暁闇に星ふたつ:46



 フィオーレの顔面にもふっと当たったアスルが、ぽてりと床に落ちて転がる。

 顔を両手で押さえてしゃがみこんでしまうフィオーレと、無言でアスルを見つめてしまうリトリアに、いにゃいにゃああぁっ、となにを言いたいのか判別できない、ソキの泣き声が訴えた。

「あすううう! うにゃぁああめええだめえええ! いにゃあああっ!」

「ソキ、ソキ。アスル投げちゃいけないだろ。……すみません、フィオーレさん。リトリアさんも」

「やぁああああすうあするうぅうう! あするかえしてかえしてくださいですうううあするううう!」

 どうもソキは、自分でアスルをぶん投げておいて、返して欲しくて暴れているらしい。談話室の注目をめいっぱい浴びながら、リトリアはアスルをひょいと持ち上げ、心底申し訳なさそうな顔をするロゼアへ差し出した。

 ソキはロゼアの膝上で顔を真っ赤にして興奮し、けふけふ、何度か咳き込んでから、ロゼアに向かって両手を差し出した。

「ロゼアちゃ、ロゼアちゃっ、あすぅ返してくださいですううかわいそかわいそするですううう」

「ソキ。アスル投げたのはソキだろ。ひとに向かって投げちゃいけないって、俺は言ったよ」

「ソキわるくないですううぅう! こわいこわいだもん! ソキいけないことないもんいやぁいやいやにゃああぁっ! あする、あするあするううっ!」

 ソキに奪われないように、片手でアスルを持って頭の上へ高くあげたロゼアが、深々と息を吐き出した。興奮しきった様子でソキはロゼアの肩をぺしぺしと手で叩き、訴え、いよいよアスルを返してもらえないと分かると、目をうるませていやいや、と身をよじった。

「ちがうんですぅ……。ソキとアスルはぁ、けんめいにロゼアちゃんを守ってるです……。こわいこわいが近くに来ないようにしてるです……。ロゼアちゃんは、どうしてソキにいじわるをするです……?」

「ソキ。いじわるじゃないだろ。……ソキ、ソキ。なにが怖いの? フィオーレさんが怖い? だから砂漠行くの嫌だったのか?」

「心当たりがないから……俺は無実ですって言っとくね……」

 まだ顔を手で押さえながら、フィオーレが涙声で頷く。訝しく振り返って、リトリアは首をかしげて問いかけた。

「フィオーレ、どうしたの? 首でもひねった?」

「……その、もふもふの……アスル? だっけ。それに、呪いかかってて……ほんと、ほんっと、ちょう痛かった……! かったっていうか、まだ痛い……むり……ほんとむり……」

 足の小指を全力で踏みにじられてそのまま骨を折られた時と、同じくらいの痛さであるという。説明を聞いて、フィオーレはなにをして足の小指をいったい誰に踏まれたのかしら、と思いながら、リトリアはロゼアの手にあるアスルを見つめた。

 つぶらな黒い目の、ふわふわ黄色いまるっこいぬいぐるみである。よくよく見れば、そのふわふわの周囲に、ソキの魔力がきらめいている。

 投げれば必ずあたるように。そして、声が出ないほどの痛みを与え、動けなくなるように。

「……え? え、すごい、ソキちゃんすごい! ほんとに呪ってある!」

「でっしょおおおおっ? ソキはけんめー! にがんばたですうううなのにロゼアちゃんたらロゼアちゃんったらソキをめってしたですうううひどいことですううう! やぁあんロゼアちゃんアスルかえしてあするあするうう!」

 怒っているので褒めないでください、と言わんばかりのロゼアからの視線に、リトリアはぴしっと背を正してごめんね、と言った。姿勢を正さざるを得ない視線だった。やや怯えるリトリアに苦笑して、ロゼアは溜息をつく。

 興奮状態から脱しないソキを抱き寄せ、背をそっと撫でるように幾度も叩いて、目を覗き込んで。ソキ、ソキ、と落ち着いた、柔らかな声で名を囁く。

「そんなに大きな声出したらだめだろ。……ソキ、ソキ、いいこだな。いいこだから、俺の聞いてることにお返事しような。ソキ? フィオーレさんが怖くて、だから砂漠に行くのも嫌だったの?」

「ちがうもん! こわいこわいだもん!」

「うん、うん。ソキ、なにが怖いの? 教えて、ソキ。なにが嫌? なにが怖いの? ソキ。……ソキ」

 こわいこわいはこわいこわいだもん、とソキは引きつり裏返った声で訴えて、口に両手をあてるとけふこふと咳をした。う、ううぅ、と泣きぐずるような声を出して、握った拳で目をごしごしと擦る。

 ろぜあちゃんがわかってくれないです、と落ちこみ切った声でソキは呟く。

「こわいこわいだもん……ソキはちゃんと言ってるです……」

「……こわいこわいなの? こわいこわいって、なに? ソキ」

「こわいこわいだもん」

 堂々巡りである。聞けば、昨夜からずっとこうなのだという。怖い、としきりにソキは訴えて、ロゼアにも必死に説明をしてくれるのだが。その説明こそが『こわいこわい』で。怖い、ということで。それが、なにか、を言うことはないのだった。

