ひとりの。別々の夜。 60


 仰向けになって教本を読むロゼアの胸に、よじよじよじ、と乗っかって、ソキはねえねえ、と不満げに頬をくっつけすりよせた。

「ろぜあちゃん? なにしてるの?」

「ん? 明日の予習だよ」

 明日の座学の教科書、とゆったりとした口調で囁きかけてくるロゼアに、ソキはぷっと頬を膨らませて頷いた。ロゼアの持っている教本には『黒魔術師基礎教本:参』と書かれている。

 寝台の枕元。置かれた灯篭の火に赤々と照らされる、眠る前の時間。談話室の喧騒は部屋までは届かないから、どこもかしこもしんとして、眠るのを待ちわびているようだった。

 ロゼアは教本にしおりを挟んで閉じ、ソキの言葉の続きを待っている。んもおおお、と若干機嫌を損ねた声で頬をくしくしすりつけて、ソキはロゼアの上でちたちたと手足を動かした。

「ロゼアちゃん! なにしてるのぉ……!」

「よーしゅーうー」

「いやぁあん! ソキはかまって欲しいですうう! 今日はロゼアちゃんに置いて行かれっぱなしでひどいことをされたです……! ロゼアちゃんは今日はもうソキの! ソキのぉ……! ソキのなんです、授業の予習のロゼアちゃんじゃなくて、ソキのロゼアちゃんです……!」

 その後、三回は繰り返された『ロゼアちゃんはソキの!』と『ロゼアちゃんは今日はもうソキの!』を酔いしれるように聞き、ロゼアはうっとりとした笑みで、閉じた教本を灯篭から離れた場所に置いた。

 すっかり機嫌を悪くしたソキを抱き寄せ、髪に指を差し入れてゆっくりと空いて行く。ソキ、ソキ。耳元に唇を寄せ、幸福に笑うよう囁けば、すぐにふしゅりと膨れた怒りが抜けていく。

 指先に頭をぐりぐり擦りつけながら、ソキはろぜあちゃーん、とふにゃふにゃした声で囁いた。

「そういえばね、今日ね、リトリアちゃんが来たんですよ。知ってる? ……あ、あっ! ロゼアちゃんに会いに行くって言ってたですからぁ、会ったです?」

「リトリアさんが? 俺に? ……行き違いかな。何時くらい?」

「えっと、えっと……お昼の後で、おやつの前です」

 指を折って首を傾げながら考えるソキは、あまり時計を見る習慣がないから正確には分からないのだろう。いくつか質問を重ねて時間を絞り込んだロゼアは、実技の連続授業の時かな、と呟き、申し訳なさそうに眉を寄せた。

「会わなかったな……。リトリアさん、なんて? 俺に用事?」

「んと。ロゼアちゃん、ソキのお歌すきすき? かわいい?」

「ソキはいつでもかわいいよ」

 ぎゅむっとばかり抱きしめられて、ソキはきゃあぁあんっと蕩ける声でちたちたしながら喜んだ。ぽん、ぽん、とロゼアの手が背を撫でていく。すぐに眠たくなってしまって、ソキはロゼアの上に乗っかったまま、子猫のようなあくびをした。

「ねむたいです……ロゼアちゃんが重くてつぶれちゃうかもです……。ソキ、横にころってする」

「つぶれないよ。眠ろうな、ソキ。おやすみ」

 良い夢を、と囁かれ、ソキはもう一度ふあふあとあくびをした。ロゼアの体温に体をくっつけ、目を閉じる。その熱に触れていれば、なんの不安もなく。守られているのだ、と信じられた。




 無自覚、あるいは自覚的に施してしまった予知魔術。時に洗脳とすら呼ばれるそれを解くすべを探すため、リトリアは『学園』から戻ってこの方、ひたすら図書館にこもり続けていた。

 予知魔術に関しての文献は、数が限られている。リトリアが両腕いっぱいに本を抱えて、机まで三往復もすれば、それが楽音の国に現存する資料の全てだ。熟読する優先順位を、リトリアはためらわずに魔術でつけた。

 重要だと思われる資料があるものに赤、情報として繋がっていくものがあれば黄、今はとりあえず放っておいていいものは青。審議判定の炎を応用したそれは薄暗い図書館の片隅で燃え上がり、揺れ、誰の目に留まることなく消えていく。

 リトリアは通常、己の所属する国内で監視されている訳ではない。だから、ちょっと姿を隠そうとして行動する時に、それを難しいと思ったことは一度もなかった。

 役目を与えられないでいる鳥籠の自由が、リトリアの助けになった。二日目、三日目になっても、図書館へ通って一日そこへいるリトリアのことを、不審だと思う者はなく。

 また、リトリアはそう思われないように、予知魔術で意図的に同僚たちや、城の者の意識を一定方向に操作していた。

 大規模魔術の長時間の発動は、なによりリトリアの魔力と精神を削ったが、いけないことをしていると理解していて、なお行使するだけの焦りが、予知魔術師の心身を蝕んでいた。

