暁闇に星ふたつ:54



「ソキ。それについては、いま先生たちがうんと頑張ってくださっているからね。ソキがそんなに警戒しなくても大丈夫だよ」

 異変が起きている、これは事実である。ソキがそれを認識している、これも事実である。情報は隠されず、速やかに生徒に対しても共有された。

 その原因解明の為に、教員に割り当てられている者も奔走する可能性があり、授業が一部滞る可能性がある為である。それでもリトリアの時と違い、学内に強張った雰囲気が現われることがなかった。騒いでいるのがソキだからである。

 本人は真剣で、深刻で、本当に一生懸命なんだろうな、というのは全体に伝わっている。王宮魔術師が連携して動く事態であるから、大事であることも分かっている。だが、その上で、騒いでいるのがソキなのである。

 蜂蜜みたいにとろけた甘い声と、外見の愛らしさが、緊張感という緊張感、警戒という警戒を、ことごとく台無しにして粉砕してしまっていた。

 呪うくらいに追い詰められいるのは分かる。でも可愛い。かわいいしか残らないかわいい、というのが、医務室で呪いの解除を受けたルルクの、溜息交じりの第一声だった。

 だいたい、訴えている言葉が『こわいこわい』である。うん、そっかー、そっかー、と微笑んで聞いた女子生徒が、わかってくれてないですううう、とげきおこされるに至っても、悲壮感その他困惑が、生まれる気配は終ぞ無かった。

 だいたい、怒っているのがあいらしすぎて、激怒という単語をどうしても当てはめられないのも一因である。

 メーシャも、ナリアンも、ソキがほんとうに一生懸命に、必死に、なにかを伝えようとしていることは分かるし、教員が動いているのでそれが本当に警戒すべきことだというのも理解はしている。理解はしているのだが。

 それはそれとして。

「ソキはなんていうか……うん、すごいね」

「でえぇっしょおおお? う、うきゅっ……うう、動きにくいですぅ……」

 ふんぞりかえろうとして、布がびんっと張ったのだろう。やや猫背気味になって呟き、ソキはもぎゅもぎゅとアスルを押しつぶした。せっかくまあるく戻りかけていたアスルが、また楕円形にのされていく。

 つぶれちゃうよ、かわいそうだよ、と言うとソキはようやくアスルいじめをやめ、腕に抱えてぎゅむっと抱きしめた。

「ちっちゃいお服を着せるだなんて、いけないことです。ソキがちーちゃくなっちゃうかもです!」

「うん。ならないから大丈夫だよ、ソキ。さ、授業の時間だから課題しよう?」

 動くとちょっとつっぱるかも知れないけど、着ててキツかったり、気持ち悪くならないことは念入りに確認したから、と告げられている。ロゼアがソキに対して念入りに、と言ったのであれば、確実なことだった。

 もう、もぉうっ、とやや拗ねて怒りながら、ソキは素直に机に向き合って、教本を開く。もくもくと読み込むのを見守っていると、メーシャくん、と戻ってきたナリアンが隣のソファへ腰かけた。

「調子はどう? 順調に進んでる? ロゼアと行き会ったけど、急いでであんまり話せなくて」

「やるとなると、ちゃんと時間までには全部終わらせるから、ソキはまじめだなって感心してた所。ナリアンは、これから昼までお休み?」

「授業はないけど、ロリエス先生の課題がある」

 ナリアンがドン引きする勢いで課題式授業の切り替え許可を送ってきたロリエスは、直後に空き時間もあるだろう、と微笑が見えるような筆跡も鮮やかに、山のような課題を送ってきた。おかげで実験交じりの座学だけ受けてきた後、ナリアンはその課題に取り組まなければいけなくなったのである。休憩時間などない。

 しかもまだ授業でやってない範囲を予習しておけっていう内容だった、と顔を手で覆うナリアンを、メーシャが穏やかに慰める。

「俺も、ストル先生から予習の課題を頂いてるんだ。ナリアンと協力して進めるようにって仰っていたから、きっと同じものだよ。大丈夫。一緒に頑張ろう?」

「メーシャくん……! えっ、メーシャくんまで課題で溺れ死ぬことになったのどうしたの寮長殴る?」

「殴らない。違うよ、ナリアン。大丈夫だよ。落ち着こうね」

 ぽんぽんぽん、と両手で肩を叩き。メーシャは落ち着こうね、ときらびやかな笑みでもう一度繰り返し、くすぐったそうなはにかみで告げた。

「なんだかね、課外授業に連れて行ってくださる計画なんだって。俺と、ナリアンのことを。遠足だと思って準備しなさい、って先生が。俺、遠足ってはじめてなんだ。覚えてないだけかも知れないけど。楽しみだな、どんなのかな……。ナリアンは、その、行ったことある? 遠足」

「遠足……。うん、何回か覚えがある、かな」

 城に見学に行ったり、植物園に出かけたりした記憶が、なんとなく残っていた。ばっちゃと一緒に行ったな、としあわせを思い出しながらも、きゅっと胸の痛んだ表情でほろにがく笑うナリアンに。そっか、とメーシャは頷いた。

