暁闇に星ふたつ:26
数ヶ月ぶりに戻ることができた部屋は、すこしばかり冷たい空気を漂わせながらも、新鮮な空気に満ちていた。帰ってくることを聞いて、昨日部屋を掃除してくれたのだという。
行方不明の間も、週に一度は手を入れて状態を整えてくれていたと聞いて、リトリアは後でお掃除の人たちにもお礼を言いに行かなくちゃ、と呟いた。
ちょっとした整理整頓くらいなら、時間を見つけて同僚たちがやってくれただろうが、隅々までぴかぴかに磨かれ、かつ置いておいたものの位置がまるで変わっていない状態は、本職の手で成されたことを教えてくれる。
それでいて、薬剤の匂いはしなかった。リトリアの好む、柔らかな香草の匂いがそっと空気を染めるばかりだ。
おかえりなさい、と言ってくれている。部屋も。そこを整えた者たちにも。待っていてくれたことを知る。それに気がつけるようになったことを、知る。
心配もかけてしまってたよね、と扉に手をかけたまま、リトリアはしばらく室内を見つめ、じんとした声で囁いた。嬉しくて。胸がいっぱいになる。ここにも、ちゃんと、愛してくれるひとはいたのだと。
聞きとめたチェチェリアが目頭に手を押し当てる。成長を喜ぶ仕草だった。照れくささと申し訳なさが半々になり、リトリアはちらっとチェチェリアを見上げた。
「チェチェも……。迷惑、たくさんかけたと思うけど。心配も、してくれていた?」
「した。……私も、キムルも。皆も、ずっと大事に思っていたよ、リトリア。これからはもうすこし、思いつめる前に頼ってくれるな?」
「うん。……うん、はぁい。ありがとう、チェチェ。……いままで、ずっと、ごめんなさい」
ごめんなさい、の前に。ありがとう、と告げられるのはいつぶりのことだろう。
『学園』にいた頃。ストルとツフィアがまだ付きっ切りでリトリアの傍にいて、想いを疑いもしていなかったほんの一時だけ。リトリアはこんな風に、素直に笑ってそう言っていた。
ありがとう、ありがとう、大好き、嬉しい。いつからかその言葉は失われ。ごめんなさい、とそればかりで。感情を失った冷えた響きだけがつき返されていた。リトリアは穏やかに笑ってチェチェリアにハンカチを差し出した。
「そんなに泣いたら、目が腫れちゃう……。私は、大丈夫。もう大丈夫よ、チェチェ」
ね、と囁かれ、チェチェリアは頷いて息を吐き出した。
「旅の間に……会った御仁に、感謝しなくてはいけないな。どのような方だったんだ?」
「えっと。ソキちゃんのお父さん……? たぶん、お父さんなの。前の『お屋敷』の御当主さま……? でも、いまどこにいらっしゃるかは、分からないの……」
「そうか……。菓子折りはロゼアに預ければ届くだろうか……」
たぶん、と首を傾げたリトリアに、また後でゆっくり話を聞かせてくれ、と囁いて。チェチェリアは少女へ、室内に入るよう促した。
大切なものに触れる、よろこびに満ちたわずかばかりのためらいを挟んで。リトリアは、とん、と室内へ足を踏み入れる。慌しく荷物をまとめて出て行った痕跡が、そのまま残されていた。
けれど雪崩を起していたであろう服は畳んで一箇所にまとめられ、持ち上げればどれもおひさまのにおいがした。小物は壊れないように、柔らかなタオルの上に一まとめに。
机の上に広げっぱなしにしていた本は、紅茶缶が横に置かれ、押し花のしおりが挟まれている。瓶に入れていた焼き菓子は、よく似た真新しいものに入れ替えられていた。
深呼吸と瞬きで、涙を振り払う。大事にしたくて。大切にしたくて。忘れないように。涙で流れてしまわないように。息を止める。すこし前まで、幸せなものを全部置き去りにして。愛してくれない、と自分で目隠しをしていた。
その間も。諦めずに、呆れずに、大切にしてくれるひとたちがいた。そのことを、ようやく。
「……リトリア。届いた荷物は開封してしまったが、揃っているか確認してもらっていいか?」
「うん……」
