暁闇に星ふたつ:25
リトリアが楽音に戻ってきたのは、九月の終わり。『学園』で夜会が催される、前日のことだった。同僚たちと共に『扉』の前でリトリアを出迎えたチェチェリアは瞬きをし、思わず、うわずった声で問いかけた。
「リトリア……?」
元からほっそりとした印象のリトリアは、昨年、血を吐いて『学園』に運ばれてからやせぎすの印象が拭えなかった。今にもぽきりと折れてしまいそうな危うさがあった。身体的にも、そして、精神面も。
その不安が、全く消えてしまっていた。身長も伸びたのだろう。記憶と目を合わせる角度が違う。まだすこし細い印象が拭えないが、手にも足にも、全体的な輪郭がふわりとした、少女めいたものに変わっている。
育っていく若木の、過渡期を見ているような気配。チェチェリアの戸惑いを優しく受け止めるように、藤色の瞳が笑う。
「チェチェ。あの、ひさしぶり……。このたびは、ご迷惑をおかけしました」
指先、背のしなやかさ、頭の動きにまで作法が行き届いたお辞儀だった。元よりリトリアの所作は丁寧でうつくしい。育ちと品の良さを感じさせるものだった。それが、数ヶ月の間に磨き上げられている。胸に熱いものがこみ上げて、チェチェリアは目元に手をあてた。
「白雪で……いいひとに会ったんだな、リトリア……」
嫁入りを報告された、父親のような反応である。見れば楽音の魔術師は誰も彼もが感動的な面持ちで目頭に手を押し当てたり、すこし視線を反らしてうつむき、肩を震わせていたりした。恐らくほぼ全員泣いている。
リトリアは同僚たちの反応を戸惑うように見比べ、本当にもうそれ以外どう動くこともできなかったように、ぱちぱちせわしなく瞬きをした。
「えっ……え、えぇ……?」
「安心しろ。ストルとツフィアは食い止めてやる。お前が幸せになれるなら……!」
「うんまあそう思うよねっていうか? チェチェはリトリアちゃんのなんなのお父さんなのなんでお母さんじゃないの? ていうか? なんていうか楽音組は報告書読んで? 報告書ってなんで報告書って呼ばれているのかの意味をいまから考え直していこう?」
白雪はたぶらかされて調子に乗ってウィッシュと一緒にぴかぴか磨いただけで、原型を整えたのは旅の間の誰かです、とついてきたエノーラに説明されて、リトリアは再びえっと声をあげ、頬を薄桃色に染めて視線を伏せた。
もじもじ、指先が擦りあわされる。真珠色に磨き上げられた、華やかな指先。
「ち、がうの……。あのひとは、その、そんなんじゃ……」
「うんリトリアちゃんはなんていうかね? 事案を誘発するだけだからもう黙ろうね? 何回も聞いたけど何回でも理解できないし何回でも疑わしさが加速するだけだからね? それでなんで楽音組は報告書読んでくれないの……!」
リトリアちゃん家出珍道中で事案がありましたって纏めて提出したでしょう、と叱りつけられたチェチェリアは、いいかエノーラ、と真面目な顔をして言い放った。
「楽音の陛下が面白がった場合に、その報告が正常に私たちに降りてくる筈がないだろう?」
「……ちなみになんて聞いてたの?」
「リトリアが無事に保護されたこと、白雪で身柄預かりになること、預かり中の基礎制約条件。あとは……怪我もなく、元気でいることを」
エノーラからしてみれば、その情報は必要最低限以下である。そこに、リトリアの事案関連が含まれていてはじめて、余剰でなくとも十分な、と思えるのに。
あの方は本当に、と呟くエノーラの隣で、もう、とリトリアは静かに言った。陛下ったら、いつもいつも、本当に。
「ご挨拶と謝罪が終わったら、すこし叱らなきゃ……! いつもそうなんだから、もう」
まかせて、チェチェリア、と。リトリアは照れることも臆することもなく、ぎょっとする同僚たちに、まっすぐな目を向けた。
「すぐには難しいかも知れないけど……私、陛下に、びしばし頑張るから……!」
恐らく、それが出来るのは楽音の魔術師の中でリトリアひとりきりである。恐怖政治に組み込まれてもいなければ、服従と諦めに口をつぐんでいる訳でもなく。
そしてなにより、記憶を封じられていたかつてでさえ、なんとなく時々言うことを聞いてもらえていた、身内として。王の臣下として、魔術師として。召抱えられたのであれば。
それこそが本来、五王が期待したリトリアの役目であり、使命である筈だった。びしばし、という言葉に眩暈すら覚えた顔つきで、チェチェリアはキムルの肩に寄りかかった。顔を伏せて囁く。
「リトリア、強くなって……! ……キムル? なにか」
訝しく問うたのは、錬金術師たる夫が、リトリアに目を留めて眉を寄せていたからだった。うん、と静かに首肯し、キムルは手を伸ばし、リトリアの前髪にそっと触れる。視線を重ね合わせて覗き込みながら。
