暁闇に星ふたつ:17



 その、ちょっと、がソキには受け入れ難いのである。ソキも授業を再開した身であるから、集中している最中にはもちろん、寂しさを置き忘れていられるのだけれど。休憩時間の気が緩む時に。ソキ、と名を呼ばれないことが。

 抱き上げてくれるぬくもりが。視線で捜し求めても、呼んでも、傍らにないことが寂しい。ロゼアはもうとうに受け入れているその日常に、ソキはいつまでも慣れないままでいる。

 どうしたらできるようになるですか、と気落ちするソキに、スピカは柔らかな声で囁いた。ひだまりで息をする、木々のざわめきのような声。

「信じるといいの」

「……しんじる?」

「そう。絶対に、帰ってきてくれるって。もう離れることはないんだって。いなくなるのは、出かけるだけで、別れるんじゃないんだって……信じられたら、それを、心が理解できたら。寂しくないわ。全然じゃないけど。ただ、すこし……ううん、傍にいたかったのに、っていう気持ちは残るけど」

 ソキは胸に手を押し当てて、ゆっくり、一度、深呼吸をした。信じるって、どういうことだろう。信じる。疑っていることは、ない、と思う。ただ、不安があって。その不安が、いつまでもいつまでもソキを苛んでいる。

 だってロゼアはソキを大事で、好きで、かわいい、と言ってくれるけれど。恋人みたいに。嫁ぐと、そうされる、と教わったようには。ソキには触ってくれないのだ。ソキがけんめいにそれを望んでも。誘惑してさえ、なお。

「……ソキの好きと。ロゼアちゃんの好きは、ちがうのかなぁ……。ソキが……ソキばっかりが、いっぱい好きで、ロゼアちゃんが、そうしたい、って思うのには、まだ好きが足りていないです……?」

「そう思う?」

「うん。……スピカさん、いいなぁ。ディタさんはきっと、スピカさんとおんなじに、いっぱい好きだったに違いないです……。ねえ、ねえ、さしつかえなければね、『お屋敷』でどんな風だったかお聞きしたいです……あ、あ! ママのおはなしも聞かせて? ママはどんな風な『花嫁』だったです?」

 そうだったです、ママです。ママのことを聞かねばですっ、とふんすと鼻を鳴らして気合を入れなおすソキに、スピカは肩を震わせて笑った。

「ちいさいミードは、あなたにとてもよく似ていたわ。一途で、まっすぐで、一生懸命。とっても可愛かった」

「それで、それで?」

「それでね。絶対にらヴぇはみぃの! みぃのなんだから! が口癖だったの」

 幼い『花嫁』候補たちに世話役や、『傍付き』の候補生たちを引き合わせるのは『お屋敷』上層部の仕事である。各個人の適性や相性を考慮して、ある日から『御付』に命ぜられるのだ。

 それでも、それは本人の預かり知らぬ所で成されることであり。ある程度育った『花嫁』が、あのひとにもうすこし傍にいて欲しいの、と口に出すのは、決して珍しいことではないのだった。

 ただし、それは世話役に限ったことであり。『傍付き候補』として他の『花嫁』の傍にある者を、指名して告げられることは、異常である。彼らを目にする機会がある、ということは、己の傍にも同じ『候補』がすでについている、ということだからだ。

 ソキは目をぱちくり瞬かせ、その状況について考えてみた。つまりロゼアとメグミカがいるのに、もうひとりロゼアがいて、他の『花嫁』の『候補』としてお世話をしていて、つまり将来的にソキのにはならないのである。

 ぴっ、と声を上げ、ソキは思わずぷるぷるした。

「と、とんでもないことです……! とりかえさなくっちゃいけないです……!」

「わぁ、ミードとおなじこと言ってる……!」

「きっと『運営』が間違いをしたか、ママにいじわるをして、いじめー! をしたに違いないです……! なんてひどいことだったです……」

 しょんぼりしたソキをしみじみと眺め、スピカは関心しきった声で、わぁミードとおなじこと言ってる、と頷いた。ソキはおおまじめにぷっくりと頬を膨らませ、いいですかぁ、と言い聞かせ口調で主張した。

「ロゼアちゃんは、ソキの。ロゼアちゃんはぁ、ソキのなんです。ディタさんは、スピカさんのだったです。だから、ママも、おんなじだったにちがいないです。ママのラーヴェだったですのに、『運営』がとびきりいじわるわるわるのいじめー! をしたです。だから、正当な権利、というやつです!」