 人の心を魔術的に操作してしまえば、それが長期に渡れば渡るほど、解除が難しくなり、そして影響が残ってしまう。なんの影響も残さず、魔術でなんらかの操作を出来る限界時間は、百時間と言われている。

 魔術を持たぬ者にそれを行使すれば、百時間で精神が砕け、廃人と化す。相手が魔術師であれば、百時間を超えた所で精神が不安定になり、解除したとしても回復には時間がかかる。

 投薬は回復の助けにならず、時間の経過だけが魔術師の安定を助ける唯一のものとなるのだ。

 唯一の例外が、五国の王だ。この、砕けた欠片の世界に残された王族たちは、それぞれに世界からの絶対的な祝福を帯びている。

 生まれながらにして。それはいかなる場合であっても変質することはなく、己の意思で受け入れた、という一点を除き、この世のありとあらゆる呪い、魔力を帯びたそれすら跳ね返す異質の祝福である。

 だからこそ魔力を持たなくとも、それがなんらかの形で動いていることだけは、王は感知できるのであり。城の者たちの意識をする魔術発動から、九十二時間が経過して、リトリアは己の王に命令という形で呼び出された。

 発動してすぐ、王はリトリアの命令を無視した無断発動の気配を察知していた筈である。すぐに咎めて当たり前の行為を、限界近くまで待ってくれたことこそ、慈悲に他ならない。

 だからリトリアには、それを請うつもりはなかった。

 呼び出された部屋には、王ひとりしか姿がなかった。隣室に魔術師や護衛の待機があるのかも知れないが、扉を隔てた廊下ですら、人払いがしてあるのか誰の姿を見つけることもできなかった。

 後ろ手に扉を閉めて背を正すリトリアのことを、王は普段通りの微笑で、それでいて困ったように見つめてから、その名を口に乗せて呼んだ。

「終わりにできますね?」

 なぜ、と問うこともせず。行いを、咎めることもなく。ひとに影響が出ることが分かっているのだから、やめなさい、とだけ求めてくる王を、リトリアは静かなまなざしで見つめ返した。

 文献を読み返すうち、文章がすりきれるくらい頭の中へ叩き込み、情報を折り重ねていくうちに、分かったことがある。それはリトリアの、失われた筈の記憶だった。幻のようにふわりと現れ、胸の痛みと混乱と共にまた擦り切れ、消えていく。

 憧れに似た感情だけが、心の奥底に残っている。リトリアは息を吸い込んだ。予知魔術師として生きていく為に封じ込まれたそれを、リトリアが忘れているそれを、この目の前に立つ主君、王たるひとは覚えている筈だった。

「終わりにします。もう、だいたいの用は済んだから」

 だからね、と甘えるまなざしで、リトリアは王へ言い放った。

「私、シークさんかフィオーレに会いに行かなくては」

「リトリア? なにを」

「駄目なんです、陛下。私だけでは、どうすることもできない。私ひとりの力では……」

 とん、とリトリアはごく自然に、足先を動かして靴底で床を打ち鳴らした。その仕草ひとつで、城全体に広がっていた魔術が消え失せ。代わりに、リトリアの足元に、ふつふつと湧き出づるようにきらめきの水面が広がっていく。

 零れ落ちる魔力の水面。するすると咲き乱れていく硝子質の水連。予知魔術発動の証。

「でも、きっとみんな私の邪魔をするから」

『イイコだネ、リトリアちゃん』

 くすくすくす、と笑い声。展開される魔力に混じって、異質な歪みが空間を支配した。王に向けられるリトリアのまなざしは、いつの間にか正気と、操られる者の境を行き来している。

 予知魔術に、言葉魔術師の魔力を上乗せして。リトリアは、世界に愛をぶちまけるように。

「私、ふたりに会いに行ってきますね」

 予知魔術を解き放った。




 砂漠への『扉』は、閉ざされている。楽音が魔術的な眠りから覚めた数時間後にそれは確認され、同時に、城から馬が一頭居なくなっているのも確認された。

 リトリアも、忽然と姿を消し、部屋からは旅に必要な道具がいくつも無くなっていたのだという。

 手配までの猶予は二十四時間。必死の探索にも関わらず、リトリアは魔術探査の目すらすり抜け。忽然と、世界から姿を消した。そして、数日の迷いの末、王から魔術師に、ひとつの命令が下される。




 予知魔術師、リトリア。

 五王に反逆の意思ありとして、発見次第捕縛せよ。

 抵抗の際、その生死は問わず。




 リトリアは。砂漠を目指して、旅をしている。


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