ひとりの。別々の夜。 55
暗闇に光が滲んでいた。どうやら朝焼けのようだ、と気が付いたのは、ぼんやりそれを眺めた数秒後のこと。王の執務室へ続く渡り廊下の一つ。砂漠の端と街並みが見える窓の前で立ち止まりながら、フィオーレはあくびをかみ殺した。
ここの所は砂漠に詰めてばかりで、その上に多忙が重なり、少々気が滅入っている。久しぶりに徹夜なんてものをしてしまったので、体温はやや低く、頭の動きも鈍いままだった。
一度寝て早起きすればいいと分かっていても、読み始めた文献を辿るのに気が急いてしまって、眠りを遠ざけたのは己自身の判断だった。誰を怨む訳にもいかないことなので、怒りに似た感情は胸の中でぐるりと渦を巻くばかりだ。
ため息を、ひとつ落とす。
今日の予定を思い起こしながら歩を進めると、視界を硝子の欠片に似たきらめきがよぎっていく。魔力だ。眉を寄せて立ち止り、フィオーレはまだほのあかりを抱くばかりの、静まり返った廊下を見回した。
早朝というにも早い時間のことであるが、王城では動き回る者がある。けれどもそれらの気配は遥か遠く、見える範囲には人影もない。魔術師の姿も、ない。それなのに魔力の欠片は、昇り始めた朝日を乱反射するように空を漂っていた。
すこし前からのことだった。いつからか、正確な期日を誰も覚えていない、ある日から。砂漠には魔力が零れるようになった。それは通常、魔術師の目にも見える形で、世界にあることはない。魔術を行使した名残で、香るようにくゆることはあれど、なにもない場所に埃のように現れるものではないのだ。
それなのに、そこに魔力の欠片はきらめいていた。多くはない。けれども、無い筈のものが、あった。
おかげでフィオーレはその現象が落ち着くまで、砂漠から他国へ渡ることを禁じられている。上に、珍しくも城に戻ってきていた魔術師筆頭、ジェイドが原因究明の為に国の端々へ飛び歩く生活を再開させた為に、王の機嫌が底抜けに悪いのだった。
通常状態としてさほど王の傍にいないのが常の筆頭であるので、城にある魔術師たちとしては、さして問題とも思わないのだが。王としては大問題であったらしい。フィオーレと目が合うと舌打ちしてくるのが最近の常である。
八つ当たり対象として完璧に定められている、ともいう。ちょっと誰か変わってよ、とも思うのだが、同僚たちはお前魔法使いだろやれよ、と意味の分からない理由でもってフィオーレにそれを押しつけてくるので、逃げ場がないのだった。他国へ行くことは五王の意思のもと、禁じられているのだし。
底抜けに深い息を吐いて、フィオーレは魔力の欠片から視線を外し、廊下をまっすぐに歩きだした。まぶたの裏にこびりつくきらめき。零れ落ちる魔力は、砂漠の色。『花嫁』の髪に宿るもっともうつくしい、透明できよらかな、砂の色をしていた。
朝からロゼアの手によって丹念に揉み洗いされたアスルからは、柑橘系の石鹸の匂いがした。洗濯場から部屋へ戻ってくる間に、乾かしてくれたのだろう。
ロゼアの魔力をほわりと帯びたアスルのタオル地は、ほわんほわんのふわふわで、柔らかくて、昨晩までのごわついた感じはちっともしなくなっていた。
くちびるを尖らせて両手でアスルを受け取り、ソキはもふもふくしくし、頬をすりつけてしょんぼりとする。
「あするが、ぽわぽわで気持ちよくなったぁ、です……。よかったねぇ、あする……」
しかし、起きたらソキはまだいっぱい、アスルにちゅうするつもりだったのである。ぽわぽわでぷわぷわの、抱き心地もっちりの気持ちいいアスルでは、もうロゼアのちゅうも洗い流されてしまっているに違いない。
心の底からちからいっぱいがっかりしながら、ソキはぷー、と頬をふくらませて、くちびるを尖らせて、不満げな目をしながらも、ロゼアをちらりと見上げてお礼を言った。
「ありがとーございますです……ロゼアちゃん、なんでソキがおやすみの間に洗っちゃったですか……」
