暁闇に星ふたつ:11
ウィッシュのように、完全に監禁されてしまっている場合には、使えない手であるのだが。『花嫁』が受け入れられないような扱いをする者は、かなりの高確率で、迎えた宝石を見せびらかしに外出をするものなのである。
ソキはそう教わっていた。だから、その時に。普通には知られないように、隠された印を見つけ出して訴えるのだ。言葉は必ず聞き届けられる。『傍付き』が恋しい、帰りたい、ということ以外なら。
連れ戻して欲しい、迎えに来て欲しい。あのひとに。そう告げたとしても、届くことはないのだからと。繰り返し、『花嫁』は教わって知る。
それなのに、ラーヴェは。ミードの『傍付き』であった男は、ソキの手を握って告げたのだ。どうしても辛ければロゼアを呼びなさい。約束をして。あなたのロゼアを、呼びなさい。
その言葉は確かに、『お屋敷』の教育に対する反逆だった。息を吸い込んで、すこし目を伏せて。ソキは足をふら付かせながら、落ち込み気味の声で呟いた。
「パパがいまどうしてるかは、知らないかなぁ……。聞いたら分かったりしないです……?」
「前御当主さまは、すこし前に御枯れになられたと聞いております。……お待たせしました」
「あ! ちがうです! ソキ、いま、ラーヴェって言ったです。ぱぱじゃないです。ラーヴェ、ですよ? わかったぁ?」
給仕服の上に、淡く金の光沢がある薄布を一枚はおって現れた男は、丁寧な仕草で椅子に腰掛けた。端整な顔のつくりをした男だった。日に焼けた肌に、短めの黒い髪。藍色の瞳。ロゼアだけを知る者なら、印象がかぶることもあるだろう。
ソキの目からすると、男の印象は、ロゼアよりもその父親の世代。ハドゥルや、ラーヴェ。もうひとつ、ふたつ、上の世代の者たちから受ける印象に近かった。年齢も、それくらいだろう。四十か、もうすこし上に見えた。
男はやわらかな眼差しでソキを見つめ、面白そうに問いかけてくる。
「ラーヴェが、ミードさまの『傍付き』を?」
「そうですよ? パパがぁ、ママのぉ、『傍付き』だったです。……あっ、ちがうです! パパって呼んじゃダメだから、ソキのパパはラーヴェで……あれ? 間違えちゃったです。ラーヴェです。ソキのおとーさまは、ごとーしゅさまです。だから、ラーヴェはラーヴェなの。分かったぁ?」
おすまししながら言い聞かせてくるソキの瞳を覗き込み、男は分かりましたよ、と囁いた。ルルクはなんともいえない顔つきで頭を抱え、よく分からなくなってきた、と呻くが、助けの手はどちらからも伸ばされない。
分かってくれたです、よかったです、とソキは喜びに輝く瞳で男を見つめ返した。碧の瞳。その色彩に。男は、そうですか、と微笑んだ。
「ラーヴェが……」
「うん。でもね、ラーヴェは『お屋敷』を辞めてしまたです……。ねえ、ねえ。どうしているか、ご存知ではないです? ソキに、そっと教えてください」
「申し訳ありません、ロゼアの『花嫁』……私はミードさまがラーヴェを選ばれるより前に、とある混乱に乗じて『お屋敷』を抜けた身。ですから以後のことについては詳しくないのです」
前当主が枯れ、若き『花婿』がその跡を継いだことは、友人から聞いて知っていただけなのだという。そうなんですか、とガッカリしたのち、ソキはぱちくり目を瞬かせた。混乱に乗じて。
「……抜けた、です? 辞めた、じゃないの?」
「ええ」
「んん? なにが違うです……?」
嫌な予感しかしないから私もうこの席を離れたい、という顔で遠くを眺めるルルクに、聞こえなかったことにすればいいのではないでしょうかとあっさり言い放ち、男はさらりと言ってのけた。
「脱走するか、辞表を出すか、ですね」
「……い」
はくはく、口を動かして。微笑ましく眺めてくる男をぴしりと指差し、ソキは思わず絶叫した。
「いけないひとですうううう! そんなこと、し、しちゃ、いけな……い、いけないひとですううう!」
「ええ。ですのでこうして、友人のもとに身を寄せ、妻と共に隠れております。……あなたの『傍付き』には、内緒にしておいてくださいね」
そちらのあなたも。言ったり書いたり、伝えたりほのめかしたり、なさいませんように、と。やり方を熟知している者の囁きに、ルルクは頭を抱えて机に突っ伏した。
聞こえなかった、私なにも聞かなかった、なんかちょうまきこまれた、と呻くルルクを尻目に、ソキはしょんぼりと肩を落として落ち込んだ。
「ご結婚……しているです……」
もしかして、ご結婚がしたくていけないことをしたです、と落ち込むソキに、微笑して。男は椅子から立ち上がり、丁寧な仕草で、ソキの足元に両膝を折って屈みこむ。それは確かに、『傍付き』の仕草だった。
