ひとりの。別々の夜。 57



 走っている。何度も辿った、見覚えのある道筋を、廊下を辿っている。覚えがあり過ぎて目眩がした。記憶に刻み込まれすぎていて、本当にそれが見知った場所なのかを失いかける。

 どうして、どうして、と心が叫んでいる。息が切れた。どうして、なんで、早くしなきゃ、はやく、どこで見落として、まだ間に合う、でもまた、どうして、どうして。どうして。

 どうして、いつも祈りは手をすり抜けて消えてしまうんだろう。

「……リ……ア!」

 強く。手首を掴んで引きずられる。

「リトリア!」

「あ……あ、え……? ストル、さ……」

「リトリア。どうした」

 指で目元を拭われて、頬が濡れていることを自覚した。リトリアが息を切らしていたように、ストルもまた肩を揺らし、浅く早く息を繰り返している。

 焦燥にまみれた瞳で見つめられて、リトリアはようやく、己の体の内側に、自己という意識を取り戻す。息を、ようやく、意識的に吸い込んだ。

「ストルさん……」

「リトリア。誰になにを?」

 ごく自然に腕の中に抱き寄せられながら問われて、リトリアは瞬きをしながら、首を横に振った。なんでもないの、と呟くくちびるを親指でなぞられ、おとがいを上向かされ視線を奪われる。

「そんな顔で走っておいて。いいから、教えなさい。誰が、君に、なにをしたのか」

「……されてないの」

「リトリア」

 微笑んで咎めるストルの呼び声の裏に、笑っているうちに教えなさい、という意思が見え隠れするのを感じても、リトリアはふるふると首を横に振ることしかできなかった。誰かに、なにか、されたのはリトリアではない。

 涙を擦るように手で拭って、弾む息を整えながら、リトリアは不意に不安に思い、しんと静まるあたりを見回した。

「……ここ、どこ?」

「教員棟だ。……分かって来たんじゃなかったのか?」

「ううん……。あ、でも、チェチェに……チェチェと、ロゼアくんに、用事があって」

 ロゼアの魔力を覚えてはいなかったから、同僚であるチェチェリアのそれを辿って走った記憶が、うっすらと残る。チェチェリアは担当教員らしく、一角に部屋を持っているから、そこに引き寄せられたのかも知れなかった。

 ストルはリトリアのぽつぽつ零される言葉にいまひとつ納得していないそぶりで息を吐き出し、授業中の筈だが、と教えてくれた。

「どんな用事が?」

「え……えっと、ロゼアくんに、聞きたいことが、あって」

「ロゼアに?」

 可笑しげに甘く深まったストルの微笑に、リトリアはこくりと頷いた。ふぅん、とリトリアの手首を掴んだままの指先が、少女の肌をつと撫でる。

「ロゼアに、なにを?」

「し……質問?」

「俺に聞けばいいだろう? 俺からは逃げるのに、ロゼアには聞きにいくの?」

 ん、と穏やかな声の響きで答えを促してくるストルに、リトリアはあれ、と視線を彷徨わせた。過去に何回かしか遭遇したことがないので、確信は持てないのだが。これはもしや。

「ストルさん……」

「ん?」

「なん、だか……不機嫌……? どうしたの……?」

 深く息が吐き出される。君以外に理由があると思うのかと呻かれて、リトリアは今ひとつふに落ちない気持ちで、ストルの腕の中で身じろぎをした。分からないが、なにかまたいけないことをしてしまったのかも知れない。

「……ごめんなさい」

「謝らないでいい。……君が……謝ることでも、ない」

 ああ、でも、と。吐息に乗せながら嬉しげに笑い、ストルはリトリアの背を深く抱き寄せた。

「逃げなくなったな。いいこだ」

「き……らいじゃ、ないの。本当?」

「嫌いになったことなんて一度もないよ。リトリア」

 かわいい、かわいい。俺のリトリア。囁きは耳に口付けられながら繰り返される。恥ずかしいからもういいです、もうだめ、いいです、と抵抗しかけるリトリアに笑い、ストルはひょい、と小柄な少女の体を抱き上げた。