「ん? 洗ってくるよって言ったろ?」
「……言ったぁ? です?」
眉を寄せてむくれるソキの前に膝をつき、ロゼアは微笑みながら言っただろ、と囁く。ううん、と考えて思い出そうとするソキの頬を、ロゼアの指先がするりと撫でた。
僅かに汗ばむ首筋を撫でて、耳をくすぐり、額にてのひらが押しあてられる。はう、と息を吐いて思わず目を閉じたソキの頬を、ロゼアの指先が悪戯に、ふにふにと突っついて笑った。
「言ったよ。ソキ。うん、って言ったろ?」
「ふゃん、やん、やん。やん。ロゼアちゃんがソキのほっぺをつっついてくるぅー……!」
「今日は起きられる? 起きているなら、お着替えしような、ソキ」
むにーっとソキの頬を、撫でると潰すの中間くらいにもてあそぶロゼアの腕に、ソキははっしと指先をひっかけて。
ぐいーっと引っ張り、ソキはふすんふすんと鼻を鳴らしながら、あーんっ、と口を大きく開けた。
かじったのだと言う。おしおきー、というやつですっ、とやたら自慢げに椅子の上でふんぞりかえるソキに、メーシャは口元を手で押さえ、呼吸困難気味に肩を震わせ続けていた。
なにせ自慢してくる間もソキはロゼアの膝上にちょこっと座っているのだし、どうにも気が治まっていないらしく、んもぉんもぉ、とむくれては引き寄せたままの指先をはむはむかみっ、としているからだ。
ロゼアは平常通り、よりは緩んだ笑みで、代わりに朝食持ってくるよなにがいい、と問うナリアンと会話していた。
もう片方の手でゆっくりと、そっとソキの髪を撫で続けているので、慰め宥める気がない訳ではなさそうだが、積極的に落ち着かせたり、咎める素振りもないようだった。
かぷかぷかぷかぷぷっ、んぺっ、と指を舌先で押し出して、ソキはふふふんっ、と胸を張る。
「ろぜあちゃん? 痛いです? はんせーしたぁ?」
「んー……? ソキ、おなかすいたろ? 朝ごはん食べような。いま、ナリアンが持ってきてくれるから」
「痛く、な、いんだ……? ロゼア」
あれ、あれ、といまひとつ納得しきれない表情でソキがくちびるを尖らせている。
そんなにしたらいけないだろ、とソキの口元を手で押さえて撫でながら、ロゼアは呼吸困難から回復しきらず、肩を大きく上下させているメーシャに、こくりとばかり頷いた。
「くすぐったい。ソキかわいい」
「ふと思ったんだけど、かわいくないと思うソキっていうのは、ロゼアにあるの?」
「ソキはいつもかわいいよ」
きっぱりとした声で言い切って、ロゼアはぱぁっと頬を朱に染め、膝上でしきりにもじもじするソキを抱き直した。手を濡れた布で拭って清めた後、ぎゅぅ、と強めに抱きしめて体を密着させる。
しばらくくっつかせていると、はふー、と満足げな息がソキから零れて、ロゼアにすりすりと体が擦りつけられた。機嫌が良くなったらしい。朝から起きているソキを腕いっぱいに堪能しつつ、ロゼアはいたって不思議そうな目でメーシャをみた。
「どうしたんだよ、メーシャ」
「おなかいっぱいってこういうことを言うのかなぁって。ソキが起きられるようになってよかったね、ロゼア。なんだかずっと眠ってたもんね。ソキ、もう大丈夫なの? 今日は眠くない?」
ロゼアは。言葉になにか引っかかりを感じたような顔をしたが、ソキが自慢げに今日からは起きていられる気がするですよ、と言うので、メーシャになにか問いが向けられることはなかった。
思案しながら、ちいさく、そんなに眠ってたかな、と零された呟きを、ソキだけが聞きとめる。日付を見ると、ソキはかれこれ一週間以上、十日近く冬眠もどきをしていた計算になるのだが。
ロゼアにしてみれば、ささいな日数であったのかも知れない。胸をざわつかせる嫌な予感を、聞き出して正すことなく。ソキはそうひとりで思い込んで、納得してしまうことにした。
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