暁闇に星ふたつ:52


 談話室の入り口には、掲示用のコルクボードが設置されている。授業の延期や変更、持ち物のお知らせやちょっとした小遣い稼ぎのできる就労情報などの紙が事細かに張られたその場所に、一枚の大きな紙が張り出された。

 ソキの身長ほどもある、特大の紙である。まだ墨の乾ききらない筆書きで、こう記載されていた。

「ソキに近づくべからず……。ソキに、近づくべからず、です……!」

 上から下まで何回読んでも、その一言しか書かれていない。申し訳程度の補足として、被害拡大を防ぐ為、と付け加えられていた。ああ、そうなるよね、と理解しかない視線を投げかけ、生徒たちはぱたぱたと談話室を出入している。コルクボードのまん前に立って。

 ソキはぷるぷる体を震わせ、ふにゃああぁあっ、と怒りの声をあげた。

「あんまりですううううう!」

 これではまるで、ソキが悪いみたいである。ひどいことですうう、と怒りながら、ソキは両腕にしっかと抱いたアスルに、うりうりと頬をこすりつけた。ここ数日、片時も離さなかったせいで、アスルはちょっとゴワついてきてしまっている。

 お洗濯が必要かもです、とくちびるを尖らせてつぶらな瞳と見つめあい、ソキはこっくりと頷いた。

「ソキがまふまふのほわほわにしてあげるですからね……! ろぜあちゃぁん」

 甘えた声でてちてちコルクボードの前から離れ、ソキは定位置のソファ前まで歩いていく。あんまりです、ひどいお知らせだたです、と言いつけながらソファに座り、ソキはアスルをずいと差し出した。

「ロゼアちゃん。アスルがきれーになりたい頃合い、というやつです」

「ん? 洗う? ……あー、ごわごわしてるな……」

 アスルにひっついた綿埃を摘んで捨て、ロゼアは深く息を吐き出した。

「ソキ。またアスル投げたろ」

「アスルはソキと一緒にけんめいに頑張っているです。命中させないといけないです。練習をしたです。えらい?」

 ロゼアが朝の運動をしている間にもそもそ起きて、ぽんぽん投げて、ちからつきてもう一回寝たのである。褒めていいんですよ、と自慢げにするソキに、ロゼアは困った息を吐き出した。

「……ソキ、おいで」

 抱き上げて、膝の上に降ろされる。腰に腕が回されて、抱き寄せられた。肩に頬をくっつけると、うっとりするような心地よさで頭が撫でられる。

「投げたら駄目だろ。腕を痛くするだろ」

「ロゼアちゃんがねらわれているです。ソキにはわかるです」

 今日だって、こわいこわいはいる気がするのである。くちびるを尖らせながらあたりを見回せば、なんとなくその気配が漂っている気がした。面談をする前のような、あからさまな、分かりやすいものではなくなっているのだけれど。

 じっと息を殺してソキの様子を伺っている。ソキがロゼアを守っているからだ。ふんす、と鼻を鳴らすソキに、困ったね、とメーシャが笑った。

「どう狙われてるの?」

「あのね、あのね。じーっと見てるです。きっと、ロゼアちゃんがむぼーびになるのを待っているです……! ロゼアちゃん? いーい? ひとりになったらいけないですよ。きっと、きっと、ゆうかいをもくろんでいるにちぁいないです!」

 興奮と恐怖のあまり、ソキの口調はたどたどしい。早口で、もつれながらの響きに、メーシャはんー、とすこしだけ考えた。あ、誘拐、と手を打って、メーシャは穏やかに微笑した。

「ロゼア、誘拐されそうなの? それは困ったね」

「俺は今も困ってるよ……。されないよ。ソキ、ソキ。どうしてそう思ったの?」

「こわいこわいだもん」

 どうしてもなにも、前科があるのである。ソキがされたので、次はロゼアを、と思っているに違いない。ぜったいにそうである。ふくれっつらで訴えるソキに、ロゼアは息を吐いて囁いた。

「こわいこわいは、俺を誘拐したがってるの? なんでそう思うんだ?」

「大丈夫ですよぉ、ロゼアちゃん。ソキがアスルと守ってあげます!」

「ロゼアは嫌な感じとかは、しないの?」

 ソキがこれだけ騒いでいるのに、ロゼアが弱りきっているばかりであるのも珍しい。笑いを堪えながらメーシャが問えば、ロゼアは考え込む顔つきをしながらも、首を横に振った。

