祝福の子よ、歌え 07
女王に渡された紙片に書かれていた住所の数は、十と一。上から順番に六本目の線を引いて消し、ロリエスは作業が折り返しに入ったことを確認した。陰鬱な溜息をつく。
女王の命令は他のなにを受けるよりロリエスの心を弾ませたが、示された住所を訪れるたび、なにか嫌なもの、悪いものが空気を漂い、肺から体へじわじわと染み込んで来るような気持ちになった。
もちろん、それは錯覚だ。魔力的な呪いがある場所は、ひとつもなかった。ただそこはどれも、さびしい空き家だった。
あるひとつは荒れ果て、あるひとつは直前まで生活していたような雰囲気のまま時を止め、あるひとつはすでに別の家族が住んでいた。以前の住民のことは知らないという。
ロリエスはそのまま大家を尋ねたが、住所を告げて問いかけたとたん、口を閉ざしてそれきりだった。
それは、誰かの足跡を辿る作業だった。誰の、と女王は最後までロリエスに教えることなく送り出したが、密命が、魔術師にそれを察することを許していた。女王は言った。
もしかしたらそこに、あるいはその周辺に、リトリアがいるかも知れない。誰かが一緒かも知れない。その時は抵抗あっても引き剥がして、連れてきて。抵抗はしないだろうけれど。
それはさびしい微笑だった。ロリエスは紙片をひっくり返し、住居の記載とは別にされた、いくつかの建物の名を眺める。国立、あるいは都市立、もしくは私立図書館の名ばかり綴られている。住所より、それは多い数だった。
ちいさな部屋めいた規模のものから、魔術師が訪れるような大規模な、壮麗な建物まで含まれている。そこにも線は引かれていた。上から七つ。八つ目を、これからロリエスは消しに行く。
花舞の都市はどこも光に満ちていて、明るい。眩さに目を細めながら、足を踏み出す。その時だった。腰を抱かれた。
「奇遇だな、ロリエス」
「奇遇であってたまるものか。……シル、なぜここに?」
腰を抱く腕を叩きながら睨み付けても、今日も麗しいなと目を細めて笑われるだけで、離されなかった。気落ちなど、声をかける前から見抜かれているに違いない。
どこから見ていたと低い声で問えば、未だ髪に転移の魔力を纏わせながら、召還術師たる男は俺が女神から目を離す時なんてある筈がないだろう、と嘯いた。事実とすれば単なる変質者である。
溜息をついて、ロリエスはシルをくっつかせたままで歩き出した。言葉を発する唇に、ほのかに暖かいドーナツが押し付けられる。反射的にひとくち齧って、しまった、と思った。
「シル。私はこれから図書館へ行くんだが?」
「朝食も食べずに?」
「……本当に朝から」
見ていたのか、と白んだ視線も受け流して、シルはロリエスの歩みを巧みに誘導した。並木道の端に置かれたベンチに座らせ、膝の上にぽん、と紙袋を置く。暖かな飲み物の入った紙カップも、ひとつ。
「悪い癖だ。寝食を忘れてのめり込む」
「……急がなくてはいけないんだ。ナリアンを待たせているし」
「ローリ。待たせる男は俺ひとりにしてくれないか」
腕組みをしてロリエスの隣に腰を下ろした男は、どうも怒っているようだった。普段ならばロリエスのみを注視している瞳が、今は行き交う人々と町並みに向けられている。
素朴な石畳と、白い外壁、色とりどりの屋根が並ぶ。平均的な花舞の地方都市。商店は開店準備を始め、活気に溢れて空気は騒がしい。それでも、どこかさびしいと思うのは、訪れた空き家の光景が目に焼きついているからだった。
二人用のちいさな家。ちいさな机、向かい合わせのふたつの椅子。大きな寝台はひとつ。それだけしか残されていなかった。ロリエスは目を閉じて息を吐く。これは無駄な作業だ。
あんな場所に、リトリアが戻る筈もない。迎える者のない家になど。
