暁闇に星ふたつ:36




 ねえ、だって嫌いだと言ったでしょう。そのことを思い返し口に出そうとした瞬間、眩暈を感じてリトリアは唇に力をこめた。耳元で鈴が揺らされたかのように。頭の奥まで響く、音なき旋律が意識そのものを、魔力を揺らす。

 目を開けていられずに瞼に力をこめて呻けば、ストルとツフィアの視線と、レディが慌てて屈みこんでくれたのが分かった。

「リトリアちゃん?」

 なにを、どう問えばいいのか分からず。ただ名前を呼んだ。そういう響きで言葉を求められて、リトリアは意識が明滅するのを感じながら、やや強引に瞼を持ち上げた。

 聞いたらいけないよ、確かめたらいけないよ、と誰かの声が囁いている。記憶の中、耳元で。目を隠し耳を塞いで、己の意思だけを染み込ませようとしている。

「……嫌い、って。言ったの。ストルさんと、ツフィアが、私にそう言ったの」

「リトリア、それは」

「ストル黙って。聞きましょう。……リトリア、話せる? ゆっくりでいいわ」

 落ち着いて、大丈夫よ、とツフィアは穏やかな声で囁いた。反射的に否定しかけたストルは、ツフィアとリトリアを訝しく見比べながらも、頷いて椅子に座りなおす。レディは無言でリトリアの前に移動し、しゃがみこんで両手を握ってくれた。

 とん、とん、と指先で手の甲を叩かれる。そこから流し込まれる火の魔法使いの魔力が、リトリアのそれを強制的に押しつぶし、無理にひととき、落ち着かせた。水面から顔を出すように。すこしだけ楽に、息を吸い込む。

「わたしにはその記憶があるのに……絶対、なのに。ストルさんは言ってないって、いうの」

「……俺が、君に。そんな言葉をかけたことはないよ」

「ツフィアは? ……ツフィア、言ったでしょう? わたしに、うんざりする、って! 顔も見たくないって!」

 会いたくないって。世話をするのにうんざりしたって。指名するなって。ふたりが。ふたりとも。殺し手にも、守り手にも。選ぶなって。黙っていろって。嫌いだって。私のこと。

 私がもう嫌だって。会いたくないって。いい子にしていて、言うことをきけって。だから、だから私はその通りにしたのに。ずっとずっとその通りにしてたのに。気持ちを言葉の欠片にして。

 押し出して告げて話していく。息継ぎもおぼつかないくらいに。

 震える指先の爪が食い込んでも、レディはなにも言わず、強く手を握っていてくれた。

「大人になった、から、いけなかったんでしょう……? こどものままで、いれば、いい子でいれば……前みたいにふたりは。だから」

「……リトリアちゃん。成長を……身長と体重、自分で止めてたの、それで? バレないように認識阻害かけてたのも?」

 白雪に預かられる前に、白魔法使いにしこたま怒られた一件である。予知魔術師の殺し手として、レディにも情報が渡されていたのだろう。ただ頷けば、ストルからは呻くような、ツフィアからは半ば納得したような吐息が零れていく。

 レディは微笑して、でももう止めにしたんだよね、と言った。リトリアは、それにもまた、頷く。

「リトリア」

 ツフィアに名を呼ばれて。リトリアは怒られることを覚悟したこどもの表情で、顔をあげた。ごめんなさい、と言葉にされずとも物語る表情に、仕方がないのだから、とばかり苦笑される。

「私も、あなたにそんなことを言った覚えはないわ。言っていない。絶対に。……大好きよ、リトリア。馬鹿なことをして」

「でも、覚えがあるの。……ツフィアと、ストルさんが、嘘をついてるって思ってる訳じゃないの。覚えがあるの。覚えてるの。じゃあ……じゃあ、やっぱり」

 嘘をついているのは。

「私がおかしいの……?」

 泣きそうに魔力が揺れる。無尽に注がれ続けるレディの魔力を持ってしても、水面が揺れて零れ落ちかける。強く握った手を離すまいとするレディに、ツフィアの声が触れるように響く。

「リトリア。分かったらでいいわ。教えて頂戴」

 あなたに、わたしが。それを言った、というのはいつのことなのか。予知魔術師に対する、言葉魔術師からの。半ば抗えぬやさしい求めに、魔力が荒れるよりはやく本能が反応する。息を吸い込んで。リトリアはそれをようやく、告げた。

「二人が卒業する時……卒業する、前……? 私が十二の、三月の末の……」

「……リトリア」

 訝しく。言葉を差し入れたのはストルだった。ツフィアは吐き気を堪える顔つきで口に手を押し当て、沈黙している。視線だけは涙をこぼすリトリアから離さずに。ストルの言葉を遮ることもなく。

 静まり返った部屋に。ストルの、はきとした言葉が響いた。

「俺が卒業したのは、十二月の頭だ。三月には、もう『学園』にいなかったろう……?」

「私もよ。十二月の冬至の日から、あなたとも……ストルとも、会っていないわ」

 幼い頃から『学園』に迎えられていたリトリアは、卒業の為にあとは年齢を重ねればいいだけだった。どこへ迎えられるかは決まっておらず。

 殺し手と守り手をその年の夏至の前に聞いて、それぞれを確定し落ち着かせてから決めよう、というのが五王の意思だったからだ。うそ、と反射的にこぼしたリトリアに、ツフィアは炎のような目で。