「言われてみると、見られている感じがしないこともないけど……ソキが言うような企てがあるものだとは……」

「ロゼア、モテるもんね」

「からかうなよ。メーシャに言われたくないし、ソキほどでもないよ。ソキに対する視線なら、もっとよく分かるんだけどな」

 それが観察であれ、観賞であれ、情欲であれ、悪意であれ。ソキに絡みつくものであるなら。それを判別し、対処するまでが日常の行い。でえぇっしょおおお、となぜか自慢げにふんぞりかえったソキは、ロゼアに頬をくっつけてから言った。

「でも、でも、でもぉ? ロゼアちゃんはソキの! そきのー、ですぅー。そきのー」

「うん。俺はソキのだよ。……だから、誘拐されたりしないよ」

 だいたい、ウィッシュが持ち帰って各国魔術師と検討した結果として、狙われているとしたらソキだから警戒を怠らないようにね、と言われたのはロゼアである。その一環としての、不用意にソキに近づくべからず、なのだ。

 ソキから攻撃される危険もあるとはいえ、アスルを投げたら、回収するまでの間は無防備である。一対一以上になれば、危ないのはソキなのだった。

 おかげで、当面のソキは座学に出席停止処分である。万一がない、とは限らないからだ。それでも出席が停止されただけで、補う為の宿題はわんさかと出されている。長く寝込んでいた去年のように、過度に遅れてしまう心配はない。

 ウィッシュも様子見がてら、実技授業はしに来ると告げていたので、ソキの心配事はロゼアだけなのであった。

 談話室で課題に取り組むソキと違って、ロゼアには通常授業が課せられている。ソキに用事がある者の間を取り次ぐため、メーシャとナリアンが授業時間を組みなおして、どちらかが必ず傍にいてくれる約束とはいえ。そうじゃないのである。

 ソキじゃなくてロゼアなのである。ソキはぷっと頬を膨らませ、じゃあアスルを洗ってくるから、と席を立とうとするロゼアに、慌てて抱きついた。

「ロゼアちゃん! ひとりで行っちゃだめですぅ、ソキも一緒に行くですぅ」

「ソキ。ソキは課題があって、授業中だろ」

 教室に移動しない代わりの、談話室にて課題解きなのである。授業が終われば講師が訪れ、取り組んだ課題を回収していく手はずになっている。ロゼアはたまたま休みの時間であるから、動くことができるだけだ。

 ソキに付き合って課題式授業に切り替えてくれたメーシャは、微笑ましそうに見守るだけで口を挟まない。んんん、とぐずるソキに、ロゼアは開きっぱなしの教本を手に取った。

 出された課題と見比べて、ロゼアはとん、と紙面に指先を置いて告げる。

「ソキがここまで終わる頃に戻ってくるよ。分からない所あったらメーシャに聞こうな」

 メーシャに課題式授業の切り替え許可が下りたのは、不明点が出たソキに教える者が必要だからである。同じ手続きをナリアンも行っているので、昼からその役目が引き継がれることになっていた。

 ソキはしぶしぶ頷いて、わかったです、と呟く。

「ソキは課題をちゃぁんとするです……ロゼアちゃんはアスルをぷわぽわにしてくれるです……。ソキはメーシャくんと一緒にお勉強をするです。えらい? えらい? かわいい?」

「うん。偉いな、ソキ。偉くてかわいいからぎゅっとしような」

「きゃぁあんぎゅぅーっ!」

 課題式授業の切り替え許可は、各担当教員の印鑑が必要となっている。多忙を極めるロリエスは、それ故にすぐに返事を戻した。特別便で転移させた、ものの数秒後の出来事だった。

 ストルは、各国との連絡役としてぱたぱた動き回っているリトリアが、朝食の席に現われてメーシャにそれを手渡した。チェチェ、ちょっと忙しくてもうすこしかかりそうなの、とロゼアには申し訳なく告げられていた。

 午後の実技授業の時には、一緒に手渡すことができる筈だという。

 午前中は俺に任せて頑張ろうね、と笑むメーシャに息を吐いて。ロゼアはソキをぎゅっとしてから、足早に談話室を立ち去っていく。見送って、ふっと現われたものに、ソキは目をぱちくりさせる。

 赤い鉱石の蝶が、ロゼアの後をふよほよと追いかけていく。ソキの魔力の具現だった。こぼれちゃったです、とソキの呟きに、メーシャは心配性だね、と言って笑った。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る