ひとりの。別々の夜。 58
その腕を、ぬくもりを、抱きとめてくれる暖かさを。確かに得ていたことがあった。母のようだ、と感じたことをまだ覚えている。リトリアに父母の記憶はない。それは消されてしまったものだからだ。
入学の際、魔術師として目覚めると共に暴走した魔力が、リトリアの思い出を白く塗りつぶした。ごめんね、とそれを成した白魔法使いは、ふわりと穏やかに笑って囁きかけた。ごめんね、そうするしかなかったんだ。
魔力を暴走させない為には、これから、魔術師として生きていく為には。白く塗りつぶして消してしまう他、なかったんだよ。失われた訳ではないのだという。ただ、上書きをされたのだという。
リトリアはそれを、説明を、あるがままに受け入れた。押し付けられた空白はリトリアの内で咲き誇る花のようにうつくしく、不思議とさびしいとも、苦しいとも、感じることはなかったからだ。
さびしいのはひとりで置いて行かれることだった。苦しいのは、愛してと差し出した手を払われることだった。一緒にいてと抱きしめて懇願しても、離れていかれてしまうことだった。
「ツフィア……!」
そうされてしまった、と一度は思った。ストルにも、ツフィアにも。だから逃げ続けた。だから会えなかった。呼べないままだった。ずっとそれが苦しくて、さびしいことだった。
けれどもストルはリトリアのことを、嫌いではないと、そう言ったので。ツフィアもきっと、リトリアがなにか思い違いをしてしまって、だから会えないままでいただけなのだと思って。
「ツフィアだ……!」
抱きついた。胸に顔をうずめて体をくっつける。背に腕をまわして、ぎゅっと抱きつく。
「り、リトリア……?」
いかないで、と思う。もうどこにもいかないで。傍にいて。大事にするから、いいこでいるから、いうことを聞くから。嫌いじゃないよって、いって。
そうしたら今度こそ、いまこそ、私はその言葉を信じるから。記憶は塗りつぶして書き換えられる。
そのことを、私は、そう、誰より本当は知っていたから、だから。否定して否定して、今もなにかの警鐘のようにぶり返し痛みを訴える己の記憶を、意識こそを否定して。リトリアはツフィアにくっついた。
涙が浮かぶ。鼻をすん、と鳴らして、リトリアはツフィアの名を呼んだ。目を閉じて。その手が背を抱き返してくれることを。その声が暖かく、リトリアの名を呼んでくれることを。願って、祈って。
「リトリア」
信じた。
「離して」
拒絶的な声だった。急いで紡がれた、慌てたような声だった。リトリアの腕から力が抜けおちる。え、と言葉を探して震えたくちびるが、意味のない言葉を発した。と、と足がよろけて、ツフィアから体を離す。
そうしなければいけないと思考が紡ぐより早く。体中を巡る血とおなじもの、意思よりもなお強く響くもの。予知魔術師としてのリトリアの魔力が、言葉魔術師たるツフィアの意思に従って、反応した。
「え……え、え。あ……あ……れ? ご……ごめん、なさい……」
と、とと、と足がよろける。とん、と扉のすぐ隣の壁に背を預けて、リトリアは立った。目の前がちかちか点滅している。白と黒の明滅。
「ごめんなさい……」
ごめんなさい。それしか言えなかった。ツフィア、と名を呼ぶことすらできなかった。震える手をどうにかしたくて、手を握ったり、指先をこすったり、組み替えたりしてみる。
指がつめたかった。体温をきっと、ツフィアの背に、置いて来てしまった。視線を合わせることができなかった。リトリアの前にしゃがみこんだツフィアから、それを促すような気配を感じたけれど、怖くてどうしてもできなかった。
わん、と耳鳴りのように声がする。記憶が押しつぶすように再生と乱反射を繰り返す。きらい。うんざりする。きらい。きらい。
「……リトリア。ストルを借りるわよ」
ストル、と呼ぶ硬質な声に、男は溜息で答えたようだった。ゆっくりした足音。とん、と指先で肩が叩かれる。
「リトリア。部屋で、暖かくしていなさい」
「……あなたどうして頑なに部屋に連れ込んでおこうとするのかしら」
