暁闇に星ふたつ:12


 あっそうだ週末におでかけしてあわよくばスピカさんにお会いするですっ、とソキが思い至ったのは、流星の夜から半月以上が経過した、八月末の水曜日の夕方のことだった。それまで、ソキは大変に多忙だったのである。

 再開した座学と実技の授業にはついていくのが精一杯で、週末にはだいたい微熱を出して寝台の住人となっていた為だった。

 幸いなことに不調は長引くものではなく、また、寝込んで動けなくなるほど悪化するものではなかったので、月火と授業、水には部活動でひとやすみ、木金と授業で、土日をぐったり過ごす、という風に落ち着いていた。

 日曜日の昼過ぎにはだいたい回復していたので、えへん、ソキってば体がつよぉくなったでしょう、とふんぞっては、うんそうだな、とロゼアに微笑まれるのがここ最近の通例だった。

 今週はなんだかとっても調子がいいソキは、気持ちよくお昼寝をして部活動もこなし、夕食までの時間をアスルと共に寝台の上で過ごしていた。

 ロゼアの部屋である。談話室でころころしていないのは、部活終わりのソキをロゼアがひょいと抱き上げて、まっすぐに帰ってきてしまったからだった。

 週末に微熱を出してしまうようになってからはずっとそうで、最近、ソキはあまり談話室には行かないのである。でも今週はなんだかとっても調子がいいので。

 きっと夕食を食べたら、ロゼアは談話室にソキを連れて行ってくれる筈だし、週末だって熱がでないからお出かけも許してくれる筈なのである。基本的に、ソキが思うロゼアがなにかをしてくれる筈、には、根拠という大事なものが欠如している。

 それでも、ソキはそう思ったので。いい考えですから、お夕食までにお手紙を書いてださないといけないです、ところころするのを辞め、寝台の上でもそもそと起き上がった。

 どこからか、良いにおいが漂ってきている。夕食準備の完了を知らせる鐘が鳴るまで、あと一時間もないだろう。書き物机に向かっていたロゼアが、気配を感じて振り返る。

 うん、と首を傾げられるのに、自信ありげな表情でこくりと頷き、ソキはもそもそ寝台を移動し、床にてちんっと足をつけた。声がかかる。

「ソキ? 今日はもう、寝台の上でゆっくりしてるって約束したろ。どこへ行くの?」

「ロゼアちゃん? ソキはぁ、ちょっと、そこの棚に用事があるです」

 書き物机のすぐ隣。天井まで届く備え付けの棚には、ソキの髪飾りやお手入れ用品、小物、日用品などがきちんと整理されてしまいこまれている。その中のひとつに、手紙用品一式を納めた小箱があるのだった。

 微笑んで、ふぅん、と呟くロゼアの前をてちてちと横切り、ソキは棚の前に立った。小箱は、立ち上がったロゼアの頭より、ちょっと上に置かれている。むむむっ、とくちびるを尖らせ、ソキはこっくりと頷いた。

「やればいけるきがするです」

「……ソキ?」

「えい!」

 棚の前で、ソキはけんめいに、のびいいいっ、としてみた。届かない。ちっとも届かない。手をちたちたっとしてみる。やっぱり届かない。ぴょんこっ、と飛んでみる。どうしてか届かない。

 ぷぷぷくっと頬を膨らませると、笑みを含んだ声が問う。

「そーき。なにしてるの?」

「ろぜあちゃん! この棚がソキのことをいじめるです!」

「うん。そうだな。ひどいな」

 うっとりと微笑み、ロゼアはソキに頷いてくれた。でしょおおおひどいでしょおお、と憤慨したのち、ソキはしばらく、棚の前でちたちたした。

 ちたちた、ぴょんっ、ちたっ、ぴょ、ちたたたたっ、として、やっぱりどうしても届かなくて、ソキは頬をぷっぷく膨らませ、ロゼアに向かって両腕を持ち上げた。

「ロゼアちゃん! だっこぉだっこぉだっこぉだっこぉーっ!」

「だっこして欲しい?」

「だっこしてロゼアちゃん、だっこしてっ! だっこして欲しいですうぅ!」

 うん、と満たされた微笑みで頷き、ロゼアはすぐにソキを抱き上げた。きゅむっと抱きついてロゼアを堪能して、ソキは気合を入れて棚に向き合いなおした。これでもう届くはずである。

 ソキの目の高さに小箱はあった。自信たっぷりに手を伸ばす。届かない。もうちょっと手が届かない。ロゼアが、ソキを抱き上げるのと同時、一歩棚から退いていたのを知るよしもなく。

