ひとりの。別々の夜。 42


「ロリせんせい、こんにちは、です。……たいへんです、お服のみだれがあるです」

「ああ。荒縄には苦労させられたよ……」

「……おつかれさまです、ロリエス先生」

 おおまじめな顔で頬を赤らめ、きゃぁんと照れたソキとは対照的に。ロゼアは非礼にならない程度の同情的な視線で、ロリエスに心から囁きかけた。

 花舞の黒魔術師たるロリエスは疲れ切った苦笑で、ああ、とだけ言い、廊下をぱたぱたと動きまわる狂宴部の者たちを、好意的な視線でひと撫でした。シル、という男が好かれていることを、ひそかに喜ぶ仕草だった。

「見舞いに来てくれたんだろう? 眠っていて悪いが、顔を見て行くといい。来てくれたことは伝えよう。起きた時に喜ぶ」

「……おつかれなの?」

「ソキのせいではないよ。己の限界、というものはよくよく弁えておくものだ。一人前だと自負するならね」

 さ、おいで、と招くロリエスに頷き、ロゼアは一歩を踏み出した。




 室内は一般的な寮生と変わるものがなかった。特別に広すぎることはなく、目に見えて高価な品々がある訳ではない。使い古された印象の棚に収められているのは魔術書が大半で、それも真新しいものはひとつとして見つけられない。

 まるで勤勉な魔術師の住まい、そのものだった。妙なものがあるとすれば、部屋の隅に投げ捨てられた荒縄くらいのものだろうか。ロリエスが勧める一人掛けのソファにロゼアが腰かけると、教員は書き物机の椅子を引き寄せて座った。

 訪問者を想定していない、もののない部屋だった。ロゼアの部屋のように、天井から下げた布で空間を区切ってもいないので、殊更がらんとした広がりばかりがある、もの寂しい部屋だった。

 ソキはロゼアの腕の中でもちゃもちゃと方向を変えて座り直し、部屋の中をひと通り見回した。ぎゅっと抱きしめてくる腕をお腹の上に抱えながら、ソキはちょっとくちびるを尖らせ、ロリエスの背後を見ようとする。

「ロリせんせい? 寮長はおねむなんですか?」

「睡眠薬に愛された男だからな。あと四時間は起きないさ」

「……寮長は倒れかけた、です?」

 だからお薬で眠らせたに違いないです、と目をうるませるソキから、男が眠る姿はちっとも見えなかった。ちょうどソファと寝台の間にロリエスは椅子を置いていて、ソキが右に体を揺らしても、左によじっても、なぜだか全然見えないのである。

 部屋には深い、安定的な寝息だけが響いている。そこにある気配だけが、ソキに寮長の存在を教えてくれていた。むむむ、と眉を寄せるソキにおかしげに笑い、ロリエスは柔らかく瞳を和ませた。

「シルが薬で眠っているのは、体調のせいではないよ。魔術師には時々あることだ。幸い、例は多くないだけで」

「眠れない、ということですか? なにかの助けなければ?」

「毎日、必ず、そうという訳ではないよ、ロゼア。ただ、月の満ち欠けのように周期的なものでね。悪いことに、一連の騒ぎと、その周期が重なってしまった……のを良いことに、この男がまあ好んで眠りを抱かなかったと、ただそういうことだ。眠らない数時間の積み重ねで、そう好転する事態もないというのは、分かっていた筈なのだけれどね……。心配するのは個人の情。それを飼い慣らしてこその魔術師。だから……いつまで経っても卒業できないのかも知れないな、シルは。すこしばかり他人に腕を広げ過ぎる」

 微笑むロリエスの纏う空気は、どこかひんやりとしたものだった。己という存在を酷使した寮長に対して、どうも怒っているらしい。ソキは諦めずに右にもぞもぞ、左にうにうに動きながら、くちびるを尖らせてロゼアを見上げる。

「ロゼアちゃん? ソキ、お見舞いに来たんですよ? みーえーなーいー、でーすーぅー」

「うん? 大丈夫。寮長はよく眠ってるよ、ソキ。顔色も悪すぎる訳じゃないし、明日もゆっくりすれば起きられるんじゃないかな」

「んー……。はやぁーく、げんきー、にー。なぁります、よーうーにー。ですー。」

 ほんわほんわふわふわした声で歌って、ソキはこれでよしっ、と言わんばかり、ロゼアの腕の中でふんぞりかえった。

「ソキ、とっておきのお見舞いの歌をしてあげたです。寮長はすぐ元気になるです。本当はおててをぎゅぅってしてするですけど、お眠りなんじゃ仕方がないです。でもソキはちゃんとお見舞いの歌をしたです」

