ひとりの。別々の夜。 56


 駆け寄ってくる足音と共に、せんせい、と花露のようにあまい声が星降筆頭たる男を呼んだ。おや、と目元を和ませながら振り返り、男はすぐさま両腕をひろげてしゃがみ込む。

 ぽすん、と音がたつように、腕の中に飛び込んできたのはリトリアだった。せんせい、せんせい、とはしゃいで抱きついてくるリトリアに、男は目を和ませて抱擁する。

「ひさしぶりですね、リトリア。元気そうでなにより。……レディのお迎えかな?」

「はい。せんせい、お元気そうで、嬉しいです……!」

「『学園』に向かう途中で、自国をわざわざ通過させてあげているのに。この言われよう……!」

 胃のあたりを手で押さえ、ゆっくりとした足取りで近づいてきた火の魔法使い。王宮魔術師としては部下にあたるレディに、筆頭たる男はやんわりと笑みを深めてみせた。名残惜しそうなリトリアを離し、肩に手を置いて語りかける。

「まったく、あなたときたら。王の言いつけを素直に守って、顔のひとつも見せに来ない」

「ご……めん、なさい? せんせい」

「昔から。してはいけない、と言われたことをするのが、苦手でしたものね……。ストル出張させよう」

 息を吸うのと同じ感覚でリトリアの想い人をいびろうとする星降筆頭には、大人げというものが圧倒的に足りない。

 ストルはいま、担当教員として『学園』に出向いておりますので、そんな私情まみれの正式な理由ない出張は王が許可されないんじゃないかしらと呻くレディを、筆頭たる男は息を吸うように無視した。

 えっ、あっ、とレディと己の師を見比べるリトリアに、火の魔法使いは力ない微笑みを浮かべて、気にしなくていいから、と囁いた。リトリアの殺し手に選ばれてからというものの、筆頭とストルの態度がひどいのはいつものことである。

 彼らも身近に八つ当たりの対象がいなければ、もうすこし大人であると信じたいが、あいにくとレディは彼らの同僚で、毎日顔を合わせねばならず。

 そして、積極的な接触を遠回しに禁じられている二人と違い、レディは呼ばれればいそいそと楽音に出かけてリトリアと会い、『学園』への送り迎えをする役回りなのだ。

 フィオーレが動けぬ現在、その役目はほぼ確実にレディのもとへ回される。ちなみに、ストルと筆頭の仲は険悪のひとことである。

 どちらも基本的には、基本的には穏やかな気性であるので表だって対立していないだけで、あの二人が微笑み合って会話している場にはレディしか突っ込みたくない、というのが星降の王宮魔術師、共通認識だ。

 私だって突っ込まれたくない、という魔法使いの死んだ目の主張は、今のところ誰にも採用されていない。大丈夫お前魔法使いだろ死なないって、というのが、きらめく笑顔の却下理由である。

 魔法使いなんて、ほんと、いいことがない。深すぎる息を吐き出し、レディは目元に指を押し当てた。

「私が守ってあげなきゃ……」

「人並みに、ひとりで出歩けるようになってから寝言は仰い。レディ」

「リトリアちゃんよくこんなのに育てられて性格歪まなかったねっ? 奇跡だとしか思えない……!」

 光のような速さで後頭部をひっぱたきに来た筆頭のてのひらを意地だけで避け、レディはおろおろと二人を見比べる少女へ言い放った。

「この歪み捻じ曲がった筆頭を教員にしておいて! ほんとよく! 実力行使系魔術師に育たなかったねちょう偉い……!」

「リトリアはちょっと似かけた時に、運動神経がついていかなかったから潔く諦めたんですよ」

「いっ、いわないで! せんせい、いっちゃだめぇっ……!」

 反射的に叩く、とか。蹴る、とか。そういった動作をするには、リトリアの育ちのよさが無意識にためらわせた故、なのだが。こと、反射的な攻撃、あるいは防衛反応と言うものがいまひとつ不得意であることも確かなことなのだった。

 でもそうしよう、と決めていたら予知魔術に補助させる形で一撃を叩き込むくらいのことはできるし。目立たないだけで物理解決で済ませることも多いのである。

 せんせいひどい、ばらした、ひどい、と顔を真っ赤にして恥ずかしがるリトリアを、レディはさっと己の背に押し込めた。筆頭が、うちのこほんとかわいい、という柔らかな目で少女を見つめていたからである。

 リトリアの周囲の男どもは、なんだってこんなのしかいないのか。リトリアがそういう性格の者を惹きつけやすい、という可能性を明後日に投げ捨てて、レディは決意を新たに宣言した。

「私が守ってあげるからね……!」

 レディの耳で花飾りが揺れる。王と世界への誓約となり、予知魔術師の殺し手の証でもあるそれを、複雑そうに見つめて。リトリアはそれでもはにかむように笑い、ありがとうございます、と頷いた。




 いつ訪れても『学園』は、穏やかであるとするには騒がしい。落ち着いた空気が漂っていても、活気ある気配がそこかしこに満ちていて、肌を撫でては過ぎ去っていく。

 リトリアはゆっくり瞬きをして、どこか戸惑いがちに息を吐き出した。いつも通りの『学園』である筈なのだが。なんとなく、なにかが隠されているような、秘密を薄布の裏に隠してあるような、奇妙な違和がつきまとう。