 やあぁんっ、とソキは涙声で腕をのびいいっとさせた。届かない。

「ロゼアちゃぁん……ソキ、お手紙のお箱に手が届かないです……。とってほしです……」

「うん。いいよ。誰に手紙書くの? ウィッシュさま? メグミカ? リトリアさん?」

 ソキが手紙を書こうとする相手は、基本的には限られている。手紙用品の箱を持って椅子に座りなおしたロゼアに、ソキはえへんと胸を張って告げた。

「ディタさんです!」

「……ソキ?」

 ふふん、と自慢げにふくっとする頬を両手で包みこみ、視線をそっと重ねて。ロゼアはにっこりと笑みを浮かべた。

「誰だ、それ」

「ディタさん?」

「どこで会ったんだ? どんなひと? ……男? 女?」

 えっとねえ、と説明しようとして、ソキはあっと声をあげてくちびるに両手を押し当てた。だってないしょだったのである。ないしょは言ったらいけないのだった。

 ん、ん、と困って視線をさ迷わせ、ソキは考えながら、微笑むロゼアにんっとぉ、と言った。

「この間、お茶屋さんであったです。流星の夜の……。また、お茶を飲みに行く時には、来る前にお手紙してね、ってお願いをされたです」

「うん、それで?」

「それでね、ソキは今週の日曜日に、お茶をしに行くことにしたですので、お手紙を書くです。でも、ロゼアちゃんには、ないしょにね? なんです」

 なにせ、ソキの考えが間違っていないとするならば、ディタは『花嫁』を連れてお屋敷から逃げおおせた『傍付き』なのである。それは『花嫁』の憧れで、希望で、夢だった。

 それでも、それを、ロゼアがどう受け止めるかは分からない。いけないことで、だめなことで、してはいけないことだから。『花嫁』と結ばれた『傍付き』を、もしもロゼアが拒否するのだとしたら。それは、ソキの恋が叶わないということだ。

 んん、と困って眉を寄せるソキに、ロゼアは静かな声で問いかけた。

「その人に会いたいの? 俺に内緒で?」

「ディタさんと……ディタさんの、奥さまに、ソキはお会いしたいです」

 つん、つん、と人差し指を突き合わせながら、くちびるを尖らせて、ソキはロゼアを見た。奥様、と訝しげに呟いているロゼアに、ソキは腕を伸ばしてぎゅぅっと抱きつく。

 どうしたの、と柔らかな声が耳元で囁き、ぽん、と背が撫でられる。せつなくて、くるしくて。隠しておけなくて。ソキは胸の中でディタにごめんなさい、と告げると、あのね、あのね、と涙声で言った。

「ディタさんね、あのね、『傍付き』さんだったひとです。それでね、奥さまは『花嫁』さんで、スピカさん、って言うですよ。ソキはどうしてもお会いしたいです」

「……は」

 ロゼアが。ソキの言葉に対して、返事以外の声を零すことは稀である。不思議に思って顔をあげると、ロゼアはなんだか、見たことのない顔をしていた。

 すこし前に新しい課題を出されたナリアンが、ああああああめんどくさいめんどくさいいいこの課題どうしてもやらなきゃいけないのを理解してしまった俺のことを殴りに行きたいでもこれをやらないといけない分かるやりたくないめんどくさいああああああ、と叫んで談話室の床を転がる奇行に出るほど追いつめられた事件があったのだが、その時と、なんだか似たような印象を受ける顔である。

 苦虫を顔面に叩きつけられるとこういう気分、と。救出されたナリアンは、しんだめで語っていた。ソキは不思議さに目をぱちくりさせ、ひきつったロゼアの頬をつむつむ突っついた。

「ロゼアちゃん? どうしたの? おなかがいたいの?」

「……痛くないよ……ソキ、ごめんな。あのな。もう一回教えてくれるか? 誰が、なにで……なに?」

「ディタさんとスピカさん?」

 あのね、『傍付き』さんだったのと、『花嫁』さんだったんですよ。ソキはそう聞いて、そう思っているです。

 どうしたの、それじゃ頭がいたいの、ソキが撫でてあげるです、とけんめいになでこなでこしても、ロゼアはしばらく、うめき声ひとつ洩らさなかった。やがて。ああ、とかすれ切った、ひきつったうめき声が漏れ、ロゼアは深々と息を吐く。

「ソキ……。今週、俺も行く」

「えっ」

「俺も行くって手紙を……うん。俺が書くから。住所を教えて、ソキ」

 え、ええぇ、と不満げに頬をぷっと膨らませるソキに、ロゼアは苦笑して。こつ、と額を重ねて、己の『花嫁』に囁きかけた。

「大丈夫。ソキが不安がることないよ。……内緒っていうのは誰が言ったの?」

「ディタさん。脱走したから、ないしょにしてね、って言ったです。ソキ、ないしょできなかったです……怒っちゃヤですよ、ロゼアちゃん。ねえ、ねえ。ロゼアちゃん。ディタさんも、スピカさんも、怒るのなら嫌ですよ……!」

 だめなことです。してはいけなかたです。でも、でも、ソキにはお気持ちが分かるです。すごく分かるです。どうしてもです。だから、怒らないで。怒っちゃいや。いや、と。

 悲しげな声で訴えてくるソキに、ロゼアはふ、と笑みこぼして。その腕いっぱいにソキを抱き寄せ、怒らないよ、と言った。

「ソキ、俺も……いつか、約束したろ」

 ソキが呼んだら迎えに行くって。だから怒らない。そんなことしないよ、と笑うロゼアに、ソキは言葉にならずに頷いて。ぎゅうっと抱きつき、その体をぴったりとくっつけた。


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