暁闇に星ふたつ:53

 水洗いしてぎゅうぎゅうに汚れを絞り出されたアスルは、ぺっちょり潰れてへちょへちょになっていた。柑橘石鹸のいい匂いがする。膝の上で布を押し当て、とんとん、と叩いて水気を取るロゼアに、ソキはちらちらと目をやった。

「アスルつぶれちゃったです……」

「すぐにふわふわになるよ、もうちょっと」

「もうちょっと? あする、あするぅ……もうちょっとの我慢ですからね。すぐにロゼアちゃんがぷわぷわにしてくれるですからね。そうしたら、またソキと一緒にけんめいに頑張るですよ」

 課題しような、とやんわり促され、ソキはくちびるを尖らせながら机に向き直った。すでにメーシャは命じられた分をやり終えていて、身を乗り出してソキの手元を覗き込んで囁き落としてくれたり、ロゼアに感心したりと自由に過ごしている。

「アスルって、ロゼアの手洗いだったんだ……石鹸も、いつもロゼアが使ってるのとは違うね?」

「あれは俺の浴用。これは、アスル用」

 専用の石鹸を『お屋敷』から取り寄せているのだと聞いて、メーシャはゆっくりと頷いた。ロゼアがソキ用品に関してこだわるのは、いつものことである。

 ロゼアはソキに関してほんと惜しまないよね、としみじみするメーシャにそうでしょうそうでしょうと自慢しつつ、ソキは教本にしおりを挟んだ。

 授業時間を示す砂時計には、まだいくらかの残りがある。自慢いっぱいな顔でこくりと頷き、ソキはソファの端に座っていたロゼアににじり寄った。背中にぺとんとくっついて、膝の上を覗き込む。

「ロゼアちゃん? ソキは課題をちゃーんと終わらせたです。だからアスルを乾かすとこ見てるです」

「いいよ。ちょっと待って」

 天気のいい夏は、ハンモックで木の間に一日ぶら下げて乾燥させるのだが。外はもう冷たい風が吹く十一月だ。最近はもっぱら、ソキの髪と同じくロゼアの手乾燥である。

 メーシャも机に肘を突いて視線を向ける中、ロゼアは水を吸ったタオルを退け、ソキの頭を撫でてふにゃふにゃ鳴かせてからアスルを持ち直した。詠唱はなく。す、とロゼアが集中したのを感じて、ソキはうっとり息を吐き出した。

 ロゼアの魔力は暖かくて気持ちいい。お日様の熱をいっぱいに吸い込んだシーツに包まれる気持ちになる。てのひらに集まった熱が、アスルをふわふわに乾かしていくのを見つめながら、ソキはゆるんだあくびをした。

 授業中に寝ちゃだめだよソキ、とメーシャが笑う。ねむたい目でこくん、と頷いて、ソキはロゼアにくっつきなおした。

「あ、ソキ。いけないんだ。寝ちゃうね?」

 目を閉じてぬくもりを堪能しながら、本能的に魔力を追う。ねないもん、とメーシャに告げると、ロゼアの手がソキの頬を撫でていく。ふにゃうにゃ、くすぐったさと、気持ちよさに笑う。ふ、と緩んだロゼアの笑い声。

「……うとうとしてる」

「ソキ、夜は眠れているの?」

 頬、首筋。ゆるゆる指先が撫でていく。顎の下。肌を擦るように指先が触れる。

「うん。夜は寝てるよ。でも、今日は昼寝もさせないとな、と思ってる。昨日はしなかったから」

「そっか。うん、頑張って寝かしつけるね」

「ありがとう。ナリアンにも頼んで行くけど……寝たがらなかったら、横にはさせておいてくれるか?」

 ひかり。砂漠に満ちる金のひかり。ソキをくすぐって暖めてしあわせにする陽光。ふわふわの熱。それに。ちか、と瞬くようなものがあった。

 ちいさい。それは星屑の欠片のような。飛び散った雨の雫のような。じわ、と広がる黒点。インク染み。じわじわ広がって溶けていく。なにを考えるよりはやく、ソキはぴああああと声をあげた。

「こわいこわいですうううううっ!」

「え、ちょっ、わ! わ!」

 ロゼアの手が、乾いたアスルをばふばふと叩く。出力調整が乱れたらしい。よかった焦げてない、と心底安堵するロゼアにひっつきなおしながら、ソキはきょろきょろ忙しなくあたりを見回した。ソキにはちゃんと分かった。

