暁闇に星ふたつ:44


 どうしてそんなに毎日来るのかしら、という顔をしている。なにかしたかしら、と言わんばかりである。歯切れの悪い言葉の続きを遮らず、待ってやると、アイシェは得心が行った、という顔をして頷いた。

「昨日はしないで寝ちゃったものね。でもね、シア? 疲れてるなら、私はいいから眠らないと」

 気にしないでいいのよ、と微笑まれる。心底苛立ちながら、王はアイシェを手招いた。なに、と傍まで寄られるのを、抱きしめて溜息をつく。

「お前いい加減にしろよ……」

「……そんなにしたかったの?」

「いいかアイシェ。よく聞け。いいから聞けよ?」

 頬を両手で包んで、顔をあげさせる。訝しげに眉を寄せられているのでくじけかけるが、指先でやわやわと撫でていると、くすぐったげに微笑まれたので気を取り直す。菫色の目を、まっすぐに見て。告げた。

「好きだ」

「……光栄ですわ、陛下」

 とても嬉しい、とはにかまれる。照れくさそうにされるのも本当なのだが。中庭の手入れ許可の、屈託のない、本心からの笑みとは全く別のものだった。好かれていない、訳ではないのだが。絶対に通じていない。

 王がハレムの女に義務的に囁く、挨拶のひとつかなにかだと思っている。むっとして、王はアイシェの頬をむにむにと摘んだ。

「好きだって言ってんだろもっと喜べよ」

「ちょっとシア、シア! もう、こどもみたいなことしないの……!」

「お前俺より花の方が好きなんじゃないんだろうな……」

 可能性はわりとある。好き勝手頬をもてあそんだのち、男は深く溜息をついてアイシェを解放した。アイシェは赤くなった頬を、眉を寄せてさすっている。そんなに力は入れていない筈なのだが。

 女は手加減が難しいと息を吐き、男はまったく、とアイシェの腕を引っ張った。

「帰る」

「はい。またのお越しをお待ちしております、陛下」

 ところでこれはなにかしら、と腕を引く手が見つめられている。しばらく待っていると、えっ、と戸惑いきった目で見られたので、王は心から息を吐きながら、いや見送れよ、と言った。女たちは許可なく、ハレムから出ることはできない。

 だが、出入り口まで歩いていくことを制限したことはない。えっ、と戸惑って目を見開かれるのに、王は心底苛立ちながら言い放った。

「離れ難いから、ついて来て見送れって言ってんだよ!」

「い……いいの?」

 きゅ、とまた眉が寄る。睨むように力がこもった目が、なぜかやや潤んでいた。なにかを、我慢しているように、感じる。訝しく思いながら親指の腹で瞼を撫でて、男は、アイシェ、と寵妃の名を呼んだ。

「いいから。来い」

「……うん。……え、えっ。あ! はい!」

 緩んだ声で声を零したのち、驚いて背を正して言いなおすアイシェに、どっちでも好きに返事しろよただし無視はするなよいいかもう無視だけはするなよ分かったな、と言い聞かせて。王はアイシェを連れて、一晩を過ごした部屋から足を踏み出す。

 ハレムの朝は早く、目覚めた女たちの声がかましく、そこかしこから響いている。おはようございます、と囁かれるのに、頷いて歩く。

 あくびをしながら歩く王は、アイシェが一瞬立ち止まり、とある場所へ視線を向けたことに気がつかなかった。一瞬の泣きそうな顔を、すぐ消して微笑んだことにも。寵妃が見た先には、未だ主を迎えぬ部屋がある。

 王がアイシェに案内させた部屋。迎える予定の、主の名を。ソキ、という。部屋は案内されたきり、そのままで、いつ来るとも迎えるとも聞いてはいないのだが。閉鎖されず、置かれている。

 可能性は消えずに。予定がある、ということだった。




 堅牢な門が、ハレムの入り口を閉ざしている。見張りの兵に命じて開けさせ、ついてきたアイシェにまた夜に、と言って立ち去りかけて、王は出迎えの異変に気がついた。

 王宮と地続き、とするより、天井を高くした一室を門によって区切っている場所である。一歩を踏み出せば王宮であるから、そこからの同行に、魔術師が控えていることは多くあるのだが。

