暁闇に星ふたつ:51

 どんな様子だ、と顔を覗かせたロリエスに声をかけ、シルはウィッシュに目で許可を得てから、足早に部屋を離れて行く。図書館へ向かったのだろう。世にある魔術師に関する、ありとあらゆる本が収められているという場所。

 知識が紐とかれ白日へ晒されて行く場所へ。向かう者を見送って、ウィッシュは妹に意識を戻した。

 ソキは一心に。助けの手を伸ばすように、すがるように。チェチェリアを見つめている。

「こわいこわいはね、それと一緒なの。ソキが、ルルク先輩にえいってした時は、くっついたばっかりだったです。いっぱいだったの。フィオーレさんも、エノーラさんもです。それでね、砂漠はね、いっつも皆こわいこわいがいっぱいで、だからソキは行きたくないの。きっと、フィオーレさんはまた、こわいこわいがいっぱいに戻っちゃってるです。ソキには分かるです。ソキはね、一度にね、一回、えいってするのが精一杯なんですけどね、こわいこわいは、たくさんできるの」

「……くっついている、というのは?」

「あのね、すぐだったら、ソキにはえいってできるです。でもね、時間がたつとね、混ざっちゃうの。混ざっちゃうとね、ソキにはね、あれ? ってなるです。こわいこわいだった気もするですけど、でも混ざっちゃって一緒になっちゃうと、よく分からないですし、えいってしても、戻らないんですよ。大変なことです」

 途中までは分かっていた気がするんだが、と呟きを落とし、チェチェリアは立ち上がった。ウィッシュ、と呼ぶ声の求めを理解している。すぐ俺も行くよ、と言って、ウィッシュは寮長たちの後を追うチェチェリアを見送った。

 ぞわぞわと、骨の近くを這いずって行く寒気のように。理解する。異変だ。これは、恐らく、とびきりの異変。ソキが鍵を握っている。そして必死に、伝えようとしてくれていた異変だった。

 チェチェリアに理解しきられなかったことに目を潤ませ、ソキはくちびるに力を込めて震えていた。鼻をすすって、何度も、何度も瞬きをしている。ロゼアが抱き寄せ、落ち着かせようとするのを見ながら、ウィッシュはソキ、と呼んだ。

 視線が向けられる。宝石色の瞳には光があった。まっすぐ、強く、輝いていた。息をしている。思わず、ウィッシュは華やかに笑った。諦めていない。

 悔しく思って、悲しさで胸をぐしゃぐしゃにして、言葉は届かず意思を分かち合えなくても。何度そうされても。何度でも。ソキは思い直して、まだ、諦めていない。祝福を信じている。

 助けが届くことを信じている。うん、と笑って、その意思の前にウィッシュは跪いた。

「ロゼア、ソキを頼んだよ。……面談はこれでおしまい」

「はい。ありがとうございました。……処分、は」

「ないとは言ってあげられないし、思えないけど、まあ反省札かな。ちょっとね……なにか起こってるのは確かだし、それに気がついたのがソキっていうことなのかも知れないけど。確定するまでは、ごめんなさいしていような。動けなくするのはいいけどさー、痛いのは駄目だろー?」

 両手を伸ばして、ソキの頬をうりうりと弄んで潰す。ソキはふぎゃあぁあいやあぁあっ、と本気で怒った声を出して、ロゼアの腕の中でばたばた抵抗した。ふふ、といじわるに笑って、ウィッシュは囁く。

 大丈夫だよ、ソキ。お兄ちゃんがちゃんと守ってあげる。ね、と笑ってから離れて行くウィッシュを、ソキはじーっと見つめて。不満そうにふんっ、と鼻を鳴らして呟いた。

「違うもん……。ソキじゃないんだもん……」

 ロゼアちゃんを守ってくれないといけないです、ねらわれているです、と。ソキはロゼアにもちゃんと訴えたのに。ロゼアは、そうだな、と笑ってソキを抱きしめて。俺は大丈夫だよ、と背を撫で、囁くばかりだった。




 けふけふこふん、と咳をする。口に両手をあててぎゅっと我慢をしても、またすぐ、こふふっ、とソキは咳をしてしまった。頬も耳も首も、ぽかぽかしていて、じんじんと痛む。熱が出てしまっている。

 ソキが分かっているくらいなのだから、ロゼアに隠しきれる筈もない。うん、と微笑んで、ロゼアは寝台を降りようとしていたソキの両足を抱え上げ、ぽすん、と柔らかな布の上へ逆戻りさせた。

「今日はお休みしていような、ソキ」

「うぅ、うー……!」

 ロゼアもソキも、今日の授業はお休みである。水曜日でも週末でもないが、昨夜の遅くにそれぞれ担当教員から、翌日の授業中止を知らせる手紙が届いた為だった。ストルは顔を出すらしいが、ロリエスも休みである。

 他にも教員の手があかない為に、臨時の休日となった者が何人もいた。ソキの騒動を受け、大規模な調査が組まれているらしい。

 ナリアンとメーシャは時期を見て、その調査に呼ばれる可能性がある、とのことだった。

「ずっと緊張していたから、疲れちゃったんだな……今日はお部屋から出るの、やめような」

「……ロゼアちゃんは?」

「俺も一緒。ずっと一緒にいるよ、ソキ」

 起きていられるなら久しぶりに本を読もうか、と提案されて、ソキはぱっと表情を明るくした。ロゼアに口を通して語られる物語は、琥珀色の不思議な奥行きを持って心の中に馴染んでいく。どんな言葉も、どきどきする。