「ナリアンと一緒で、嬉しいな。……課題って、えーっと、魔術安定の視認調査? ナリアンのもそう?」

「うん、同じだ。どこに遠足に行くのかは聞いた?」

「聞いてない。リトリアさんが届けてくれた手紙に書いてあっただけだから。提出する時に聞いてみようかな」

 時間を見つけて、受け取りには行くから待っていて欲しい、と書いてあったのだという。

 ストルさんたら、どうしてもメーシャくんの顔を見たいのですって、とつんと唇を尖らせていたリトリアは、私からは最近視線を逸らすくせに、とむくれていた。

 師の心情が手に取るように分かったメーシャは、そのうち、また視線があうようになりますよ、とリトリアを見送った。

 恐らく、ようやく想いが通じ合ったリトリアがかわいすぎて直視できていないだけである。

「……あれ? あれ? ナリアンくんがいるぅー! やぁん、教えてくれなくっちゃだめなんですよぉ」

 ちがうですよ、無視をしていたんじゃないです、ソキは授業をけんめいにしていてちょっぴり分からなかっただけです、と慌てながら言うソキに、ナリアンは分かってるよ、と慈愛のこもる目で頷いた。

 ナリアンも、メーシャや学園の生徒たちと同じく、ソキの印象としてかわいいが先行し過ぎているが故に事の重大さをいまひとつ理解しきれていない勢のひとりである。

 分からないけど、ソキちゃんを怖がらせるならころそうよ、と言って、寮長に正座のち一時間みっちり説教されていたのは、昨日の夜のこと。冗談でも言うな、ではなく。本気で言うな、という怒られ方だった。ナリアンの目は本気だった。

 妖精に、ソキになにかあった時の殺意が高め、という評価を得ているだけはある。

「ソキちゃん」

 柔らかな声で、ナリアンは囁く。

「俺には分からないけど、でも、怖かったらすぐに俺を呼んでね」

「わかったです」

「俺のことも呼んでね、ソキ」

 半分は、暴走しがちなナリアンを止める為に、である。メーシャにも真面目な顔でこっくり頷き、分かったです、と言って。ソキはアスルをもぎゅもぎゅ潰していじめた後、途切れた集中がまた繋がったかのように、静かに教本を読み始めた。

 授業態度としては真面目で、勤勉なのが常である。しばらくそうして読み進め、課題の記された紙を引き寄せ、つっかえながらもそれに全て書きこんで。

 でーきたーですーぅ、と満面の笑みで顔をあげ、授業時間の砂時計を確認する。まだすこしばかり残っていた。よゆーがあるということです、すごいです、これは褒めてもらわねばです、ときょろきょろあたりを見回して。

 ソキはがっかりした顔で、机に頬をぺとん、とつけた。

「そうでしたロゼアちゃん授業だったです……。ねえ、ねえねえナリアンくん。帰ってくる時に、ロゼアちゃんにお会いした? ソキにロゼアちゃんのお話をして?」

「ごめんねソキちゃん。すれ違っただけで、おつかれさま、またあとでね、くらいしか話はしてないんだ」

「そうなの……。ソキはもうロゼアちゃんにぎゅってして欲しくなっちゃったです。ロゼアちゃんの褒めが足りなくなっちゃったです。ろぜあちゃぁん……」

 ほめてほめてソキは頑張ったです、おふたりともロゼアちゃんが戻ってきたらそれをめいっぱい教えてくれなくっちゃだめです、と強請られて、ナリアンとメーシャは顔を見合わせて笑った。

 もちろん、と言うと、ソキは顔をあげてぱっと笑う。

「これでロゼアちゃんはソキを褒めてくれるです……! 授業中のかっこいいロゼアちゃんは、あとで先輩にお聞きすることにするです」

「ソキの蝶ちゃん、ついて行ったんじゃないの? あのことお話はできないの?」

「あ! あかちょーちょちゃん! あかちょーちょちゃんにロゼアちゃんのおはなしきくですうううう」

 きっとロゼアちゃんのお肩とか、おせなかとかに、ぴとっとくっついてちたちたしているに違いないですいいなぁあかちょーちょちゃんいいなぁ、ともじもじするソキに、和んだ笑みを浮かべながら。

 ナリアンはふとすれ違ったロゼアのことを思い出す。赤い鉱石の蝶。ソキの魔力の具現。それはロゼアの髪や肩、背にはくっついていなかったような気がした。

 追いかけるのと、すれ違った気もしない。

 移動速度がソキと同じくらいであるので、遥か彼方からふよほよ、えっちらおっちら追いかけていた可能性はあるのだが。やがて授業を終えて戻って来たロゼアは、赤い蝶を見ていない、といい。

 ちょーちょちゃんはぐれちゃったに違いないです、とソキはひとしきりガッカリした。持ち主からはぐれた魔力の具現は、やがて自然に世界へ解け消える。

 柔らかな風の中へ。己の親しい友の中へ。ソキの魔力が解けた気は、せず。ナリアンはすこしばかり首を傾げた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る