暁闇に星ふたつ:27

 



 部屋の中を片付けながら物を取り出し置きなおし、リトリアはふと、髪飾りを入れておいた箱の底に、指を押し当てた。よくよく見なければ分からないが、細工がしてある。二重底だ。

 なんとなく予感があって、チェチェリアがエノーラと話しているのを確認し、指先にそっと力をこめる。紙が数枚入るくらいの、ほんの僅かな空間に。ラーヴェからの手紙が入っていた。

 宛名は、私のかわいい老後の楽しみへ。中身は体調や身辺の落ち着きを得られたのかを案ずる言葉と、渡した首飾りを持って『お屋敷』を訪れるのを忘れないこと、そして手紙の宛先についてが記されていた。

 無言で二回繰り返し読み、リトリアはもおおおっ、と声をあげてしゃがみこむ。

「いじわる……! もう、もうっ!」

 荷物をまとめて送ったのは、別れる前のことである。別れる前であるから、手紙を書きたいと言ったこともなければ、首飾りを渡されてもいない。つまり最初から、ラーヴェの中ではそうする予定であったに違いないのだ。

 二重底の手紙は検閲の目から逃れていたが、もし見つかっていたとしても、不審に思われなかったに違いない。それくらいのことしか書かれていないし、宛先も、そこから転送されていくであろうことは想像にたやすかった。

 どうしたんだ、と問うチェチェリアを振り返り、リトリアはうるんだ目で言い切った。

「なんでもないの!」

「そ、そうか……」

「そうなの。もう、もう! ロゼアくんとソキちゃんに言いつけちゃうんだから……!」

 明日それを言う時間はあるだろうか、と考え、リトリアはふと気持ちを落ち込ませた。明日、ツフィアとストルは本当に来てくれるだろうか。ふたりとも、すぐに手紙の返事をくれたけれど。

 その返事の早さにうろたえたのも本当だった。

 違う、とたくさんの人に言われたし、白雪の魔術師たちにそれとなく相談した所、やさしい微笑みでリトリアちゃんたらもうと言われたのだが。それでもまだ時折、染み込んだ記憶が胸を痛ませる。

 フィオーレの優しい目隠しは取り払われた。それでも、リトリアが蘇らせる痛みの記憶は消えなかった。嫌い、と言われた辛さが心を冷えさせる。そのたび、息を吸い込んで思い直した。

 あのひとたちが本当に、それを言うだろうか。自問する。愛してくれていると知ったからこそ、リトリアは己の記憶を否定した。言わない。言わない、ならば。嘘をついていたのは。

 嘘をついているのは、誰なのだろう。リトリアに嘘を書き込んだのは。それを可能とする魔術師の存在を、リトリアは知っていた。

 結局、会うことが叶わなかったひとの名を、唇に乗せて囁く。シークさん。声無き言葉に応えはなく。ただ、内側の魔力がほんのすこし。鈍く、痛んで。明滅したような気が、した。




 どうしても戻ってきた当日中に会いたいひとがいたので、リトリアはチェチェリアの仕事が終わるのを待ち、楽音の城内を歩いていた。夕方の、そっと忍び寄る夜が茜色の影をどこまでも長く引いている。

 行き交う城内の者に、リトリアは柔らかな声でただいま、と声をかけた。年若い者は親しげに会釈をし、年嵩になればなるほど、リトリアの姿に目を向けはっと息を呑んだ。

 リトリアの記憶が戻されたことは、楽音の王によって速やかに周知されていた。だからそうするのは、幼いリトリアを知っていた者たちに他ならなかった。

 涙の滲む一礼を送られると、リトリアはそのたびに足を止め、じっと己の記憶を探ってから恐々と彼らの名を呼んだ。そのたび、泣き笑いで、おかえりなさいと告げられる。

 彼らの手に触れて、握りしめて、リトリアは視線を重ねてただいま、と繰り返した。どうしても触れて、どうしても目を見て、言いたかった。たびたびそんなことがあったから、リトリアが目的の場所へ着いたのは、もう陽が落ちきった後のことだった。