 談話室にぐるりと視線を巡らせてみるも、特別おかしいと思うものを見つけることはできなかった。

 先日と違うことがあるとすれば、ロゼアちゃーんたらー、ソキをおいていったぁー、ですー、じゅぎょうはいっつもー、ロゼアちゃんをソキからー、とっちゃうー、ですぅー、と『ロゼアちゃんがソキのおそばにいないうた』を不満げにふわほわふわほわ歌っているソキが、目を覚ましていることくらいだろうか。

 隣に座って五分が経過してもまだ歌っているので、リトリアはそっと息を吐き、ソキの目の前にひとさしゆびを差し出した。そのまま、蜻蛉の目を回させるのと同じ要領でソキの前で指をくるくると動かし、注意を引きつける。

「ソキちゃん? そんなに歌ったらだめよ」

「んん? ソキ、今日はお喉の調子がいいですからぁ、大丈夫です!」

 じまんげにふんぞりかえるソキは、たっぷり寝た後だけあって機嫌も体調も良いらしかった。うん、うん、と微笑んで頷きながらほだされ、かけ、リトリアは気を取り直してソキの肩にぽんと手を置く。

 ふくふくほっぺを突きたがる指先に力を込めて律しながら、リトリアはなぁに、と見つめてくるソキに、くちびるを寄せて囁いた。

「予知魔術師は、あんまりたくさん歌ったらいけないの」

「なんでぇ……?」

「なんで、って」

 ぷくぷく頬を膨らませて首を傾げてくるソキに、告げようとしてリトリアは意識の明滅を感じた。これを、彼女に告げたのはいつだっけ、と、記憶の片隅で誰かの声がする。

 泣いているような、笑っているような、ゆるりと響く誰かの声。リトリアの声。

「……なんでって」

 そこから、うまく言葉が続いては行かなかった。理由は思考として形に表すことが出来るのに、舌がどうしてもそれを紡いではいかないでいる。強張ったリトリアを不思議そうに見つめて、ソキはぱちぱち、瞬きをした。

「たくさん歌うと、ロゼアちゃんが喜ぶって言ったです」

 だからね、ソキはたくさんね、おうた、うたうです。いつになくあどけなく。ふわふわした声で告げるソキに、リトリアは頭の痛みを感じ、額に指先を押し当てながら問いかけた。ささめくように。

「誰が?」

「だれが?」

「誰が、ソキちゃんに、そんなこと……」

 知っている筈だ。それが引き金のひとつになることを。リトリアも、かつてはソキも、それを知っていた筈なのに。繰り返した時間の果て、失われ続け摩耗していく記憶の果て、何度も何度も予知魔術師はそれのせいで、泣き叫んだ筈なのに。

 忘れてしまう。

 白紙と空白の本が荒野で歌っている。

 だれって、とソキはたどたどしく告げる。幼子のように。リトリアはその恐ろしさを知っている。調整された予知魔術師、武器として整えられ終わりかけた、その危うさを知っている。

「ロゼアちゃんに決まってるです。ロゼアちゃん、ソキのお歌がすきすきなんです」

「……それ、ロゼアくんに確かめても、いい?」

「んん? いいですけどぉ」

 胸騒ぎのまま立ち上がるリトリアに、ソキは不満げにくちびるをとがらせ、足をふらふら動かした。

「ロゼアちゃんたらぁ、今日は夕ご飯の前までずぅっと授業です……。だから、まだまだお帰りにならないです。こんなに長くソキをほうちするだなんて、いけないことです。ロゼアちゃんたら、ろぜあちゃんたらぁ……!」

「え、ええと……ソキちゃんは、授業は?」

 授業が詰まっているなら、その間の移動時間、ちょっとした休憩時間で捕まえられはしないだろうか。

 なぜか全生徒の予定を完璧に把握している、というまことしやかな噂がある寮長を捕まえて訪ねようと思いつつ、リトリアは横に置いておいたアスルを膝の上に乗せ、もにもにと弄んでいるソキに問いかけた。

 学園に入学して、一年とすこし。成長の、せ、の文字がうっすらともしかして見えている、かもしれない、くらいの前進しかしていない魔術師のたまごは、ぷっくぷぷぅーっと思い切り頬を膨らませ、とがった声で抗議した。

「じゅぎょー、きんしれい、というのがだされたです……。ゆゆしきことです……」

「え?」

「ソキね、なんだかね、なんだか……」

 続く言葉を聞いて、リトリアは即座に身を翻して走り出した。本当は保健室から戻ってくるレディを待たなければ、規約上移動してはいけないのだが、立ち寄る時間すら惜しく気がはやる。

 あわい声で、ソキは確かにこう言った。魔術を使うと『本』になにか書かれている気がするです。『本』とは予知魔術師の武器であり、もうひとつの己でもある。調べてみてもなにがある訳ではなく、原因は究明中、とのことなのだが。

 リトリアはその意味を知っていた。この世でリトリアだけが、その意味を知り。口に出せない制約を負っている。

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