「よくない。さ、ちょっとおいで」

「……え。えっ?」

「ちょうど、メーシャの授業が終わった所だ。ロゼアに聞ける質問があるなら、俺が答えても構わないだろう。……泣いていた理由についての話もあるし、ふたりきりの方が話しやすいな?」

 はい、とも。いいえ、とも答える隙を与えず、ストルはリトリアを抱き上げたまま歩きだした。リトリアが気が付かなかっただけで、数歩先がストルの教員室だった。混乱しているうちに室内に連れ込まれ、ソファにそっと体を下ろされる。

 起き上がろうとする動きは、微笑みひとつで阻まれる。

「鍵をかけてくるから」

 くちびるを、熱が掠めて。

「いいこで待っていて」

 離されて。リトリアは扉に向かう背を、真っ赤な顔で見送った。




 角砂糖がふたつ溶け込んだミルクティーをこくりと飲み込んで、リトリアは赤らんだ顔を隠したくて、もじもじしながら俯いた。対面のソファに座るストルの笑みが向けられているから、なおのこといたたまれない。

 鍵をかけて戻ってきたストルはリトリアに、話をするのだからお茶でも飲もうか、と囁きかけてきた。お茶である。話である。そういえばそう言われて連れてこられたのだから、他になにか別のことがあろう筈もなく。

 リトリアは指先をぷるぷる震わせながら茶器を置き、すこしだけ触れられたくちびるに指先を押し当てると、落胆の入り混じった息を吐き出した。

「……期待して、ないもん」

「リトリア?」

「ストルさんは、ストルさんは……あんまりちゅって、しちゃ、だめです」

 恨めしげにリトリアから見つめられても、ストルはゆったりとソファに腰かけたままで笑顔を崩さなかった。

「どうして? 理由を教えて?」

「ど、どきどきしちゃうし……」

「俺もしてるよ」

 絶対に嘘だ、とリトリアは思った。そんな笑顔で首を傾げながらさらっと言われては、なにがなんでも信じられない。あとは、と穏やかな、教師めいた声で促されて、リトリアは目を潤ませて男を睨みつけた。

 ふ、と笑ってストルはソファから立ち上がった。

「泣いていたから。話をするにしてもなにか飲まないと、頭を痛くするだろう」

「……なんで立つの」

「近くに行かないとできないだろ?」

 もう飲み終わったようだし、とストルはリトリアの置いた茶器を確認して、机を回りこんだ。えっと、と立ち上がろうとするリトリアの顔の横に、手がつかれる。覆いかぶさるように屈まれて、リトリアは思わず扉に目をやった。

 ストルさん、と呼ぶと、鍵は閉めたよと告げられる。聞きたかったのはそれじゃない。そうじゃなくて、とストルの腕に手を添えて、リトリアはそっと問いかけた。

「話を……するのよね?」

「うん。そうだな。話もしようか」

「……なにするの?」

 リトリア、と屈みこんだストルが耳元で笑う。

「分かってるだろう? 言ってごらん。……分からないなら、教えるだけだが」

「え、えっと、えっと、あの、その……怖い?」

「……俺だけ見て、俺のことだけ考えていればいいよ」

 輪郭を確かめるように。そこにいることを確かめるように、ストルのてのひらが、服の上からリトリアに触れる。とくとくと拍を刻む心臓の上に。てのひらが押し当てられて、熱を宿す。

 かたく目を閉じてしまったリトリアに、ストルは低く、喉の奥で笑った。

『リトリア』

 呼びやう声が、目の前の男からではなく。己の内側。心臓に一番近い位置に眠る心。滾々と湧き出でる魔力を震わせるように、リトリアの奥で響いた。思考が形をつくるより早く、リトリアの手がストルの胸を押す。

 戸惑うストルの腕の中からすり抜けて、リトリアは鍵のかかった扉へかけよった。魔力を帯びた指先を触れさせるだけで、あっけなく、閉ざされていた扉が開く。息を吸い込んで、満面の笑みで。

「ツフィア!」

 そこへ立っていた女性に、リトリアは抱きついた。己のもうひとりの運命に。

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