暁闇に星ふたつ:10
薫風がさかまいた。あまりに突然のことで、ソキにはそのように感じられた。戸鈴の可愛らしい残響が、消えてしまうよりも前のこと。
入店してきたソキたちを振り返った給仕の男が、いらっしゃいませ、と振り返り告げかけて。音もなくソキに駆け寄り、両膝を折った為だった。訓練されきった者の身のこなし。
体温をぬるく宿した風が、ふわりとソキに触れて過ぎていく。乾いた熱の気配。砂の気配。砂漠の。『お屋敷』の。
「……ミードさま」
呼びかけて。声にしてしまいながらも、違うと思っている響きだった。男の藍の両目は驚きに見開かれ、一心にソキの姿形を見つめている。訝しんだルルクが、ソキと男の間に体をねじ込み、なにごとかを問おうとした。
それよりはやく。ソキは震える両手を持ち上げて、男の服の裾を、ほんのすこしだけ摘んで引っ張った。男に見覚えはない。声も記憶をかすめない。でもソキを見て、その名を呼ぶならば。
「ママ……ママのことを、知ってるの? みっ、ミードっていうのは、ソキの……ソキの、まま。ソキの、ママのことです……!」
舌がもつれて、涙が胸にひっかかって、言葉が上手く紡げない。ぎょっとして視線を向けてくるルルクに応えることもできないまま、ソキは男の服をまた引っ張った。
「ねえ。ねえ、ママを知ってるの? 知ってるですっ? ママはね、『花嫁』でね、あっソキも、ソキも『花嫁』で。あ、あっ、違うの、ソキは『花嫁』だったです。ソキね、あのね、『魔術師』のたまごでね。ロゼアちゃんと一緒にいるです。ロゼアちゃんていうのがソキの『傍付き』で、とってもかっこよくてすてきでやさしくって、きゃぁんやぁんで、んとんと、一緒にね、『魔術師』になったですからね、一緒なんですけどね。えっと、えっと……え、えっと……」
なにを話したらいいのか、分からなくなってしまった。言葉になりたがっている気持ちは、喉にたくさん引っかかっているのに。ぐずっと鼻をすすりあげて、ソキは微笑して見つめてくる男に、そろそろと問いかけた。
「ママを知ってるの……?」
普段は置き去りにしている恋しさが、どうしようもなく蘇る。ずっとちいさな頃にいなくなってしまった。その喪失のつめたさだけを、今もずっと覚えている。もっと暖かくて、優しい、大事な思い出だった筈なのに。
失いたくなくて話をせびっても、『お屋敷』の者が多くを話してくれることは、なかった。まま、まま、と半泣きの声でぐずるソキに、男の手が伸ばされる。
「私が知るミードさまは、あなたさまよりも幼かった。……御話できることは多くありません。それでもよろしいでしょうか」
「うん……!」
「お席でお待ちください。時間を作って参ります……ああ」
立ち上がり。吐息と共に、どこか誇らしげに。男はルルクに手を引かれながらも、己の足でやってきたソキのことを、眩しげに目を細めて見つめた。
「あなたさまは、歩けるのですね」
「でぇえっ、しょおおおおお! すごーいーでしょーっ?」
いつもより念入りにふんぞりかえって自慢するソキが、反り返りすぎてころんと転がってしまわないように、ルルクがさっと背に手をそえる。こころゆくまでふんぞったのち、ソキはルルクの指をきゅむっと握り、てちてちと男について歩き出した。
ふたりを、ゆったりとしたソファの席に案内した男は、戸惑うルルクに向かってご注文は如何なさいますか、と問いかけた。
あれってもしかしてロゼアくんと一緒なの、と問いかけられて、ソキは香草茶をひとくち飲みこんだ。熱すぎることも冷たいこともなく、喉にひっかからず、するりと落ちていくお茶からは、甘い花の香りがした。
一緒に運ばれた茶葉の調合表をごそごそとしまいこみ、ソキはほわりと息を吐く。おいしい。思わず足をちたちた動かして喜んだのち、ソキは机に置かれた蜂蜜の小瓶に目を向けた。花梨の香りがしていた。