 申し訳なさそうにするリトリアに、チェチェリアは気にすることはない、と言った。必要な手配だけ終えてしまえば、今日のチェチェリアの仕事はリトリアについていること、である。

 単独での行動を禁じられたリトリアの、監視の魔術師はその日によって入れ替わるだろうが、戻って来た今日という日はチェチェリアたっての希望が通ったことだった。

 ありがとう、と照れくさそうにリトリアは笑う。その言葉だけで、表情だけで。報われた、とチェチェリアは思う。なにが、ではなく。その為に傍にいた訳でも、親しく面倒を見ていた訳ではないのだけれど。

 恐らくはリトリアが手に触れ、ただいまと告げた者は誰もがそう感じたことだろう。報われた。空白の月日が。失われてしまった親しさが。今日はチェチェ泣いてばっかり、と笑うリトリアに、明日はもう大丈夫だと告げて背を正す。

「さあ、リトリア。ここに来たかったんだろう?」

「うん……」

 揺れる感情に僅かに震える声で。頷いて、リトリアはその部屋の扉へ向き直った。楽音の城の、中庭の一角へ繋がる簡素な部屋だ。城の一室というより、元は東屋であったものを改装して、城の一部と繋げてしまった場所だった。

 簡素で、素朴な雰囲気が、城に溶け込んでいるようにも見えるし、浮いてしまっているようにも見える。息を吸い込んで。リトリアは部屋の扉を叩いた。

「こんばんは……。いらっしゃいますか……?」

 どうぞ、と応えたのは年老いた声。リトリアはためらう時間を己に許さないように、素早い仕草で扉を押しあけた。瞬きをする。室内は、カンテラからこぼれ出す光で眩いくらいに満ちていた。

 季節の花と、香草が束にされ、天井からつるされて乾かされている。壁には農具が立てかけられ、中庭を整備する者の汚れた制服が、山と籠に積まれているのも見えた。

 簡素な机と、椅子がいくつか。机の上にはいつから置かれていたのか、湯気を失った陶杯が置かれている。その陶杯を前にして、ひとりの老婆が椅子に座っていた。ああ、と声をもらしたきり、老いた女は身じろぎもせずリトリアのことを見つめている。

 とん、と靴音を響かせて歩いて。リトリアは老婆の前に両膝をついて座り、震える手を包み込むようにして持った。視線を重ねて、囁く。

「……おばあちゃん」

「ああ、嬢さま……。もったいないお言葉にございます。私はただの、年老いた乳母でございますよ……」

「でも、ばあや。むかぁし、そう呼んでもいいって言ったわ。そうでしょう……?」

 先王とその兄の乳母であった女は、リトリアが産まれた頃にはとうに城を辞していたのだという。事情を話し、探して呼びよせたのは現王そのひとだった。

 両親を恋しがって泣くばかりのリトリアに、老いた女は物語を語り聞かせ、あやし、様々な歌を紡いで寝かしつけた。リトリアの祝福は、歌のかたちで発動する。失われた記憶の奥底に、その優しさが眠っていた為だった。

 歌は、全て老いた女が教えてくれた。ごめんね、と一度だけ囁き。心から謝罪して。リトリアは、泣きだす女に微笑して告げた。

「私がなにもかも忘れてる間も、やさしくしてくれてありがとう」

「あぁ……いえ……いいえ……!」

「ただいま、ばあや。ね、私もうどこへも行かないわ。ちゃんとここにいる……だからね」

 また歌を教えて。私ね、もうひとりで本も読めるようになったのよ。歌もたくさん歌えるの。でもね、また教えて。ね、歌って。泣かないで。

「ただいま」

「おかえりなさいませ、嬢さま……」

 我ら一同、心より。あなた様のお帰りをお待ちしておりました。深々と頭を下げながら告げられて、リトリアはうん、と頷いて笑った。朝露に濡れる藤花のような。柔らかな、幸福に満ちた微笑みだった。

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