 リトリアはうぅん、と眉を寄せてソファの前にしゃがみこみ、しゃくりあげてこわいこわいだもん、と告げるばかりのソキに、飴を差し出し問いかけた。

「ソキちゃん。飴食べる? フィオーレが怖いの? こわいこわい、なの?」

「あめ……。あーん」

 慌てて飴の包みを取り、リトリアはソキの口に食ませてやった。ふすん、と拗ねた風に鼻を鳴らしながら、飴をからころ口の中で転がして。ほんのすこしだけ、気持ちを持ち上げた声で、フィオーレさんじゃないもん、とソキは言った。

「フィオーレさんのこわいこわいだもん。フィオーレさんは怖くないですよ。でもね、こわいこわいだからね、フィオーレさんはダメです。こわいこわいです。わかったぁ?」

 分からない。う、うん、そっか、と笑みを浮かべて頷き、リトリアはロゼアへ助けを求める目を向けた。ロゼアは考え込みながら、ソキの頬に手をあてたり、首筋や額に触れたりしている。

 投げちゃだめだぞ、とアスルを渡して抱かせながら、ロゼアはやや困った顔でソキを見た。

「フィオーレさん、が……怖いの? 怖くないの? どっち?」

「こわいこわいです。砂漠のお城はね、こわいこわいでいっぱいです。ソキには分かるです。やんやんです!」

 言って、ソキはまた、こふん、と咳をした。ロゼアはソキを抱き、さっと立ち上がる。ナリアンとメーシャの授業が終わるまでは、と思ったけどとひとりごち、ロゼアは申し訳なさそうにリトリアに微笑む。

「リトリアさん。午後までに、もしチェチェリア先生にお会いすることがあれば……今日の授業の欠席をお願いしたいと、ロゼアが言っていた、とそう伝えてくださいませんか。お昼までに、時間を見つけて欠席届は書くつもりですが、間に合わなければ待たせてしまいますから」

「う、うん。もちろん。必ず会う、とは、約束できないから……もし会ったら、になるけど」

 このあと、リトリアがまっすぐ楽音に帰れるかも定かではないのだ。一応、希望としては星降でレディの様子を確認したり、ストルとツフィアにも挨拶をしていくつもりであるのだし。

 すれ違っちゃうかも知れないから、私も先に手紙を出して届くようにしておくね、と告げれば、ロゼアはほっとした様子で笑い、お願いしますとリトリアに目礼した。

 まだ立ち上がれないフィオーレには、心から申し訳なさそうにすみませんと謝罪し、ロゼアは足早に談話室を去っていく。

 その背からぴょこりと顔を出して。ソキはちっとも反省していない様子で、フィオーレをきゅっと睨みつけた。

「きしゃああああですううう!」

「あ、こら、ソキ。威嚇したらいけないだろ」

「こわいこわいが追いかけてくるかも知れないです……! アスル、アスル? ソキといっしょに、けんめいにロゼアちゃんを守るですよ……! んっ……ん、んん……? けふっ。けふ、けふっ、こふっ」

 アスルも投げたらいけないだろ、と言い聞かせながら、ロゼアが音のない足運びで、瞬く間に部屋を横断し、階段をのぼっていく。ソキの体調が思わしくないのだろう。フィオーレの元にロゼアからの手紙が届いたのは昨夜であると聞く。

 昨夜から興奮して、ずっと叫んで騒いでいたのであれば、眠ったにせよ、ソキの体がもつ筈もない。ううん、と悩みながら、リトリアは真剣に心配になってきた顔で、まだ微妙に震えているフィオーレを見下ろした。

「あの……ねえ、大丈夫……? レグルスさんを呼んでこようか……?」

 学園の保険医は、特別な理由がないかぎり、今日も定められた部屋にいる筈である。白魔法使いは深呼吸をして顔をあげ、よろよろと立ちあがって溜息をついた。

「いいよ……。それより、リトリア……聞いていい……?」

「なに?」

「俺……俺、ソキに、嫌われたのかな……」

 かわいそうなくらいに声が震えている。リトリアは慌ててフィオーレに駆け寄り、ソキちゃんがなにを言っているのかよく分からなかったけど、と前置きをして、手を握った。

「フィオーレが、嫌いっていう、そういう訳ではなかったと思うの。落ち着いたら、ロゼアくんが解読……。解読……? え、えっと、えっと……ん……あ、翻訳? そ、そう、翻訳! ソキちゃんの言いたいことを、きっと、ロゼアくんが翻訳して教えてくれる筈だから。それまで待ちましょう? ね? 泣いちゃだめよ」

「うん……わかった……。あー……陛下になんて言おう……」

 ソキの説明をそのまま告げたとて、なに言ってんだお前、の一言で一蹴されるのが目に見えている。他にどう説明することもできないのだが。改めて頭を抱えるフィオーレに、僅かばかり眉を寄せて考えて。

 リトリアは、とりあえずチェチェにお手紙を書くから、終わったら一緒に星降へ行ってくれる、と白魔法使いに問いかけた。力なく、頷かれる。よし、と頷いて、リトリアは考えを巡らせた。

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