小瓶にそえられた木の匙で蜂蜜をすくいあげ、香草茶の中へ溶かし込む。くるくるかき混ぜたのち、ソキは右を見て、左を見て。木の匙をもう一度小瓶にいれて、それをそのまま、ぱくんっ、と口にした。
「あ、ソキちゃん! こら!」
「きゃぁあん! おいしー! ですうぅっ……! このはちみつは、ソキが食べてあげます!」
ふんすふんすと鼻息荒く小瓶を引き寄せて、ソキはルルクに向かってつん、とくちびるを尖らせて見せた。
「ルルク先輩? はちみつは、じよーがあるです。たくさん食べるのえらいです。ロゼアちゃんも、きっとそういうに違いないです。ソキにはちゃぁんと分かるです。お見通し、というやつです」
「……帰ったらロゼアくんに聞くよ?」
「それとこれとはぁ、別問題、なんですよ? 言っちゃダメです。ないしょです。わかったぁ?」
首を傾げて問いかけてくるソキに、ルルクは微笑みながら言わないでおくね、と頷いてやった。他の者なら、ソキのおねだりに負けて言いくるめられてしまっただろうが。
ルルクは『お屋敷』の世話役外部講習を、受講終了したばかりなのである。言わないでおくね、というのは、ただ言葉にしない、というだけである。文書にしたためて通知しない、という意味ではない。
ソキはほっとしたように胸を撫で下ろし、混み合う店内を見回した。
数えると十二の机が置かれている。机を囲むのは椅子であったり、ソファであったりとまちまちだが、どれもとても座り心地がよさそうだ。空席はちいさな机がひとつ、残るばかり。
訪れているのは、そろいもそろって魔術師ばかりである。『学園』で見覚えのある顔や、王宮魔術師で言葉を交わしたことがある者。知らない顔もいくつかあったが、ソキとルルクを見つけて親しげに微笑んでくる姿から、同胞であることを感じ取れた。
その身に魔力を宿しているのが分かる。只人は、この店へ向かう道で迷ってしまうのだという。ルルクの説明を思い返しながらも、ソキは関心しきった様子で頷いた。
「ほんとに魔術師さんしかいないです……。あれ? でも、お店のひとはちがうです」
先程、ソキの対応をしてくれた男がひとりと、少女がふたり。給仕の制服を身にまとい、机の間をくるくると踊るよう、動き回っているのが見えた。店の奥にはカウンターが置かれ、背後の棚には酒瓶が揃えられている。
カウンターの中には給仕服の男がひとりいて、注文された香草茶を淹れたり、酒のグラスを磨いているのが見えた。ルルクもなんとはなしにソキの視線を追いながら、恐る恐る、もう一度問いを囁く。
「ここのひとたち……皆、ロゼアくんみたいな感じなの? もしかして、『お屋敷』のなんかアレだったりする……?」
「なんかアレ? です?」
なんかアレってなんだろう、と思いながらも、尋ねられたことをなんとなく察して、ソキは天井を仰ぎ見た。一点を凝視したのち、店の壁、窓の枠、と次々視線を移していく。
うん、と不思議そうに声を漏らすルルクにちょっと待ってくださいですよ、と告げながら、ソキは机に備え置かれた砂糖瓶を両手で持ち上げた。陶器の底を覗き込み、さらに、瓶が置かれていた場所にも目を向ける。
ことん、と瓶を置きなおして。ソキはふるふる、と首を横に振った。
「違うですよ。『お屋敷』のひとは、あのひとだけです。でも、あのひとも、魔力を持ってないです……どうやってお店に出勤をしてるんでしょうねぇ……?」
「なんかで、この区画の中に住んでるって聞いたことはあるけど……。いまなに探してたの?」
「あのね。もし嫁いだ先で、あんまりなこととか、やんやんやんなことがあった時には、お外に出た時に目印を見つけて、訴えていいことになってるです。そうするとね、調査のひとが来て、助けてくれるんですよ。どんなのかは『花嫁』のひみつー、というやつです。秘密の暗号、なんですよ」
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