく、いそいで、それをどうにかしないと。ロゼアが連れて行かれてしまう。そんな風にソキは思うのに、上手く伝える術を持たないでいる。
アスルに頬をくっつけて落ち込んでいると、ふ、とロゼアが笑ったのが分かった。おいで、と囁き、抱き上げられる。
膝の上に降ろされて、体がロゼアのほうに導かれる。くっついて、服からじわじわ染み込む体温に触れて、ソキはほわほわ息を吐き出した。もっとくっつきたい。とけてしまいたい。
このぬくもりに。ひとつになりたい。ロゼアの指がソキのリボンをひっぱって、髪を解いていく。ちり、と鈴の音。リボンが寝台の上に滑り落ちる。
「ソキ」
編んだ髪のくせが、指先でゆっくりと整えられていく。ソキのなかで、一番ロゼアに触れられているのは、髪だと思う。目をぎゅっと閉じて、さわられることに集中する。ふ、と耳に触れる近くで、笑い声。
梳かされていた髪ごと、頭をやんわり抱き寄せられる。肩に。もっとちかくに。
「ソキ、ソキ。目をあけて」
まぶたを、開く。すぐ近くにロゼアの口唇があった。さわりたい。さわって、ほしい。視線を持ち上げて目を覗き込めば、やわやわと肌をくすぐるような眼差しが、すぐソキを出迎えた。ふふ、と淡く笑って、頬が指で撫でられた。
「……きもちいい?」
声がうまくでない。舌がもつれて、言葉がでない。だから代わりに、こく、と頷いて、ソキは満ちた息を吐き出した。熱につつまれている。体温にくるまれている。抱かれた腕の中で。ロゼアの眼差しがソキに絡んでいる。
視線を反らすことができないでいる。それを許されないような気持ちでいる。
とろとろの熱に、ゆっくり、瞬きをする。
「かわいい。ソキ」
手と指だけが肌に触れている。ゆっくり、ゆっくり、撫でて愛でている。ロゼアの指が、すっと、ソキのくちびるをひと撫でした。紅を塗るように。指先に色はないのに。
「ソキ」
目を閉じてしまったソキを、やんわり咎めるようにロゼアが呼んだ。ぷ、と頬を膨らませて、ソキは目を開く。
「ロゼアちゃん? ソキね、ソキね。きもちいいです」
「うん」
「もっとして……?」
いいよ、と確かな喜びに緩んだロゼアの声が囁く。微笑んで。ロゼアはソキを抱き寄せなおした。
「約束できたら、もっとしような。俺の言うこと聞けるだろ? お返事は? ソキ」
「お返事……? はい、です……?」
「うん。じゃあ、俺と約束しような。アスルは投げちゃだめ。もう投げない」
呪いは残しておくようにね、と。ロゼアはウィッシュに囁かれている。帰り際に。目を盗むように告げられた。もしも、万が一のことを考えると。ソキが自分の身を守れる力を、ロゼア以外に持ってるっていうのはいいことだよ。
だから、とりあげないであげてね。あんまり怒らないであげてね、という囁きに、納得しきった訳ではないのだが。アスルを投げることだけは、どうにか止めさせなければいけないのだ。
ソキの体は脆く弱く柔らかい。数日の乱暴な仕草は、もうソキの体を痛くしてしまうぎりぎりまで追い詰めていた。ソキは、興奮してあまりに必死で、分かっていないだけで。
ソキ、ソキ、と囁きながら、ロゼアはくたくたに力の抜けた体をてのひらで撫でた。ゆったりと愛で。確認し、また、整えるように。夢うつつの眼差しで、ソキはロゼアが求めるままに返事した。
もうアスルを投げない。こわいこわいが来たら、すぐロゼアを呼ぶから、アスルは投げない。
だからさわって。もっと。さわってなでてきもちいいのして。ロゼアの、『花嫁』が。それを求める。甘い、蜂蜜めいた柔らかな声で。涙が滲むかすれた声で。ロゼアだけをその瞳に写して、何度も何度も囁き願う。
さわってさわって。ねえ、ねえ。ロゼアは微笑んで許しを待った。いつものように。いつも、ロゼアは。たった一言。ただ一言。その言葉を。許しを。許可を。待っている。
けれどもソキは、鍵を開くその言葉を、告げはしなかったので。ロゼアはふ、と笑って、己の欲望を水底に沈め。
「……触ってるよ」
強くソキを抱き直して、刻まれた呪いじみた強さの教育が指し示す通りに。
「触ってるだろ……ソキ」
囁き。己の『花嫁』を、その腕に抱えなおした。どこに送ることもない。もう二度と、失うことのない、ロゼアの花。ソキを。ロゼアの幸福の全てを。
妖精がソキの元を訪れるのは、いつだって騒ぎが一段落した、落ち着いた頃合いである。偶然そうなっている訳ではない。巻き込まれるなど冗談ではないので、意図的に避けているだけである。
魔術師であれば占星術師が特に長ける、先読み、星見の術を、魔力そのものに近しい妖精は、そうしたいと考えるだけで引き寄せる。魔術師がいう星の導きを、呼吸と同じように意識せず実行している。
物語や伝承の中、妖精が幸福の遣いとされるのはその為である。つまり、不運な妖精というのは、それだけどんくさい生き物であるのだ。
リボンちゃんたらソキが大変な時にはいっつも来てくれないです、とぷりぷり怒りながらも泣きそうに訴えたソキにそう説明し、妖精はほとほと呆れた顔つきで息を吐き出した。
「だからアタシが来たってことで、落ち着いたと思って喜べばいいのよ。わかった?」
「ソキが大変な時を避けてるですうううういけないですうううう!」
「……アンタ、なに? もしかして、アタシに傍にいて欲しかったの? そうなの?」
そうならそうって言ってご覧なさいよ、とふくれた頬を膝で蹴りながら言ってやると、ソキは開いていた教科書に筆記具を転がして、拳を握り、力いっぱい言い切った。
「いてくれなくっちゃいけないですぅ!」
「……いて欲しいの? なに? アンタもしかして、心細かったとでも言うつもり?」
甘えんぼ、と笑ってやると、ソキの頬がさらに膨らんだ。もう、もうっ、と不満を訴えようとするソキが妖精に文句を言うより早く、穏やかな、落ち着き払った柔和な声が花の名を呼ぶ。
「ソキ。授業中だろ。勉強しような」
「ろぜあちゃん? だってだって、リボンちゃんが、リボンちゃんがぁ……!」
「申し訳ありません、リボンさん。授業の終わりまで、すこし待っていて頂けますか?」
ほら、とソキのちまこい手に筆記具を持ち直させる男を白んだ目で見つめ、妖精は降りていた机から、無言で空に浮かび上がってやった。
授業停滞を咎めたのではなく、単にソキが妖精に甘えたり求めたりするのを辞めさせたようにも思えたが、まあ、気のせいだろう。気のせいだと思いたい。気のせいということにしておきたい。
そこまで心が狭くなったとは、思うが、認識しなければ無いのとも同じである。
腕を組んでソキの頭上で息を吐きながら、妖精は改めて、机周辺の様子を見回した。談話室の定位置。大きめの机を挟んでソファが向かい合わせに置かれている。ゆったりとした二人がけに、ソキとロゼアは隣り合って座っていた。
向かいの二人がけは空席のままである。恐らくはあとでナリアンとメーシャが座るからだろうが、ものも置かれずに整えられているさまは、どこか空白の寂しさを感じさせた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます