ひとりの。別々の夜。 59


 カシャン。キシキシ。パキン。繊細な、耳障りな、硬質な、透明な音を立てて、咲いた花が壊れていく。崩れて失われていく様をいちべつもせずに、リトリアはようやく息を整え、熱を宿さなくなった指先を見つめた。

 魔力が零れていたのは、いつからだろう。予知魔術が発動してしまっていたのは。思い出す。ストルが鍵を閉めた筈の扉。リトリアはそこに触れた。触れただけで開いた。

 零れた魔力はリトリアの望みを正確に叶え、鍵がかかっていたのを、なかったこと、にしたからだ。耳障りな音がする。零れた魔力の消えていく音。花が。壊れていく音。

「……リトリアちゃん?」

 答えず、リトリアは泣き笑いで口元に手を押し当てた。ストルが『学園』を卒業して、会えなくなって、会えるようになって、くちびるに触れられたことを思い出す。指先で、口唇で、何度も、何度も。

 そのたび、リトリアは。何度好きだと告げただろう。魔力が零れ落ちることすら自覚せず。予知魔術師が魔力を行使してそう告げれば、それは魅了として、相手を縛る術となる。好き、と告げるたび。

 痛いくらい。好きになってほしい、と思っていた。魔力はその願いを叶えただろう。リトリアの知らぬ間に。

 そうして与えられる好意に本人の意思はない。

「そっか」

 だからツフィアは離して、と言ったのだ。それに気がついて、うんざりして、いやになって、離れて行ってしまった。ストルもそうだったに違いないのに。にせものの好意がどうしても欲しくて。歪めたそれを、リトリアは信じた。

「そうだったんだ……」

 目元を濡らす涙を指でこすって、リトリアはふらつきながらも立ち上がった。心配そうに見てくるレディに、笑いかける。笑うことはできた。どんな時でも。

「レディさん。私の魔力、もう零れてない?」

「え、ええ。もう大丈夫だけど……」

「ストルさんと、ツフィアに、謝らなきゃ……一緒について来てくれる?」

 魔法使いの耳で揺れる花飾りが、予知魔術師のあらゆる災厄から殺し手を守る術となる。フィオーレが指に通した飾り細工も同様に。だからもしも、万一があったとしても、レディは正気を保ち。正確にその役目を果たしてくれることだろう。

 レディは眉を寄せてリトリアを見つめながらも、差し出された手を取って立ち上がった。

「暖かいものでも飲みに行こうか」

 先に、とも。終わったら、とも。告げず、その選択を委ねてくれたレディを、リトリアは見つめ返した。このひとを好きになれればよかったな、と思う。このひとなら、好きになっても惑わされないでいてくれる、とも、思う。

 間違えたら、まっすぐに殺してくれるひとだと、思う。

「レディさん」

「うん?」

「ありがとう……」

 ストルさんと、ツフィアに。好きになって欲しかったな、と思って。それでもまたふたりを大切に思うこころを、諦めきれない欲望を。こんなだからうんざりされちゃうのかな、と。目を伏せて、リトリアは笑った。




 ひぐ、と言葉にならない悲鳴を噛み殺したレディが、リトリアを己の背に引っ込めてしまうまでに数秒間の間があった。たった数秒。それで十分だった。呆然としながら、リトリアは瞼の裏に焼きついた光景を思い起こす。

 探していたふたりがいたのは、人気のない建物の裏手のことだった。ツフィアは泣いていた。うずくまって、ストルにすがり付いて泣いていた。ストルはそんなツフィアの前に跪き、胸に抱き寄せて慰めていた。

 リトリアは、寒さに震えることりが仲間に身を寄せるようにレディにぴとりとくっつき、やや脱力しながら瞬きを繰り返す。泣いているのをはじめてみた。慰めているのも。

 もしかしてずっとそうだったのかな、とリトリアは思う。こころがすこし、遠くにあった。感情が、てのひらの触れられない場所に置かれている。自分のものなのに、どこか文章めいた、他人事のような気持ちを見つめている。

「ねえ、レディさん」

「えっなにごめんねちょっと待ってなるべく声を出さないで動かないでお願い気がつかれる気がつかれるからまだ気がつかれていないから……!」

「ツフィアは、もしかして、ずっとストルさんが好きだったのかな……」

 口に出すとそれがほんとうのことのように思えてきて、じわ、と涙が滲んだ。てのひらでごしごし涙を擦りながら、うつむいて、リトリアはそれで、としゃくりあげた。

「ストルさんは、ほんとうはツフィアが好きだったの……?」

「り、りとりあちゃんが発している言語の意味が? 私には分からない次元に? いつの間にか進化してる? 好きってなんだっけ? えっあれっちょっと待ってどういうこぎゃあああ気がつかれた! ちょっとアンタたちいい加減になさいよそうやってすぐリトリアちゃんのことになると見境なく無差別にキレるってどういうことなのよ怖いって言ってんのよこわいこわいもうやだあぁああああ魔力に上限がある魔術師が魔法使いに叶うと思わないでよそこ諦めるトコでしょ普通! ばか! ばかばか! ばーかばーかっ!」

