暁闇に星ふたつ:43


 夜明けを見る。地平線に光が走っていく。一瞬の黄金。暗闇を切り裂いていく暁。黒、紺、紫。紅、赤、黄。青、白。色彩は光に目覚めて零れだす。砂漠の夜明け。光に満ちていく。ひかりに。

「……あ、シア……? もう……」

 笑い声。穏やかな、ぬくもり。声、響き。振動。意識がゆっくりとまどろんでいる。夢を見る。覚める寸前の、夢を見ている。心地よく。うつくしい夢。夜明けの夢。

 腕の中から体温が逃げていく。とん、と軽い音。窓辺の布がひといきに取り払われる。

「シア、シア! ほら、朝……朝よ、朝! お仕事でしょう? 起きて、シア。もう……!」

 困って、笑って。戻ってきた女の、光を遮るあまやかな影が瞼に落ちる。唇が眉間に触れる。目尻に、頬に触れて、穏やかに笑う。穏やかに。幸福に触れているように。

「起きてったら、シア。……もう、陛下!」

「……あ?」

「あ、じゃないの。もう。こどもみたい」

 くすくすと笑われて、ようやく砂漠の王は瞼を持ち上げた。日差しを遮る布が取り払われている為に、眩い光が目にすぐ飛び込んでくる。眩しい、と転がって枕を顔に抱き寄せれば、こら、と困りきった声がゆるゆると振ってくる。

「体調でも悪い? お医者さまを呼びましょうか」

「ねむい」

「もう……! ……そんなに忙しくされてるの?」

 枕を奪おうとする力の代わり、本当に心配そうな声で問いかけられて。仕方なく、砂漠の王は枕から顔をあげた。ゆっくりと一度、深呼吸をする。女は寝台に座り込み、じっと王の言葉を待っていた。

 菫色の瞳は真剣で、それでいてなにかを恐れるように、そろそろと王の顔色を伺っていた。機嫌ではなく。これは本当に体調を伺っているのだ。はぁ、と息を吐き、王は女の名を呼んだ。

「アイシェ」

「はい」

「別にそういうんじゃない。心配するな。……ねむ……」

 眠気を感じる、という経験があまりに乏しかったせいで、急にやってくるようになったそれに対応しきれていないだけである。いっぱい寝てすくすく成長するってことだから心配しないでいいよ眠ろうね、と微笑ましく告げた白魔法使いのお墨付きだ。

 ねむい、としきりに繰り返して目を擦る砂漠の王を、アイシェはしばらく無言で見つめて。目を擦り不機嫌そうにする王の腕に、そっと指先を添えて引いた。

「そんなに目を擦ったらいけないわ。……シア? 痛くするわ。痒いの?」

「ねむい」

 やっぱり病気なんじゃないかしらと疑いの目で見つめられて、王はむっとしながらアイシェの頬に手を伸ばした。滑々の頬を指先で摘み、額をごつ、とくっつけて顔を覗きこむ。

「お前の傍だと眠くなるんだよ」

「そうなの? え……どうしてなのかしら……」

 恥らうことも喜ぶこともせず、真剣に、それはそれは真剣に悩まれてしまったので、男は心から息を吐き出した。アイシェは、王のハレムの女である。集められた者の事情は様々あれど、前時代的な風習はすでに潰えている。

 望まず苦痛のままに王に抱かれる者はなく、そうであるから、アイシェもある程度は望んでこの場所にいる筈なのだが。なびかないのである。ちっともさっぱり、これっぽっちも、アイシェは王になびかないのである。

 甘い言葉を囁けば、眉を寄せて睨みつけてくるのが、アイシェの対応の常だった。言葉を送られるのが好まないのかと品々を送れば、こんなにたくさん貰っても使わないと困ったように溜息をつかれる。

 王が訪れても昼間はハレムの中庭で草木の手入れをしていることが多く、そんな作業は庭師に頼めと怒れば数日間口をきかれなかったこともあった。

 どうも庭仕事はアイシェの趣味であるらしいと気がついたのは、ハレムの女たちからの猛烈な抗議と口添えの末のことである。

 良い機会とばかり、アイシェを蹴落とし王の寵愛を得ようとする女はひとりもいなかった。あるいは、ひとりふたりは居たのかも知れないが、それは王の元に辿り着く前に丁寧に隠蔽されたのか、その気配を感じることはなかった。

