暁闇に星ふたつ:49



 消されている。言葉は消されている。塗り潰されている。真っ黒にされて、そこにあったものがどうしても読み取れなくされている。それを伝える言葉を隠されている。

 残ったのは。奪われないよう抱きしめて残すことができたのは、ソキの感情ひとつきりだった。怖い、という気持ちだけだった。記憶には目隠しをされている。そこへ辿り着く道は隠されている。

 だからソキには伝えることができない。考えても求められても、なにを、なにが、どうして、その全てを伝えることができない。

 呪いのように。感情をこころに焼き付けて残した。それは怖いものだ。それは怖かったことだ。それに怖いことをされた。それは、それは。それは怖いもののままだ。それは砂漠にずっといて、でてこられなくて、だから大丈夫だと思っていたのに。

 そう言われていたのに。消されて塗り潰されて真っ黒にされてしまった日から。目隠しをされて、忘れさせられて、奪われてしまったその日から。ソキにはそれが分かるようになった。

 いないはずなのに。たくさんの場所に、それがいた。それは、いつも誰かにくっついている。こっそり端に書き込まれた落書きのように。誰かの端に、こっそり、こわいものがくっついている。

 『学園』にも、何人もいた。何人かは遠くからソキを見ている。何人かは、ロゼアの近くにもいた。それはくっついているだけで近くには来なかったけれど、こわくて仕方がなかった。

 だってそれは、いまはなにもしないだけで。いつか、なにかをしようとしている。だからロゼアを見ているのだ。それが分かったのに、ソキはロゼアにそれを上手く伝えられなかった。誰にも、ちゃんと説明できなかった。

 言葉が消されていたからだ。伝えるに至る道筋を。ソキは考えた。考えて、考えて、そうだ、と思った。そうだ、きっと、ソキががんばらなくちゃいけないんだ。

 誰にも分からないなら、誰かが分かってくれるまで。誰にも伝えられないなら、誰かが訝しんで考えてくれるまで。誰にも助けてもらえないなら、誰かが守ってくれるまで。

 ソキが守らなければいけない。ソキのことを。ロゼアのことを。こわいものは、ロゼアをずっと見ているように感じた。ロゼアを狙っているのかも知れない。フィオーレも、エノーラも、ルルクも。

 こわいものがくっついているだけで、こわい、にはなっていなかったけれど。

 でも、誰も気がついていないのだ。そこにあるのに。くっついているのに。今にだってきっと、牙を向こうとしているのに。怖い、以外が分からないソキには、それをちゃんと伝えられない。

 だからせめて、ソキは、それに名前をつけて呼ぶことにした。こわいもの。こわくてこわくて仕方がないもの。こわいこわい。ずっと訴えて、それで頑張っていれば、きっと誰か、気がついて、助けてくれる筈だから。

 祝詞を信じて、呪詛を囁く。予知魔術師の本能が、ソキを突き動かし、そうさせたのだと。




 それなのに。ソキがけんめいに頑張っているのに。ロゼアはそれをだめ、だと怒るし。お叱りだって受けなければいけなくなって、ウィッシュも呼び出されて面談なんてされるのである。

 これはひどいことである。でも、好機にも思われた。ソキがけんめいにこわいこわいを訴えれば、ウィッシュならなにか分かってくれるかも知れないからだ。思ったとおり、ウィッシュはソキの話を全部聞いてくれた。途中で遮らず。最後まで。

 ウィッシュは真剣な顔でうんうん、と頷き、ソキに向かって微笑みかけた。

「ちょっとよく分かんない」

「がっかりですうううう!」

 聞いてくれただけである。なんの役にも立たない。不満でいっぱいの叫び声をあげ、宥めようとするロゼアの膝上に抱えられたまま、ソキはもうぜんと説明を繰り返した。

 だから、こわいこわいがいっぱいで、それはすごくたいへんなことで、なにがたいへんってそれはこわいこわいで、つまりとんでもないことで、ソキにしか分からないので、ソキはけんめいに頑張っているのである。

 呪いはソキの頑張りである。褒めがもらえる所である。お叱りじゃないのである。褒めである。褒めをようきゅうするのである。はふ、はふ、と息を切らしけふっと咳をしてしまうソキに、ウィッシュは眉を寄せて首を傾げた。

 そして、困りきった顔で室内を見回した。生徒指導室に集められた数は、四人。机があって椅子があるだけでいっぱいのちいさな部屋であるから、一人は壁際に腕を組んで立っている。

 その一人。黙り込んでいる男の名を、ウィッシュは困った表情のまま呼んだ。

「シル、寮長……寮長はどう思う?」

「どう、というのは?」

「えっとね。ソキがなにを言いたいのかとか、こわいこわい? のこと、とか」

 そんなもんロゼアに分からないんだから俺に分かる訳ないだろう、と真顔で呟き、寮長はアスルをぎゅうぎゅうに抱きしめ、決して離そうとしていないソキを見た。

 ロゼアは見ているこちらが切なくなってくるような悄然とした顔で、ソキの興奮を落ちつかせようとしている。それが、分からない筈もあるまいに。ソキは頬を赤く染めて、ちからいっぱい言い放った。

