ひとりの。別々の夜。 43


 胸元にそっと触れていた指先が、離れて行く。その指先に連れて行かれるような気持ちで、ソキは満ちた息を吐き出した。

 視線が手に触れたまま、離れて行かないことに気がついたのだろう。考えるように指を口元へ引き寄せながら、ウィッシュは蝶の羽ばたきのように瞬きをした。

「ソキ? なに、どうしたの……? 俺の手、なにかある?」

 うぅん、色付けてもらったりはしてないんだけどなぁ磨いてもらったけどえへへ、と嬉しそうに照れながらはにかむウィッシュに、ソキはまだ指から視線を外さないまま、はふ、と息を吐きだした。

「おにいちゃん。とぉっても綺麗になったです……! とってもです。すっごくです」

「そう? ソキは今日も可愛いよ。思ったより体調が悪くなさそうというか、状態が安定しすぎててびっくりしたけど……ソキ? ほんとに、もう一回、よーく考えて、俺に教えて? ほんとにちゃんと魔力使えたの? ほんとに、ソキが自分で、ばーんてして、どーんてして、ぴょってして、えい! ってしたの? 気持ち悪くなったりしたよな? 体痛かったろ? ほらー、ソキー、いいこだからさー。俺にちゃんと教えてよー」

「あ! たいへん、たいへんです! おにいちゃんがこんなにお綺麗だと、ロゼアちゃんが見惚れちゃうかも知れません! うっとりしちゃうにちぁいないです……! やぁんやんやん! やんやん! ロゼアちゃん、うっとりしちゃだめだめぇっ……! ロゼアちゃんのかわいいはソキのぉ!」

 大慌てで、ソキはロゼアの目元にちまこい手を伸ばした。目隠しです、これは急がないと大変なことになるです、とおろおろするソキを、うん、と不思議そうな顔をしたロゼアがゆすって抱きなおす。

 きゃぁん、きゃんっ、とはしゃいでくっつきなおすソキの背を、ロゼアの手が慣れた仕草でぽん、と撫でた。ソキの頭にロゼアの頬がくっついて、ぬくもりと体重がかけられる。

「ソキかわいい。……はー、可愛い。可愛い、可愛い、俺のお花さん」

「お前ら誰も会話通じ合ってねぇよと思うのはこの場で俺だけなのか……? 俺だけなんだろうな……」

「寮長? 頭痛い? もー、だから、まだ寝てなきゃだめだよって俺言ったのにー。ロリエスに迎えに来てもらおうね? 俺、連絡しておくからね」

 それとも俺と一緒にすぐ寝室戻る、と首を傾げて問うウィッシュに、お前お願いだから言葉を選べよと呻き、寮長は額に手を押し当てた。それをきっかけにしたように、ソキの耳に談話室のざわめきが戻る。

 ぎゅむりとやや抱きつぶされたロゼアの腕の中から、ソキはきょろきょろと視線を彷徨わせ、室内を見回した。

 魔術師のたまごたちは、すっかり平常通りである。この場所で見かけるにしては、講師たる王宮魔術師の数が多いような気もするが、特に異変と思わないくらい、一時と比べれば数は減っていた。

 顔色がひどく悪いものもなく、ソファの上で疲弊している寮長を覗けば、『学園』は平均的な雰囲気を取り戻したように思えた。

 見慣れた光景ともうひとつ違うものがあるとすれば、天井近くをふわふわと行き来する妖精の数だろうか。通年、妖精たちが住まいである花園を離れ、『学園』までやってくることはひどく珍しい。

 来訪が禁じられている訳ではない。ただ、妖精たちは『学園』をたまごたちの住まい、彼らの領域であると思っているから、そこへずかずかと踏み込んで行く真似をしないだけである。

 鍵の開いていない家に、勝手に入って行くのに似た気持ちであるという。

 一応は共用とされている公共の場は、自分のものではないから踏み込むのにためらいがある。ソキを案内した妖精は、赤いリボンをひらつかせ、腕組みをしながらソキにそう説明してくれた。

 妖精たちは領域というものをひどく大事にするいきものだ。縄張り意識が強いのよ、と妖精はきっぱりとした口調で言っていた。ただし、普段であるならば。脅かされず、世界が平常であるならば。