おいていかないで、と告げようとした時には、二人の背は遠くにあった。慣れた風に歩調を合わせ、リトリアから遠ざかっていく姿に、手を伸ばしかける。そこで、腰が抜けた。
立っていられなくて座り込む。心臓が痛いくらいはねていた。なにが起きたのか、分かりたくはなかった。
「いなく、なっちゃ……った……」
こころがいたい。いたくて、いたくて、おかしくなりそうだった。息がくるしい。涙が滲む。
「あー!」
駆け寄ってくる足音と声。顔をあげれば、火の熱がリトリアの頬に触れて温めた。
「い、いた! リトリアちゃん、いた……!」
慌ただしく廊下の端からかけてきたのは、火の魔法使いレディだった。レディは慌てふためきながらリトリアの前に片膝をつき、両手でなんのためらいもなく少女の体に触れた。
「ストルになにされたのっ?」
「さ……されてないです……」
思わず、気が抜けて。リトリアはほんの僅か、笑った。つい先程、似たようなことを聞かれたのを思い出したせいだった。うん、と全く信頼していない表情で頷きながら、伸ばされたレディの手がリトリアの頬を擦る。
袖口で涙を拭いながら、魔法使いは開かれたままの講師室の扉を睨み、思い切り品のない舌打ちを響かせる。
「よし分かった。大丈夫よリトリアちゃん。私は決して得意じゃないけど、砂漠系男子のやりくちとかそういうのとか、思考回路とかなら、詳しくはないけど知ってるから……! だからとりあえず、なにされたのか聞く前に、その魔力収めよう? ちょっと一回、ね。深呼吸。落ち着いて」
「……魔力?」
「零れてるから、発動を停止させよう? ね?」
暖かな手が肩に乗せられる。瞬きをして、リトリアは大きく息を吸い込んだ。視線を床に落とす。硝子質の花が咲いていた。
水面に浮かぶ水蓮。いくつも、いくつも、零れ落ちたリトリアの魔力の欠片を水面にして、芽吹き成長する幻の花が、廊下一面に広がっている。ぎょっとして己の身をかき抱き、リトリアはとっさに違う、と言った。
「私、いつから、こんな……レディさん、ちがうの! 私、こんな、予知魔術使おうなんて、全然思ってなんてっ」
「大丈夫たぶん全部ストルのせいだから」
「ストルさんのせいでも……ないの……」
返事にちょっとばかり自信がないのは、気持ちが大きく揺れ動いた時に、リトリアがよく魔力を零してしまうからだ。それを、自分でも分かっているからだった。
それでもこんなに大規模にばら撒いてしまうなんてこと、近年は一度もなかった筈なのだが。落ち着かなくちゃ、と弾む胸に両手をあてて息を吸う。指先は冷えたままだった。
「リトリアちゃん」
予知魔術師の魔力が暴走してしまわないよう、広がる水面に火の魔力を重ねて押さえつけながら。冷静な眼差しで、レディは少女の前に跪いていた。
「どこが痛いの?」
花が咲く。魔力によって産まれた硝子質の水蓮が。それは只中にある、レディの耳で揺れる飾りと同じものだった。やさしいリトリアの殺し手。王たちがリトリアの為に用意した魔法使いは、穏やかな微笑みでリトリアに手を差し伸べた。
ころころと涙を流す頬に、目元に。熱を失ったつめたさを暖める、火のぬくもりが触れる。
「大丈夫。大丈夫よ、リトリアちゃん。ちょっとびっくりしちゃっただけだよね? 多少なにかアレしたとしても、ストルなら別に怒らないっていうか。あの男ならなんていうか、その、リトリアちゃんに多少アレされるくらいなら本望というか可愛いとか言い出しかねない感じだし……」
「でも、じゃあ、つふぃあは……?」
「ツフィア? ……え、ツフィアに会ったの? 焦がす? 燃やす?」
今どこ、と次々問いかけてくるレディにふるふると首を横に振りながら、リトリアは目をぎゅぅと閉じてしゃくりあげた。ツフィアは、じゃあやっぱりうんざりしてしまったのだ、とリトリアは思う。
いつまで経っても魔力の制御ひとつ、自覚的にできないリトリアのことに。魔力が零れていることに気がついて、だから離れて行ってしまったのだ、と。そう思って。血の気が引いた。
「……あ、れ」
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