「もぅー! ソキはあれですぅー! ふんまんにゃるかたない、というやつですううう!」

「憤懣遣る方無い、だろ。ソキ、ロゼア困ってるよ。どうしたんだよー」

「こわいこわいだもん!」

 だからそれなに、と聞いても、こわいこわいだもん、と泣きぐずる声で答えられるばかりである。ロゼアが根気よく訪ねても、あらゆる方向から聞きなおしても、ソキはそれしか言わないのだという。

 ともあれ、ロゼアを困らせたい訳ではないらしい。ソキはうなだれるロゼアをうるんだ目で見つめ、膝の上にぽんとアスルを置いた。くるんと首筋に腕を回し、体をくっつけ擦りつける。

「ロゼアちゃぁん……。違うですよ、ソキ、ロゼアちゃんを困らせたいじゃないです」

「うん。分かってるよ、ソキ。分かってる……」

 一応、ソキは被害を被った三人に、ちゃんと謝ったのである。ウィッシュとエノーラには手紙で。ルルクには、びくびくしながらも、顔を見て。ルルクが嫌いなのではなく。こわいこわいだからアスルをえいってしたです。

 まだこわいこわいです。いけないです。こわいこわいが治らないです、たいへんなことです、という主張を、やはり誰も理解することはできなかったのだが。

「ウィッシュ。担当教員として。ソキがなにかを誤認している可能性と、ソキ以外がなにかを感じ取れていない可能性だと、どっちが高いんだ?」

「うーん……。俺の考えを言う前に、ロゼアに同じことを聞くね。ロゼアは、どっちだと思う?」

 ウィッシュは己の答えに辿り着いた表情をしながら、ロゼアの意見を伺った。『学園』に在籍する生徒である以上、判断は原則として担当教員に委ねられる。その者の持つ魔力に関して、最も親しく、近しく見つめて判断ができる相手だからだ。

 通常は担当教員しか、それができない。未熟な魔術師は、己以外の魔力にそこまで集中することができないからだ。けれど、ロゼアなら。相手が、ソキであるなら。それが不可能だとは、ウィッシュには思えない。

 異変に対しての判断を委ねることを。

「……俺は」

 むっすううう、と不機嫌で拗ねた顔で黙り込むソキに睨まれながら、言葉を選んで考えて。ロゼアはゆっくり、かみ締めるように言った。

「ソキは……ソキは、俺たちが分かってくれない、と言っています」

「うん。そうだね。それがソキの意見だよね。俺が聞いてるのロゼアの意見ね」

 ぷっぷくうう、とさらにソキの頬がふくらまされる。そんなに膨らんだらほっぺ伸びちゃうよ、とウィッシュが言えば、慌ててふしゅりと空気が抜けた。う、うぅ、ぐずっ、としょげて元気のない様子で、ソキが鼻をすする。

「こわいこわいだもん……」

「うん、うん。そうだな……。ウィッシュさま、俺は……ソキが違うとは、思えません」

 うん、と呟いて。ウィッシュはロゼアの言葉の続きを待った。それはロゼアの感情で、ウィッシュが聞きたかった判断ではない。しかし待てど暮らせど、ロゼアがもう口を開く気配はなく。諦めて、ウィッシュは俺はね、と眉を寄せた。

「ソキがなに言ってるのかは分からない。なんか思い込んじゃってるにしても、なにをっていうのが説明できてないっていうか……説明はしてくれてるんだけど、ロゼアも分からないんじゃなぁ……。ロゼア、ソキがなにを言いたいのか、うっすらでも翻訳できない?」

「……怖い、ことが、あるのは」

「それなんだよなぁ……? ソキがなにか怖いのは確かなんだよ。うん。寮長、あのね、だからね、ソキがなにか怖がってるのは本当。これは分かってね。で、それをソキはちゃんと訴えてるんだけど……訴えてるんだけど……うん?」

 ちょっと待ってね、とウィッシュは目を伏せた。ロゼアはソキの『傍付き』であるが、ウィッシュは『花婿』だ。全く同じ立場として育てられたから、こそ。ようやく引っかかって残った違和感に、柘榴の瞳が静かに揺らめく。

「……ソキ。あのね、間違ってたら言ってね」

 アスルを抱きしめて、体を丸めて頬をくっつけて。いいもん、がんばるもん、と拗ねきった声で鼻をすするソキに、ウィッシュは穏やかな声で問いかけた。

「ソキが『怖い』のと、『こわいこわい』って、もしかして別? 別のこと言ってる? 『こわいこわい』は、『怖い』けど、『こわいこわい』っていうのは、『怖い』ってたくさん訴えたいんじゃなくて、なんか別のこう……なんか?」

「ソキはちゃんと言ったです」

「うん。あのね、もっかい教えて。ソキは『こわいこわい』が、『怖い』から、なんかこう呪ったりアレしたりあれこれしてんの? 俺のいうのであってる?」

 こくん、とソキは頷いた。違うか、あってるか、ちゃんと言わないとだめだよ、とウィッシュは促す。だめっていったぁ、と打ちひしがれた声で、ソキはもう一度こくん、と頷いて。ようやく、そろそろと息を吸い込んだ。

「お兄ちゃんのいうので、あってるです。こわいこわいです」

「……その、こわいこわいの、説明はできる? それ、なに?」

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