 他者の、開かれた場所まではあまり行くことがないのだと。つまり天井近くを行き交う妖精たちは、ここまで見回りに来てくれているのである。

 猫さんもなわばりー、をお散歩へ行くです、ソキはちゃぁんと知ってるです、と説明に頷いてアレと一緒にすんなと頬を蹴られたことを思い出し、くちびるを尖らせながら、ソキは両腕を高く持ち上げた。

 妖精たちの中に、見覚えのある姿を見つけ出したからである。

「ルノンくんですー。ルノンくん、ルノンくん? ……あれ? ソキがお呼びしてるのに、ルノンくんが降りて来てくれないです? なんで? あれ? ……ルノンくんー、るーのーんーくーんー? ソキがぁ、呼んでるですよ? あれ? ねえねえ、ねえ、ねえ」

 呼んでるのに、ソキが呼んでるですのに、とくちびるを尖らせて頬をぷっとさせながらちたぱたするソキに、妖精は苦笑いし、次第に絆されたように表情を崩して行った。

 くすくす、肩を震わせながら高度を低くしてきた妖精は、すふんっ、と自慢げに鼻を鳴らし、両手を差し出すソキのてのひらへ降り立った。

『はいはい。ルノンくんが来ましたよ。どうしたんだ?』

「リボンちゃんは?」

『うん。絶対そういう用事だとは思ってたんだけどな?』

 分かりやすくて歪みなくってかわいい、とばかりにっこり笑って、ルノンは別にいつでも一緒にいる訳じゃないし、と透き通る金の羽根をぱたつかせた。

『朝から見てない。用事があるなら探すけど』

「ぷー。ソキ、リボンちゃんにお聞きしたいことがあったです……あ、でもでもぉ? ルノンくんでも分かるです?」

 その瞬間に。嫌な予感を覚えたのは、恐らく本能に違いない。いや俺ちょっと用事があったから、と飛び立とうとするルノンにきゅむりと眉を寄せ、ソキはいやいや、むずがるように体を揺すって問いかけた。

「ソキ、一年前と比べてどれくらい成長したです?」

『えっ。えっ……え、えぇ、え? ……い……一ミリ、くらい……?』

「身長じゃないですううぅ! 魔力ですううううっ!」

 ふぎゃあぁあんっ、と癇癪を起してばたばたするソキからぱっと離れて飛び立ち、ルノンは苦笑いをして腕組みをした。まさか成長してません、とも言えず。それ所か、安定的には後退している、とも告げにくかった。

 ソキの担当教員がすぐ傍にいることでもあるのだし。機嫌を損ねてじたじたするソキに、あれなに怒ってんの、とようやく意識を戻したのだろう。

 寮長にぺたぺた触って熱や体調を推しはかっていたウィッシュが、ルノンに気がついてごめんなー、と言った。

「ソキ、気が短いからさー。こら、ソキ。なにがあったか分からないけど、そんなにすぐ怒ったらだめだろ? なー、ロゼア」

「んー……」

 もう行っていいよ、ほんとにごめんな、と見送られるルノンに、目礼を送りながら。ロゼアは膝の上でもぞもぞばたばた暴れるソキを抱きなおし、ぽん、ぽん、と背を撫でた。

 ふしゅ、とふくらまされたソキの頬から、空気が抜ける。ん、ぷぷぷぅ、とまたも膨らまされたので、ロゼアはあまやかな声でソキの名を呼び、まあるい頬を指の腹でするすると撫で擦った。

 ふしゅー、と頬から空気が抜ける。んん、と上目づかいにロゼアを見上げて、ソキはぷっ、と頬をふくらませた。そーき、と笑いながら、ロゼアが頬をてのひらでうりうりと撫でる。きゃぁぅ、と身をよじって、ソキは笑った。

 ぷぅ、ぷー、と緩む頬をけんめいに膨らませているのを肘をついて眺め、寮長が白い目で呟く。

「アイツ絶対、すぐ怒るソキかわいいとか思ってるぞ……もしくはすぐ機嫌なおるソキかわいいとかだぞロゼアほんとまじ」

「もー。じゃあ、寮長に聞こうかな。寮長? ソキが帰ってきた時って、体調どんな感じだった?」

「ウィッシュもお前ほんとにな……ほんとに、じゃあ、からの言葉を一致させろよっていうかな……お前らいいからもうすこし人の話というか会話の流れを叩き折り叩き折りしながら進んで行くのやめろよっつーかな……。ソキの体調ならロゼアに聞くのが一番だろ? 俺の目から見ても悪そうではあったが……魔力的なことか?」

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