「あなたにそれを言ったのは……そう思い込ませたのは」

 半ば、確信しながら。ツフィアはそれを問いただした。

「誰?」

「……手紙」

 ぽつ、とリトリアは言葉を零した。涙でてのひらが濡れる。椅子に座ったまま体を丸めて、リトリアはレディの魔力の助けを借りながら、取り戻したそれを告げていく。

「くれた、手紙……ストルさんと、ツフィアの。燃やされちゃった……」

「誰に?」

 ぽつ、と雨垂れのように告げられた男の名は、今は亡き黒魔術師の青年のものだった。在学中の事故で、命を落としたのだとされていた。ツフィアが何事かを告げるよりはやく、リトリアは、でも、と重ねて告げる。

「シークさんだったの……。手紙を燃やしたのも、二人が会いに来ているよって私に言って、それで……」

 幻術。精神操作。言葉による記憶、認識の上書きすら時として可能とする魔術。それを操る者こそ、言葉魔術師と呼ばれる適性の持ち主。

「シークさんが。ほら、あれが君のストルとツフィアだよ、って」

 指差され告げられた瞬間から、それはストルとツフィアになった。そうとしか見えず、その声はいとしく耳に届けられた。体をかたくして感情と魔力を堪えているリトリアを見つめ、低く、ストルが呟く。

「……分かるか、ツフィア。リトリアがなにをされたのか」

「幻覚の重ね掛け。精神に負荷をかけることによる暗示と、精神操作。認識の上書き。恐らく、綻びが出るたびに暗示かなにか繰り返されていた筈よ……。私が? リトリアに? なんですって?」

 とん、と靴が軽やかに床を踏む。椅子から立ち上がって、ツフィアは無造作に定められた距離を詰め寄った。後で罰なら存分に受けると言い放ち、ツフィアはレディの傍らに立ち、顔をあげたリトリアの頬を両手で包み込んだ。

 視線を重ねて、微笑む。

「聞きなさい、リトリア」

「……うん。うん、なに?」

 喜びを歌う。祝福を歌う。触れられて嬉しい、近くにいてくれて、また言葉を交わすことができて。それだけで、ほんとうに嬉しい、と笑う藤色の花に。ツフィアはゆっくり、力強く言い放った。

「愛してるわ。ずっとよ。……あなたを、嫌になったことなんて、一度もない」

「う……え、えっ。えっ」

 ぶわっ、と涙を浮かべて真っ赤になり、狼狽するリトリアの手を取って、ツフィアは囁く。

「あなたの傍にいたかった」

「つ、つふぃあ、えっ、あの、あ」

「あなたを守りたい。ずっとそう思っていたわ」

 繋がれた手を、殆ど振り払うようにして解いて。リトリアは両手を、ツフィアの口元に押し当てた。涙目でぷるぷる震える、その顔は耳元まで赤い。

 不愉快げに眉を寄せ、未だ言い終わってなどいないと伝えてくるツフィアに、リトリアは反射的に頷いた。何度も。頷くしかなかった。

「わ、か……わかりました……!」

「そう。分かったの。……なにを?」

「な、に……え、え……え?」

 混乱しきった顔で首を傾げるリトリアに、ツフィアは仕方がない、とばかり息を吐き出した。

「なにが分かったのか言って御覧なさい」

「ねえツフィア。ここに私がいるって覚えてる? あとそろそろ許してあげないともう泣くと思うわ」

「レディ。リトリアは、分かっていなくても分かりました、を言う癖があるのよ。確認しないといけないでしょう」

 教師然としたツフィアの言葉は正しい。正しいのだが。レディは臓腑の底から息を吐き出し、よろけながら立ち上がった。魔力暴走の予兆はもうない。喜ばしいことなのだが。

 全く喜ぶ気持ちになれず、レディは可哀想なくらいぷるぷる震えるリトリアを、同情的な目で見つめた。

「リトリアちゃん。頑張って。頑張るのよ……?」

「う、うぅ、うううぅ……あの……あの、あの、あの……ツフィア……私のこと好き……?」

 もじもじもじもじ手を擦り合わせながら、そーっとそーっと問いかけたリトリアに、ツフィアは大輪の薔薇のように笑った。

「聞くということは、分かっていないのね?」

「えっ、あ! ち、ちがうの、そうじゃないの!」

「そうじゃないの?」

 穏やかに微笑みながら、ツフィアはリトリアの前に膝を折って座り込んだ。あれじゃ立ち上がれないねリトリアちゃん、逃がす気がないってことだよね私には分かる、と死んだ目をして、レディがそろそろと二人から距離を取る。

 なにせ室内にはストルもいるのだ。つまりまだストルの順番が残っているということである。それなのにレディはお目付けの役があるから室内からは逃亡できない。どれだけ距離を開けても、目の届く範囲にはいなければいけないのである。

 しにたい。せめて意識を失いたい。うん、そうなのね、と言葉を促すツフィアと、捕まったことに気がつかないでオロオロするリトリアを、完全に義務感のみで視界にいれる。

 リトリアは、きゅぅ、と目を閉じて、勢いをつけて口を開いた。

「そうじゃなくて、あの、あのねツフィア。あのっ、私もしかしてツフィアに、あ、あのっ、ストルさんにもなんだけど、魔術、予知魔術で魅了かけてしまってるのかなって思っててそれででも分からなくてあの確かめたくてあの」

「あぁー……今それ言っちゃうんだー……あぁー……」

 頭を抱えて座り込んだレディは、ふ、と微笑したストルが立ち上がったのも確認していた。あとで処罰は受けるさそれでいいんだろう、と言葉を向けられて、レディは力なく頷いた。

 もうそれでいいんじゃないの好きにしなさいよ、としか言いようがない。リトリア、と甘い声でストルが少女を呼んだ。深呼吸を、して。レディは満面の笑みで、全力で、己の耳を手で塞いだ。


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