ひとつ前の都市。国立図書館の年嵩の司書は、藤紫の髪をした幼子のことを覚えていた。甘いココアが好きだったと言う。誰かが迎えに来たことは、なかったのだと言う。
「楽音の担当者は、チェチェリアだ」
独り言めいて告げられた機密に、ロリエスは苦笑いで、ドーナツを口に運んだ。
「……新入生の授業が、どこも滞っているな」
「伝えることは?」
「菓子作りの腕をあげたな、と」
シルは肩をすくめて天を仰ぎ、妬けるな、と言った。かまわずにドーナツを口に運び、ロリエスは飲み物をひとくち飲んで、笑う。
「ソキにも。ありがとう、休むようにする、と伝えて欲しい」
「俺には?」
「ありがとう」
さらりと感謝を告げてやると、シルは頭を抱えて上半身を伏せてしまった。耳が赤いので、照れているらしい。飲み物を喉に通しながら片手を伸ばし、ロリエスはぽふぽふ、とシルの頭を撫でてやった。
「私に言うならお前も休めよ、寮長殿?」
「……女神の感謝という眩しさが胸に苦しい」
たまに素直になるとこれなので、感謝は小出しにするのが効果的。ロリエスに悪知恵を仕込んだエノーラの笑顔を思い出しながら頷き、ロリエスはベンチから立ち上がって伸びをした。
雲がかかった空は晴れている。眩く、白く、息を吸う気持ちは楽になった。
それではまず肌の手入れからはじめてどんな化粧にするかを決めていきましょうね、と見惚れてしまいような優しい笑顔で囁かれて、リトリアは恐々息を吸い込んだ。
「ラーヴェさん」
「はい?」
「い、移動の話ですよね……? 旅支度、の、おはなし、でしたよね……?」
もちろんです、とラーヴェは穏やかな表情で頷いた。リトリアを寝台の上に座らせたまま、そこを取り囲むように椅子を引き、腰掛ける者たちもだいたい同じような表情である。なんだか、とても、わくわくしているような。
リトリアはようやっと健康な状態にまで戻った手足をうぅん、と伸ばして、困ったように、水を運んできてくれた女性に囁きかけた。
「あの……あの、あの、私の服は……?」
「ご安心ください。全て終わりましたら、楽音へ届くよう手配させて頂きました」
そういうことを聞いているんじゃないし、安心できる理由にならない。お水をたくさん飲みましょうね、と窘められるのに頷いて、リトリアは素直に喉を潤した。視線を己の体へ落とす。
寝込んでいる間にはそれ所ではなかった為に気がつかなかったのだが、着ているのはリトリアの手持ちの服のどれとも違っていた。淡い藍に染め上げられた、ふわふわの印象のワンピース。
薄い布地は長袖でも熱気を感じさせず、腰からふんわりと広がるスカートの丈は、ぎりぎり足首が覗く程度。幅広の白いリボンが、胸元と、腰の後ろでそれぞれ結ばれ、飾りになっている。
聞けば買って来たのではなく、リトリアが寝ている間に仕立てたのだという。
勝手に採寸して申し訳ございませんでした、とあまり反省を感じられない笑顔で、うっとりするような低音で囁かれ、リトリアは顔を真っ赤にして胸元に手を押し当てた。
これから成長するもん、といじいじと告げた言葉に、今のままでも十分かわいらしい、と笑われてもリトリアは信じなかった。ソキの胸がたゆんたゆんしているからである。
そういえばストルには結局好みを聞けず仕舞いだったので、リトリアはそれも思い出してさらに気持ちをへこませた。ツフィアはスレンダーな体型だけれども、ふくらむ所はそれなりに、きれいにまあるい形なのだった。
きっとああいうのが好きに違いない。リトリアのような、ぺたたんっ、としたのではなくて。
「……詰め物をしますか?」
「しません……。しな、しないもん……しないもん……」
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