 ロゼアの声でソキは何度も冒険に出たし、難しい事件を解決したり、星の描く伝説の一部にもなったのだった。そうするです、そうするっ、と早口に興奮しながら言って、ソキは口をぱっと手で押さえた。

 けれども、こらえきれず。ごほ、と咳をしてしまったソキを、ロゼアは手早く寝かしつけた。ぽん、ぽん、と肩を叩かれ、すこしねむろうな、と囁かれて、ソキはロゼアの手に触れた。

 指を絡めて、繋ぐ。きゅぅ、と握りしめて、ソキは切なく、心から言った。

「ロゼアちゃん……。ソキ、元気になるです。すぐ、すぐですよ」

「うん。……うん、分かった。でも、魔力を使うのは駄目だからな。ゆっくり眠って、治そうな」

 ソキの回復を助ける恒常魔術の発動は、未だ禁止されているままである。それでも事あるごとに使いたがるソキに、つどロゼアは言い聞かせていた。ソキはぷっと頬を膨らませて不満を伝えるが、許してくれることはなく。

 眠ろうな、とうっとりするほど気持ちよく頭を撫でられて、ソキは息を吐き出した。守らなきゃ、と思う。今度こそ、今度こそ。決意は眠りの中に、ゆっくりと沈んだ。




 喉に口付け。笑い声。ひ、と悲鳴じみた息を吸い込み、ソキは瞼を持ち上げた。どくどく、心臓が嫌な音を立てて動いている。震える体が動かせない。視線だけであたりを伺えば、ロゼアが寝台の端に座る、その背が見えた。

 部屋にはロゼアがいるきりで、ナリアンも、メーシャも、訪れてはいないようだった。廊下は静まり返っている。皆、談話室にいるのだろう。どれくらい眠っていたのか分からなかった。

 ソキは震えながら、もう一度ロゼアを見た。ロゼアはまだ振り返らない。ソキに背を向けたまま、本を読んでいるのかも知れなかった。そうだと思いたかった。

 ソキは喉に、くちびるで触れられた気がする、その箇所に指先を押し当てて、嫌な記憶を振り払う。誘拐されたあの時に。鎖につながれ砕かれたあの悪夢の中で。あの男は幾度もソキにそうして触れた。

 性愛ではなく、情愛ではなく。

 所有物を大事に手入れする。そういう仕草として。

「あ……あする……!」

 泣くのをこらえて、ソキはアスルをあわあわと抱き寄せた。呪いがしっかりとかかっていることを確認して、ソキはぎゅぅっと目を閉じる。こわいこわいがくっついている風ではなかった。なにか違う気がした。

 でも、どうしても怖かった。怖いことが信じられなかった。確かめずにはいられなかった。破裂してしまいそうな心臓のまま、ソキは祈りを託すように、アスルをロゼアに向かって放り投げた。

 呪いはかかっている。のす、とロゼアの背にぶつかった。すぐにロゼアは振り返り、ソキを見る。

「ソキ? どうしたの? ……声がでない? 喉痛いか?」

「ろ……ロゼアちゃ……? ロゼアちゃん、ロゼアちゃんっ?」

「うん? うん、どうしたの。俺だよソキ。俺だよ。……ソキ、ソキ。どうしたの。怖い夢を見たの? おいで」

 ひょいっと抱き上げられて、膝の上におろされる。ぬくもりをひとつにするようにくっ付いて、ソキはふー、と息を吐き出した。ロゼアが言うなら、怖い夢だったに違いない。違いないのだけれど。喉に、肌に。

 熱が触れた記憶が、こびりついて離れない。眉を寄せてごしごし手で擦り、ソキはもうそれを気にしないことにした。はやーく元気になるです、と告げるソキに、ロゼアは目を和らげて微笑んだ。

 その笑みをぽやーっとしながら見つめて、ソキは唐突に気がついた。

 もしあれが夢じゃなくって悪夢でもなくってもしかして本当にあったことだとすれば、それはもしかしてもしかしなくてもロゼアがソキにちゅうをしてそれで恥ずかしくってごまかしたりしているだけなのではないだろうか。

「きゃ……きゃぁああんやんやんやにゃああきゃうううはううぅー!」

「そ、ソキ? ソキ?」

「やぁああんソキが起きてる時にしてくれなくっちゃだめですうううう!」

 そのせいで、とんでもない勘違いをしてしまう所だった。ロゼアが怖いだなんて、そんなこと、ある筈がないのに。こわいこわいだなんて。寝台に転がるアスルをぎゅむぎゅむ抱きしめて、ソキは赤らんだ頬でロゼアをちらっと見つめた。

 微笑み返される。きゃぁんやんやんロゼアちゃんだぁいすきーっ、とはしゃいで抱きついていると、扉の向こうからナリアンとメーシャの笑い声が聞こえた。お見舞いに来てくれたらしい。

 ほっとして、ソキはふたりの名を呼んだ。いつも通りの日だと、思った。

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