 あったのは女たちの抗議の睨みと、ハレムの総括をさせているハーディラからの呼び出し状である。ハーディラは先王の寵妃が、男の為に教育し残した、ハレムの支柱だ。

 砂漠史上、その支柱を後に寵妃としたり、正式な王妃とした者もあったらしいが、男は一度としてそれを考えたことはなかった。ハーディラは王の、女に対しての教育係だった。

 同時に、姉のようなものである。いつまでも頭があがらない存在、というか、正直にいうと怖い。

 なるべく刺激しないでそっとしておきたいのだが、アイシェを泣かせて口をきいてもらえなくなったある日、総括たるそのハーディラから、王の下へ手紙が届いた。

 陛下いますぐお会いしたくて胸が張り裂けそうですのわたくしに会いにいらして、と甘い誘いを装った呼び出しは、果たし状である。お説教のお知らせである。折檻の宣言、ともいう。それ以外の意味があったことは一度としてない。

 記憶をいくら探っても、本当に一度もないのである。だから本当は無視してしまいたかったのだが、白魔法使い他魔術師たちは、神に供物を捧げるがごとき厳かな微笑みで、王をハレムへ蹴りだした。

 喧嘩してからうちの陛下ったら夜眠れなくなっちゃったのでなんとか取り成してあげてください陛下ちゃんと謝ってくるんだよごめんなさいができたら戻ってきていいからね、という言葉はお前ら主君をなんだと思ってるんだと王を怒らせるに十分だったのだが。

 魔術師からの嘆願書を手にしたハーディラが、小言を長々続けるのではなく、珍しくも呆れて息を吐いて額に手を押し当てたので、怒りが持続することはなかった。

 分かりましたわたくしがこの一度だけとりなしますので陛下は素直に怒らずなぜ庭師に任せよと仰ったのかお話なさい会いたかったのに顔が見られなくて面白くなかったとかそういうことをです、と告げられて、王は若干引きながらその言葉に頷いた。

 ハーディラがそんなに積極的に動いてくれるのも、珍しいことだったからである。なにかあったのかと問えば、ハーディラは目を怒らせて王に手を伸ばした。冷え切った手に、ぬくもりを忘れた頬に。目の隈に。

 あの子にわたくしも賭けたのです。まったく、と息を吐いて笑って、ハーディラは宣言通りにアイシェとの間を取り成し、王に話をさせた。アイシェが屈託のない笑顔を王に向けたのは、その時がはじめてで、そして今の所、最後である。

 庭仕事は好きにすればいい、と言った時のことだった。ただ、会いに来たら顔を見たいし、草花ばかりに構っているのも面白くないし、と続けた言葉を、果たしてアイシェが本当に聞いていたのかは定かではない。

 それくらいに、女は喜んだ。たったそれだけのことで。宝飾品より、豪勢な甘味や珍しい品々より。悪かった、という言葉と。植物の手入れの許可に。それから王が女に送るものと言えば、季節の花の種や苗木や、園芸に必要なものばかりである。

 珍しくねだられて、肥料を運ばせたこともある。王の訪れより肥料の搬入に喜ばれたのは、かつてない出来事だった。

 アイシェは実に精力的にハレムの庭を整えた。おかげでここ数ヶ月、ハレムに訪れるたび、男は季節の巡りと植物の瑞々しい空気に触れる。懐かしい、と思うことをアイシェに伝えたことはない。

 それは失われたハレムの空気だった。先王が失われる数年前まで、ハレムはまるで楽園のよう、植物と花に満ちていた。気が触れ、我が子に手をかけてまで妃の情を得ようとするその時まで。瓦解してしまう時まで。

 首を締め上げた父の、指の感触を今も覚えている。その頃にはもう庭は枯れていた。アイシェが手をかけ蘇らせたのはその場所だった。朽ち果て、枯れるばかりのその庭を、そのままにしておけと命じたことはなかったのだが。

 知る者たちは手を出せず、放置してしまった一角だった。荒れ果てた場所の、隅々にまで手が行き届く。夜の暗闇を見つめながら朝を待つ気持ちは、陽だまりの中で眠りにつく。

 布を寄せた時に、窓もすこし開けたのだろう。入り込んでくる朝の空気からは、どこか瑞々しい香りがした。新しい花が咲いたのよ、とアイシェは笑う。そうか、と頷いて王は立ち上がった。

「摘めるのか、その花」

「え? ええ」

「分かった。飾っとけ。今日の昼は予定があるから……夜に見に来る」

 だから夜には部屋で待っていろよ、ということなのだが。言われたアイシェは、妙な顔をした。緊張しているような。眉にも唇にも力が入っていて、無言で見つめられると、睨まれている気持ちになる。

 アイシェは王がなにか言うたび、よくこういう顔をする。だいたいは無言である。なにが気に入らないのか、告げられたことはない。

 慣れた仕草でひとりばさばさと着替えながら、王はなんだよ、と寵愛を一身に受けていると誰にも囁かれる女を、ややうんざりした気持ちで見返す。

「なにか予定でもあったのか、今日の夜」

「ないわよ。ない……ないけど……」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る