 王は額に手を押し当てて息を吐いたのち、瞼を持ち上げてもう一度、出迎えの魔術師を確認した。

 陛下おはよー、アイシェさまもおはよー、とのんびり笑って手を振ってくる白魔法使いはいい。朝が不機嫌なことが多い、王の送迎に割り当てられるのは八割九割がフィオーレである。

 なにをしても大丈夫な人身御供としてみなされている白魔法使いは、王の幼馴染でもあるので、気心が知れている分やりやすい。だからいい。フィオーレはいてもいいのだが。

 あっ、と声をあげ、控えの長椅子から立ち上がる少女が、ここにいる理由が分からなかった。

 開門したものの、一歩も動かないでいる王に、兵士たちからどうしたものかという視線が向けられる。古くはハレムの女たちの脱走防止用として、今は主に不届きな輩の進入防止用の門として機能している所である。

 開けっ放しにしておくのは、なにかと落ち着かないのだろう。王も、それは分かっているのだが。シア、と訝しく、背からアイシェに声をかけられて、ようやく。王は絞り出すような声を出した。

「リトリアお前なにしてんだ……」

「え? え、あ! 砂漠の陛下におかれましては、ご機嫌うるわしく。おはようございます。早朝からお目にかかれて光栄です」

 ぱぱっ、と手早く着衣の乱れをなおし、慣れきった、うつくしい仕草でリトリアは一礼する。ああうんえらいえらい、と雑かつ適当に頷いて、王はどんよりとした目でリトリアを見た。

「俺がなにしてんだって言ったのは、挨拶しろよっていう意味じゃねぇよ……。なんでここにいるんだっていう意味だよ。今度家出する時は、砂漠以外にしますってこないだ俺と約束したろ?」

「もう、シアちゃんたら! そんなじゃないったら! 違うの。あのね、お願いがあって参りました」

「いやな予感しかしないから聞かない」

 しっし、と羽虫をのける表情で手をひらつかせれば、もう、とリトリアが腰に手をあてて身を乗り出してくる。聞かないからな、と砂漠の王は息を吐き出した。だいたい、呼び方が陛下ではない所からすでに怪しい。

 数秒考えて、王は頬を染めてとことこ近くまで寄って来たリトリアに手を伸ばし、遠慮なく頬を押しつぶし、言い聞かせた。

「リ・ト・リ・ア。呼び方に気をつけろよって俺はこないだも言ったな……?」

「砂漠の陛下おはようございますって私はちゃんと言ったもの……! や、や、いじわる!」

「いじわるじゃねぇよ折檻だよ俺が言ってんのはその後だ、後! だいたい、お前ちゃんとスティに許可取って外出してきたんだろうなぁ許可証見せろ許可証! この悪戯おてんば娘っ!」

 はい楽音からの許可証、とばたばた暴れるリトリアの代わりにそれを差し出してきた白魔法使いを、王は迷いなくひっぱたいた。

 陛下ちょーふきげんくないなんでー、としょぼくれる白魔法使いを冷たい目で見下ろし、王はリトリアからも手を離してやる。だいたいなんでここまでつれてきたんだ、と問うより早く。

 もじもじ、もじもじしたリトリアが、あの、と王の背後へ声をかけた。

「も、もしかして……アイシェさまですか……? わぁ、美人さん……! 陛下ったら全然会わせてくださらないんだもの……。ええと、お初にお目にかかります。楽音の王宮魔術師、リトリアと申します。朝早くからごめんなさい」

「……リトリアさま? わたくしは、アイシェと申します」

 微笑みかけられたリトリアは、嬉しそうに目を輝かせて一礼した。意気込んでなにか話しかけようとするその首根っこをひっつかみ、王はだめだ、と言い放った。

「さ、行くぞリトリア。みっちり説教からはじめて、終わったら用件を聞いてやらんでもない。……悪かったな、閉門していいぞ」

「え、え! せっかくだからアイシェさまとお話したい……!」

「アイシェ」

 お願い、ねえお願い、とリトリアが頼み込んでくるのを完璧に無視して、砂漠の王は数歩門から離れ、振り返ってアイシェを呼んだ。一礼して見送っていた女が、顔をあげる。視線が重なったのを確認して、王はふ、と思わず笑った。

「また夜に」

 返事を聞かないで歩き出す。笑いながら、白魔法使いは王の後を追った。リトリアはぐいぐい服を引っ張られて歩きながらも、頬を赤らめて王と、女を見比べて。とびきりの幸福に触れたように、ふふ、と笑みを零した。

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