 涙目でばかばか言いながら、リトリアの手を引いてレディが身を翻し、走り去ろうとした瞬間のことだった。がっみしっ、とおおよそ手が肩に触れたことで立ててはいけないような音をさせ、ストルがレディの肩を掴む。息切れしてなお、笑顔だった。

「動くなレディ。話がある」

「無罪の主張しかしないわよ私は!」

「うぅ……ん、んっ。泣いてない、です。泣いてない……」

 大慌てで目をこしこし擦ったリトリアが、しゃくりあげながらツフィアに主張している。片手は不安げにレディの手をきゅぅと握ったままで、離れず、ストルにもツフィアにも伸ばされることはなかった。

 ぎゅっと目を閉じて涙をどうにか引っ込め、ぐずっ、と鼻をすすって、リトリアはようやっと、己の前にしゃがみこむツフィアを見た。すすすす、とレディに寄せられたリトリアの体が、ぴとりとばかりくっついてくる。

 みし、と肩から嫌な音が鳴った。

「リトリア」

 ぞわっとするくらい甘い声だった。

「おいで」

「……ストルさん」

 ひとの肩の骨を砕こうとしながらよくもそんな声出せるわねでろでろに甘くて怖い気持ち悪い怖いこわいこわい、と明後日の方向へ意識を逃しながら思うレディの視界の片隅で、目元を赤くしたツフィアが物静かに微笑した。

「だ、だいじょうぶ、です」

 ツフィアが口を開くよりもはやく。決意を宿した声で、リトリアはしゃくりあげながら言った。

「もう甘えたりしません……」

「……リトリア?」

 現在進行形でリトリアはレディにくっついているので、なにを言っているのか、という訝しげな声だった。

 リトリアはびくりと体を震わせた後、ようやくそれに気がついたようにそろそろとレディから体を離し、ツフィアの前で何度も、何度も手を組み替え、指先をきゅぅと握り締めて震わせた。

 あのね、とようやく紡がれた声はかすれて震えていた。とうめいな雫のようだった。花弁の先から滴り落ちる、花の涙のようだった。

「ずっと、好きに……なって、欲しくて、ごめんなさい」

「リトリア、あなた」

 なにを、と問う言葉を聞きたがらずに。リトリアは淡く笑って、ツフィアの手をきゅっと握りしめた。両手で、祈るように。

「ツフィアが好き」

 涙滲む微笑で告げた。

「好き。ずっと大好き。だいすき……。初めて会った時ね、時からね、運命だって思ったの。守ってくれるひとだって、思ったの。このひとが、私の……わたしの、うつくしい歌。歌の形で愛成す私の祝福。それを、ぜんぶぜんぶ、あげたいひとだって……おもったの」

 瞬きで、涙が頬を伝い落ちる。だから、とリトリアは歌うように言った。

「ずっと一方的でごめんなさい……分かったから。もう、分かったから。ストルさんも」

 あなたが運命だと思っていた。ずっとそうなんだと。そう思っていてくれている筈だと、ずっと、思って。戸惑うストルに言葉を重ねることなく、リトリアはツフィアの手を離し、しにそうな顔で沈黙するレディの腕をゆるゆると引いた。

「もう、私のことで……悩ませることは、ないから。約束します」

 いままで、どうもありがとう。そして、ずっと長い間ごめんなさい。今すぐには難しいかも知れないけど、近いうちに必ず。ちゃんと元に戻してみせるから、と決意を秘めた顔で告げ、リトリアはレディをひっぱり、小走りにその場を立ち去った。

 あなたたちちょっと首を洗っておきなさいよあとで説明しに行ってあげるからただしわたしを殺さないと制約しリトリアちゃんちょっと待って転ぶ転ぶっ、と断末魔めいた残響を残し、レディの声がばらばらと散っていく。

 ストルとツフィアが、その後を追うことはなかった。地に落ちる影ごと縫いとめるような魔力が、二人の存在をそこへ留めていたからだ。意思を伝わせて発動した予知魔術。それは不意に零れたものではなく。

 目が合って微笑みかけられた瞬間、はきとした意思と共に発動した。リトリアの意思によるものに他ならなかった。

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