「……ソキは偉いな」

「なるほど。これがナリアンの言っていた不本意そうなロゼアか」

 口元に手をあてて笑いに震えながら、ロリエスは椅子から立ち上がった。微笑んでロゼアも同じようにして、体が部屋の出口へと向かう。

 ところでナリアンは先生となにを話しているのか今度詳しくお聞きしても、なに、俺の友人が今日もかわいかったとそういう惚気さ、と意識の外を滑って行く音を聞きながら、ソキはんーっとけんめいに体を伸ばして寝台を覗き見た。

 ほんのわずか、見えた寮長は静かに眠っているようだった。ふふん、これで寮長は明日は絶対元気です、と胸を張るソキの前で、ぱたんと扉が閉じられた。




 明日行くから準備しておいてねー、ロゼアが一緒でもいいよー、というのほほんとした様子の手紙を丁寧に折り直し、ソキはそれをロゼアに差し出した。

 寝台の上。背と寝台の間にクッションをいくつも入れて持たれていたロゼアの胸に、ソキはぴとっとくっつきなおして頬をすりつける。

「はうー……ロゼアちゃん、明日ご一緒してくれる? ソキは一緒なのがいいです」

「ん? ……うん。いいよ。ウィッシュさまが来られるの? どうして?」

「面談? です? ……ソキはなんだか、いろんな人に面談をされてるぅ……ソキが悪いこだからです?」

 むーっとくちびるを尖らせて問いかけると、ロゼアは渡された手紙を丁寧に枕元に置き、ソキの髪に指をさしいれた。視線が重ねられる。頭肌と耳に触れながら、ロゼアの指がゆっくりと、ソキの髪を梳いて撫でて行く。

「そんなことないよ。ソキはいいこだよ。可愛いよ。……どうしてそう、思うの?」

「……たくさん迷惑をかけたです。いろんな人にごめんなさい、をしたです。反省札もついてるです」

 ようやく『学園』運営管理部から特製一ヶ月反省札が届いたよー、と。ソキは寮長のお見まいからロゼアの部屋まで戻ってくる道すがら、ついにそれをつけられてしまったのだ。

 紙や木の札ではなく、しゃぼん玉のような丸い魔力の塊が、ソキの肩近くをふよふよと漂っている。ロゼアはそれを指先で弾いて一定距離まで離し、ソキの肩をくるむように薄布を引きあげた。

 ぎゅ、と抱き締られ、耳元で声が囁く。

「謝ったろ、ソキは。反省も、ちゃんとできただろ。なら、悪くないよ」

「ほんとう?」

「もちろん。魔力の使い方だって、ソキはこれから、うんと上手になるよ」

 単に励ますのではなく。それにしては、どこか確信的な言い方だった。ソキは視線を持ち上げて目をぱちぱちさせた後、ロゼアの肩に頬をすりつけるよう首を傾げて、ふあふあと問いかける。

「ソキ、上手になう……? ほんとう?」

「なるよ。なる。……すぐ、出来るようになるよ」

「ふにゃぁ、うにゃぁあん……! ロゼアちゃんがそういうなら、ソキは、きっとすぐ、すぐです! 一人前の、魔術師さん、に、なるぅ……!」

 はしゃいでぎゅっと抱きついて、ソキはすぐですよ、と言った。ロゼアちゃんがすぐって言ったです。すぐです。ソキは一人前になるです。すぐですよ。ねえねえ、だからね、ロゼアちゃん。

 待っていてね。もうすこしだけ、待っていてね。ソキはちゃんと一人前になるです。訴えるソキの頭を引き寄せ、髪に息を吹き込むように笑って。ロゼアは、それに、うん、と言った。

「頑張ろうな」

『……楽しみダね?』

 肌からじわじわ染み込み循環する魔力の奥底で、嘲笑うように響く声を。ソキは怖くて、気のせいだ、と思いこむことにした。ロゼアから与えられる魔力は蜂蜜のように甘く、どろりと、喉にからみ。息を苦しく、眩暈を覚えさせた。

 それは透明な水ではなく、薬を混ぜられたものであるような。混ざりものの胸騒ぎを、ソキに覚えさせたのだけれど。

 ソキ、ソキ、と囁くロゼアから染みいる魔力は、いつのまにかふわりと包みこみ、抱き守り、気持ちを穏やかにするだけの、うっとりとした喜びを感じさせるだけのものになっていたので。

 それは、やっぱり、気のせいなのだと。ソキはそう、思った。

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