「わぁ……すごい……ミードとおんなじことしか言ってない……!」

「ふふふん。ソキねぇ、ママそっくりってよく言われたんですよぉ?」

 腰に手をあて、じまんげにふんぞり返って、ソキはふんすと鼻を鳴らした。

「外見もぉ、性格もぉ、『最優』のママそっくりでぇ、ソキもちゃぁんと『最優』って呼ばれたです。すごーいでしょー? さすがはロゼアちゃんです!」

 ありとあらゆる機会を決して逃さず、『傍付き』の自慢をするのが砂漠の輝石の一般的な反応だが、ソキのそれは群を抜いている。スピカはほのぼのとした笑みで頷き、不意に、やんわりと目を和ませて問いかけた。

「ふたりは……ふたりとも、魔術師なの?」

「そうです。卒業していないですからね、たまごなんですけどね、魔術師です」

 いつもはだから、星降から繋がる『向こう側の世界』で学んでいるのだと説明するソキに、スピカはゆっくり頷き、囁いた。それなら、早めに言ってあげられるといいね。

 風で擦れる梢のように。耳に触れて心地よく消えて行く声に、言葉に、ソキは心当たりがなくて目を瞬かせる。なにか、あっただろうか。『花嫁』が、そうしなければいけない言葉が。

 記憶を辿って口を閉ざし、考え込むソキに、スピカはうつくしく微笑した。

「私は『花嫁』じゃなくなる為に、ディタにそれを言ったのだけど。ふたりとも魔術師で、でも『花嫁』と『傍付き』だから……。あんまり苦しくなってしまう前に。言ってあげてね。私が……私たちが確かに、『候補』から選んで、『傍付き』にしたみたいに……。『傍付き』じゃなくて、おとこのひと、になってもらうには、もうひとつ、それをしないと……言わないといけないことがあるの。きっと」

 ちゃんとディタにも聞いたことがなくて。たぶん、だけど。でもそれを求めて受け入れてくれたからこそ、連れて逃げてひとつになって。あのひとのものになれた、のだと思う。囁く。

 幸福に満ちた声で囁くスピカに、ソキは怖々息を吸い込んだ。

「なにを、言ったです……? 連れて、逃げて、って。言った、です?」

「ううん。……うん、それも、なんだけど……近くに来て。耳を貸して」

 話が終わったのだろう。ディタたちが歩み寄ってくるのに目を向け、スピカは慌てた様子もなく、ソキをやんわり手招いた。求められるままに身を寄せたソキの耳元に、淡く口付けるようにしてスピカは囁く。

 口元に手を添えて。『傍付き』たちに言葉を、読みとらせないようにして。

「ディタのにしてね、って」

「……ディタさんの?」

「そう。だから、連れて逃げてって」

 誰かの花嫁として嫁ぐのではなく。砂漠の富と引き換えになるのではなく。そうする為に育ててくれた、あなたの。たったひとりになりたい。裏切りではないですか、と即座にソキは口にした。

 震える声で。染み込んだ教育が反射的に告げさせた言葉だった。スピカは困ったように目を伏せて、頷いた。ソキの問いを肯定した。

「裏切りだと思うわ。でも……でも、ディタは」

 私がなにもかもを裏切ったことを。幸福だ、と言って笑ってくれた。許してくれた。喜んでくれた。だから、今私はここにいるの。あなたと会うことができているの。私を見て、とスピカは、ソキの手を強く握って言い聞かせた。

「あなたは幸せになれる。私とおなじように。……間違えちゃだめよ。嫌われるかも知れないって、考えるのは怖い。でも」

 嫌われたくないから離れて行くことは、一番の幸せを自分で諦めてしまうこと。ディタとずっと一緒にいたかった。それだけが私の望みだった。消えてしまうような声で囁いて、スピカは狼狽するソキに、間違えないで、と繰り返し囁いた。

「『花嫁』は『傍付き』に幸せになって欲しい。でも、私は……私が」

 相手の幸福を願うのではなくて。

「幸せになりたかった。幸せに、して欲しかったの。……間違えちゃだめよ。これだけは、間違えちゃだめ」

 あなたがどうしたいのか。もう一回、ちゃんと考えて。心にある望みが、真実なにを示しているのか。ソキが。ようやく息をすることを思い出した時には、もうロゼアがすぐ傍にいて。

 ソキ、と呼んで抱き上げてくれたので、それに対する答えを、スピカに告げられることはなかった。なぜかロゼアに聞かせてはいけない気がしたし、戻って来たディタとひとこと、ふたこと、話をしたスピカが眠ってしまった為だった。

 最近は数時間起きているのが精一杯で、あとはずっと眠っているのだという。また近いうちに、と約束と交わして店を出て、ソキはロゼアにぺたりと体をくっつけた。ロゼアは、なにを話していたの、とは尋ねず。

 ソキもまた、それをロゼアに聞くことはなかった。



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