「『傍付き』ロゼアの『花嫁』たる方。私は『花嫁』スピカの『傍付き』で、ディタと申します。あなたさまの名前をお聞かせ願えますか」
「……ソキ、です。ディタさんの『花嫁』さんは、スピカさん、て言ったです……? ソキの守護星と、おんなじ名前です……」
スピカ。その名を、ソキは『お屋敷』で聞いた覚えがなかった。『花嫁』はもとより、一定の年齢を過ぎれば嫁いで行くものだから、同年代でない限りは交流もない。『運営』たちが口にする、前代の方はもっとこうでしたよ、という小言の中にも、その名は現れなかった気がする。
ソキは、やっと帰り着いた『お屋敷』で、ロゼアがいなかった事を思い出す。信じられなかった。胸が潰れてしまうかと思った。ソキは、妖精が導いてくれたから、その足で後を追うことができたけれども。
『花嫁』は、歩けるようには、作られないのだ。どこかへ逃れてしまわぬように。
目を潤ませてくちびるを噛むソキに、男は静かに囁きかけた。
「ソキさま。私の『花嫁』は……私の妻は、あなたのようには歩けない」
「……え?」
なにか、聞き間違えたような。信じ難い言葉に触れた気がして、ソキは潤んだ目で男のことを見つめなおした。心が音をたてて震える。え、えっ、と指を震えさせながら惑うソキに、男はやんわり微笑んだ。
「ですので。あなたのロゼアには、どうぞ内密に。どこからか『お屋敷』に伝わってしまうと、とても困りますから」
「えええぇえねえなんで私ここにいるの……。もう記憶を失うしかないんじゃないの……」
「え、えっ。あ、あの、あの、ディタさんの奥さまは、あの、あのっ、も、もしかしてなんですけどっ、もしかしてなんですけどっ!」
あああーっ、聞かないっ。私は聞かないーっ、と両手で耳を塞ぐルルクを、静かにしないといけないんですよぉっ、と興奮した声で叱り付けて。ソキは、あの、あのっ、と手をもじもじさせながら、目を潤ませて問いかけた。
「ソキの……守護星と、おんなじなまえ、なの……?」
「はい」
「つ、つれ、て」
にげてくれたの。囁き。涙に掠れて震える声に、ディタは微笑み、はい、と頷いた。
「そうして欲しいと。求めて頂けましたから」
それは、叶えてはいけない夢だ。『花嫁』なら誰もが一度は望みを抱き、それでいて、罪悪の前に自ら磨り潰し、口にすることのない希望だ。ソキは胸に両手を押し当てて、おぼつかない息をした。
嫌ではなかったの、とか。裏切りではないの、とか。どうしてそんなに幸せそうにしてくれているの、とか。聞きたいことは、たくさんあるのに。言葉は胸に溢れるばかりで、ひとつもソキから零れていかない。
はく、はく、と口を動かすソキに、ディタはもの言いたげな苦笑いをして立ち上がった。
「申し訳ありません。そろそろ戻らなければ」
「え、あっ、あ……あぅ……。そうなの……」
「……また、こちらへ来られる時はお知らせください。事前に手紙を頂ければ、あなたさまの星に、めぐり合うことも叶うでしょう」
ぱっ、と顔をあげて。口元を手で押さえ、こくこくと必死に頷くソキに、ディタはくれぐれも内緒にしてくださいね、と囁いた。男は机に備え置かれていた紙を引き寄せ、そこへ住所を書き入れた。
差し出された紙を大事に受け取り、ソキはおてがみするです、と頷いた。
「ソキ、ソキ、ロゼアちゃんにこっそり、ないしょして、お手紙して、会いにくるです」
「……ええ。でも、問い詰められたら言うんですよ。内緒は程ほどに」
「ん、ん! ソキ、ちゃんと分かってるです。ないしょ、できるです!」
ぎゅっと手を握って意気込むソキに、くすくすと笑い。ディタはすい、と視線を動かし、なにごとかにぷるぷる震えているルルクにも、そっと囁いた。どうぞ、お聞きになったことは、内密に。
音もなく立ち去っていく後ろ姿に、ソキは満面の笑みでちたちたと手を振った。
「……ソキちゃん。私、店に入ってから出るまでの間、記憶喪失になったっていう設定で行こうと思うんだけど、どうかな」
「ルルク先輩なら皆納得してくれると思うです」
恐らくは、またルルクの発作か、のような目で生暖かく仕方ながってくれる筈である。一年ちょっとしか付き合いのないソキでもそう思うのだから、ユーニャたちもそう感じるに違いない。
ルルクはさすがに落ち込んだ様子で息を吐き、額に手をあてて呟いた。
「日ごろの自分の行いが、つらい……!」
「ルルク先輩。寮長に似てるって言われたことないですか?」
「なんでかよく分からないけど時々言われる」
なんでよく分からない上に時々しか言われないんだろう、と不思議がりながら、ソキはすっかり冷めてしまった香草茶を飲み、はふ、と幸せな息を吐き出した。
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