 あの黒い魔力はこわいこわいである。こわいこわいはやっぱり近くにいるに違いないのだ。しかしいくら談話室を確認しても、それらしき者は分からなかった。

 突然声をあげたソキに驚いた視線はいくつもあったが、すぐ、なんだ寝ぼけちゃっただけか、と微笑ましく離れていく。くしくし目をこすって、ソキはぷっと頬を膨らませた。

「ちぁうもん。ソキ、そき、いま、ねむてなかたです!」

「おはよう、ソキ。授業終わりだから、先生が来るよ。もう起きていないとだめだよ」

「ねむむなかたもん。ほんとだもん……」

 ふあふああくびをして、ソキは目をこすった。ちょっとうとうとしてしまったかも知れないけど、でも、眠ってはいなかったのである。つまり寝ぼけたのとは違うのである。

 嫌な夢を見るようなら俺も協力できるよ、ありがとうなメーシャ、とりあえず今日は寝室に焚く香草を変えてみようと思っていて、お昼寝の時にも使おうか香炉とかでいいのかな、と会話が意識の上を滑っていく。

 のたのた瞬きをしながら、ソキの意識はまだ魔力を追っていた。ロゼアの魔力、メーシャの魔力、ソキの魔力。談話室にいる生徒たちの、世界に満ちる大気に溶け込むきらめき。欠片。祝福の渦。

 ううん、とソキは眉を寄せ、こて、と首を傾げた。

「分からなくなっちゃったです……あ! ロゼアちゃん? アスル乾いたぁ?」

「うん。確認するな……」

 ばふばふとアスルを揉んで叩いて、焦げていたり過度に熱くなっている箇所がないことを、もう一度確認して。ロゼアは全身を脱力させるような息を吐くと、ソキを膝の上に抱き上げた。

 もぞもぞ座りなおすソキの手に、ころん、とアスルが戻ってくる。まふまふのぷわぷわのほわほわだった。よかったねえアスルううううっ、と満面の笑みで頬をすりつけるソキに、メーシャが安心した風に目を和ませる。

「よかったね、ロゼア。燃えないで」

 寮や授業棟には、一応、未熟な魔術師が魔力を暴走させてしまわないように、予防と守護の魔術がかけられてはいるのだが。突発的な事故を完全に防いでくれるものではなく、また必ずの保障がされるものではないのだ。

 火災が起きない装置ではなく、火が燃えた時に広がらないよう速やかに消火する機能だと思っておけ、と寮長からは説明がされている。

「ソキも、だめだよ。急に大きな声だしちゃ」

「メーシャくん? だって、こわいこわいだったです」

 これはもう、けんめいにロゼアを守らなければいけない。やっぱり狙われてるです、ソキにはわかっちゃったです、と気合を入れなおしていると、ロゼアが立ち上がる。当然のように、ソキを抱いたまま、である。

 きょとん、とするソキを抱っこしたまま、ロゼアはメーシャにちょっと悪いけど、と言った。

「着替えさせてくるから、課題の提出しておいて貰えるかな」

「うん。それがいいね。行ってらっしゃい」

「ソキ。ちょっと違う服にしよう。かわいいのにしような」

 ロゼアが自ら着せ替えてくれるのであれば、ソキに否やがある筈もない。手間隙かけてもらうのは大好きである。そうするです、と機嫌よく頷いたソキに微笑み、いいこだな、と囁いて。ロゼアは部屋に向かって歩き出した。




 ロゼアは実に手早くソキを着替えさせ、談話室に戻して己の授業に駆け出していった。えっちらおっちら赤い蝶が後を追い、ソキは不満顔でアスルをもぎゅもぎゅと押しつぶす。

「なんだか騙された気がすぅです……」

「気のせいだよ、ソキ」

 うるわしく楽しげな笑みでメーシャが囁く。そうかなぁそうですぅ、と疑問たっぷりの声で頬を膨らませ、ソキは膝上のアスルをもぎゅもぎゅとつぶした。まあるいアスルが、やや楕円形に伸ばされていく。

 いいの、と問われたのでソキはアスルをころりと半回転させ、またもぎゅもぎゅと押しつぶした。

「だってえ、このお服だと、アスルをえい! ってできないです。攻撃力がさがっちゃたです!」

 文字を書いたり、アスルをぎゅむっとつぶしたりするくらいなら問題がないのだが。ほんのちょっぴり小さい服なのである。成長したですから、これはもうお下がりさんというやつです、と衣装箱にしまっておいた筈のものである。

 着るのに不自由はないが、上半身のつくりがもうぴったりしていて、腕を大きく動かしてアスルを投げることは難しい。スカートもやや重たい生地で、動かないでいるには問題が無いが、あちこちへ行くには疲れてしまう。

 これじゃロゼアちゃんのお迎えにもいけないです、と落ち込むソキに、戻ってくるまで待っていようね、と言い聞かせて。攻撃力か、と言葉そのものを面白がるように呟いて、メーシャはやんわりとした仕草で頷いた。

「うん。下げていいんだよ?」

「ええぇ……! もう、メーシャくん? いーい?」

 つん、とくちびるを尖らせて、ソキは微笑ましさでいっぱいの顔をするメーシャに、真面目な声で言い聞かせた。

「こわいこわい、ですよ? こわいこわい。ソキは、こわいこわいからロゼアちゃんを守ってるです」

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