「これは、なにを? ……魔術で髪の一部と……瞳の、光の屈折を変えているね?」
「うっわ。ほんとに報告書とめられてるんだ……」
引いた声でエノーラが呻くのに、リトリアは溜息をついた。これはもう絶対に、もろもろ合わせて魔術師たちを驚かせたいな、という、楽音の王の悪質な憂さ晴らしである。
リトリアが白雪で身柄を預かられることが決定した会議において、ひと悶着があったとも聞くし。大丈夫、と柔らかな笑みを浮かべ、リトリアはキムルの手に指を絡めた。
きゅ、と握って引き寄せて、頬にぺたっとくっつけて。あまく笑う。
「悪いことじゃないの。不安がらないでね」
「っ……! 君、リトリア、ほんとうに……白雪でなにがあったんだい……?」
「私たち無実! 無実だから! これ仕込んだの私たちじゃないから!」
ただし。照れたら負けだから相手を倒すくらいの勢いで攻撃できるようにがんばろっか、とほわふわした声でとんでもないことを言いつつ、練習を重ねさせたウィッシュのせい、と言われると白雪は否定できないのである。
おかげで、とんでもないことに、リトリアはあまり照れずにお願いだのなんだのができるようになってしまった。これ以上白雪預かりが続いていたら、さらに色々教え込まれていたに違いない。ウィッシュに。
俺はソキの先生でもあるし、リトリアにもちゃんと教育してあげなくっちゃ、と。謎理論で出さなくて良いやる気を出した『花婿』が、ちょっと暴走した結果のことである。とりあえず、と呻き。何度も、何度も呻き。
深呼吸をしてようやく気を取り直したキムルが、楽音の魔術師を代表して、リトリアに笑う。
「おかえり、リトリア。楽音へ……君の国へ」
「うん」
リトリアは目を細めて、眩しげに。幸せそうに笑って。ただいま、と言った。
はい、それではリトリアも帰ってきたことですから改めて紹介しましょう従妹です、と。
つつながなく謝罪と、今後の生活における制約などを告げ終わったリトリアを手招き。肩に手を置いて己の魔術師たちに向けた楽音の王の第一声が、それだった。魔術師たちは一様に、深い溜息を零した。思考が停止した顔つきだった。
ちょっと陛下がなにを仰っているのか分かりませんが心当たりがないかと言われると全くないこともなくてなんていうかもういやだ休暇が欲しい、と誰もの顔に書いてある。
灰色の沈黙を経て。窓から飛び立ちそうな顔をしたチェチェリアが、義務感一色の表情で手を上げて発言する。
「陛下。質問は許されますでしょうか」
「はい、どうぞ? いいですよ、もちろん」
「……いとこ? リトリアが、陛下の……陛下と……?」
楽音の王は麗しい微笑みで頷いた。己の魔術師たちの困惑と混乱を、気晴らしとしてうっとり楽しんでいる表情だった。リトリアの王は、隠れず隠さずまっすぐに性格が悪い。
もうすこし詳しく言うと先王の兄の娘ですね、失踪した例の、と追加情報をばら撒いて、その情報は知りたくなかったと呻かせるのも忘れず実行する程に。
そのお知らせは本当に必要だったんですかと呻く同僚たちを見て、リトリアはもう、と憤慨した声でくるんと身を反転させた。
「すぐそうやって、ひとさまを苛めて! 報告書も、都度送らせて頂いていたのに、手元で全部とめていたでしょう! どうしてそういうことを、なさるのっ!」
「私の魔術師が不安がらないだけの情報は開示していましたよ、リトリア。全部じゃない」
「ああいえば、こういう……!」
びしばし、という宣言通り、リトリアはかつてない態度で王に挑んでくれていた。しかしその光景に、魔術師たちは目をそらす。
楽音の陛下は上機嫌な笑みで言い返したり頷いたりしているが、付き合いの長い者程、なにを考えているかすぐに分かった。反抗期を迎えて可愛い、くらいにしか思っていない間違いない。
敗訴、という紙を眼前に掲げられた眼差しで、チェチェリアが深々と息を吐いた。胃の辺りに手を押し当てている。
「皆を苛めないの! もう、反省なさってください!」
「ああ、そうだ。リトリア、不在の間に荷物が届いていましたよ。中身は改めましたが、そのまま部屋においてあります。確認なさい」
「おはなしきいて……! もう、もう……もう!」
リトリアもうそのあたりで、と魔術師たちが止める間もなく。リトリアはきっと眉を吊り上げ、心から言い放った。
「お兄様の馬鹿! 嫌いっ!」
のちに。楽音の王が三日に渡って真剣に落ち込んだ事件として取り沙汰された、兄妹喧嘩開幕の一言である。
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