泣きそうなことに気がついていても、触れずに。慰めるのではなく、声をかけて次を促してくれたチェチェリアに、感謝しながら息を吸い込む。えっと、なにを入れて送ったんだっけ、と考えて、室内に視線をさ迷わせ。
リトリアは、ぱっと寝台へ駆け寄った。
「うさぎちゃん……!」
ぴんく色の、もちっとした抱き心地のリトリアのうさぎが、枕の横に置かれていた。もちもちぎゅむぎゅむ抱きしめて頬をくっつけて、しばらく堪能して。気がついて。
リトリアはぎこちなく、チェチェリアを振り返った。優しく微笑んで見守られていた。
「ちぇ、チェチェ……あの、これは、ちが……あの……」
「よかったな、リトリア。白雪につれていけなくて寂しかったろう。名前はつけたのか?」
「理解を示さないでぇっ……!」
ちがうのこれは違うの、そんなんじゃないの、と言ってうさぎを寝台に下ろし、あいらしい目と見つめ合って。もうちょっとだけ、と抱き上げた所でチェチェリアに笑われる。
うううぅちがうの、と顔を赤くして涙ぐんで、抱き上げたうさぎに頬をくっつけてうりうりして、リトリアは息を吐いた。
「違うの……違うのよ、チェチェ! ソキちゃんのアスルみたいなんじゃないの。このこがいなくても、私はちゃんと眠れたもの……!」
「ええ、ウィッシュの枕借りてただけよね」
「言いつけちゃだめ……! エノーラさん、帰ったんじゃなかったの?」
戸口からひょい、と顔を覗かせて告げ口するエノーラに、リトリアは唇を尖らせて抗議した。
チェチェリアが微笑んでリトリアを背にかばうのに、やぁね私だって分別くらいはあるわよ誰彼構わず女子にちょっかい出すわけじゃないのよ、死ぬでしょうが、と最後に付け加えた一言だけ真顔で言って、エノーラはむくれる少女にひらひらと手を振った。
「魔術具の最終確認をしてたのよ。白雪ではちゃんと発動してたけど、楽音では不具合が起こることもあるし。ま、杞憂だったからもう帰りますけど……あんまりオイタしないで、白雪でしてたみたいにいいこにしてれば、すぐ処分も終わるわ」
常時の行動制限と、行動範囲の記録。会話の自動記録などが、いまも成されているのだという。それは王から下されていた報告の中にも含まれていたので、特別驚きはしないのだが。
チェチェリアは、ささっとばかりうさぎを枕の隣に戻してなかったことにしようとしているリトリアの全身を眺め、訝しく問いかけた。
「……魔術具をつけているようには見えないが?」
「二の腕とふとももに! つけさせてもらいました! ちゃんと調節できるようにしてあるから、いっぱいご飯食べようね」
今回の製作観点はすばり、脱がされなければ分からない、です、と言い切られて、チェチェリアは額に手を押し当てた。いつリトリアの制限が解除になるか判明していない以上、確実に意識されたのはストルとツフィアである。
ことリトリアに関して異常なほど聡いふたりをどこまで誤魔化せるかは分からないが。あのね、すごいの。全然つけている感じがしなくて綺麗で可愛いの、と教えてくるリトリアに、チェチェリアはいいか、としっかりとした声で言い聞かせた。
「綺麗で可愛くても、ひとに見せたりはしないこと。下着と同じだと思いなさ……リトリア……!」
「や、やめて気がつかないで感激しないで泣かないで……!」
すとーん、つるん、ぺたーんっ、だったリトリアの体型にも、穏やかな曲線が現れている。もう、と恥ずかしがってチェチェリアから離れ、リトリアは荷物の整理をしてしまうことにした。
うさぎ以外は、なぜか送った箱に収められたままだったからである。えっと、これが髪飾りで、これが服で、これが下着でこっちが靴で、とひとつひとつ確認しながら。
それだけで高価であることが分かる、うつくしい細工や、絵の描かれた箱を次々と取り出していく。日持ちのする焼き菓子や甘味もあった筈だが、それは処分されたのか、なくなっていた。
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