学園生活二年目編

ひとりの。別々の夜。

ひとりの。別々の夜。 01


 ひかりの降り注ぐ音がしている。朝の。なにものにも触れずまっすぐに、清らかに、天から降りてくる朝のひかりの。風と目を合わせて笑いあう、衣擦れにも似た音がしている。とても静かだった。

 静かすぎて、ソキはうとうとと目を覚ました。ん、ん、と呻いても触れてくれるてのひらがない。ゆめうつつに、ほんのすこし前、朝の運動へ行くロゼアを見送ったことを思い出し、ソキは心の底からガッカリした。

 帰ってくるまでには時間がある。もう一度眠ってしまおうと瞼を下ろしたのに、窓の外、広がる森の葉から溶けた雫がぽたりと落ちる音さえ聞こえてしまいそうな静けさに、ソキは機嫌を損ねた顔でもぞもぞもぞ、と寝台に体を起こした。

 どうして早く起きてしまったのか分からない。きっと静かすぎるのがいけないです、と思いかけ、ソキはくちびるにきゅぅと力をこめて俯いた。ちがう。理由があるとしたら、もっと別のことだった。

 すこしだって離れたくない、と全身が訴えている。ロゼアから。もうほんのすこしだってひとりにされたくない。ソキをおいてどこかへ行ってしまうかも知れない。帰って来ないかも知れない。

 出かけた先でとっても可愛い女の子に出会って、ソキよりもずっと好きになってしまうかも知れない。そうしたらもうソキは、ロゼアをしあわせにするおんなのこには、なれないのだ。

 目をうるませて何度もまばたきをして、ソキは心を押しつぶしそうになる不安を、懸命に宥めすかした。両腕を伸ばしてアスルをぎゅぅと抱き締め、顔を埋めて息をしていると、だんだん不安がちいさくなっていくのを感じる。

 分かっているのに。そんな風にはならないと、心のどこかは、ほんのすこしだけ、分かっているのに。

 不安や、疑いや、恐怖が、毎日すこしずつ、どこからか染み込んで、どこからか降り積もってしまうのを感じていた。

「ソキはわるいこになちゃたかもです……こんなのはだめです……」

 ぐず、と鼻をすすって、ソキはアスルを抱いたまま、ころんと寝台に横になった。まだロゼアのぬくもりと残り香を宿す寝台に、ぎゅっと体を押しつけて目を閉じる。なんだかせつなくて、苦しくて、辛くて、胸の奥と指先がじんじんと痛む。

「ロゼアちゃん、ロゼアちゃん……。はやく帰ってきてくださいです……ソキをぎゅぅってして……」

 腕に力をこめて、両膝を折り曲げて、体をまぁるくする。

「……どうして、いっつも」

 旅の間幾度もそうして眠ったように。

「ソキをおいていくの……?」

 警戒と緊張に強張った瞼に、涙が滲む。すん、すん、と鼻を鳴らして、ソキはアスルに顔を埋め、頬をくしくしと擦り付けた。眠くないのに。ちっとも眠くないのに、いつのまにかソキの意識は眠りに抱かれ。

 次に気がついたのは、なぜか慌てた様子のロゼアがソキの体を毛布でくるみ、抱きあげてくれたその腕の中でのことだった。




 こふん、と咳が零れ落ちる。とっさに両手で口を押さえたソキは、そろそろ視線を持ち上げて、朝食の席を見渡した。オレンジジュースを幸せそうに飲んでいたメーシャと目が合い、にっこりと笑って手を振られる。

 ちまちま手を振り返して、ナリアンを見た。

 どう頑張って少なく見積もっても、ソキの五倍、ロゼアの二倍ちょっとくらいは量があった朝食を残り二口分くらいまで平らげていたナリアンは、無言で微笑み、蜂蜜の飴をころんと木盆の上に転がしてくれる。

 うぅ、と焦りながらロゼアを見上げようとすると、それより先に、伸びてきた手が額に触れた。額、頬、首筋と流れて行ったてのひらが離れると、難しく考え込んだロゼアの顔が見える。

 ロゼアが、今日もだめ、と部屋からの外出禁止令を告げる前に、ソキは慌てて口から両手を離してみせた。

「ロゼアちゃん、ソキ、元気ですよ。お熱ないです。えっと……えっと、えっと、咳は、きっと間違えて出ちゃっただけで……ん、ん……こふっ。……ちぁう、です。ち、が、う、で、す。ソキは、きっと、今、ちょっと、ちょっとですよ? ちょっぴり、間違えちゃた、だけ、です……!」

「ん? うん。そうだな。間違えちゃったんだよな」

「そうです。今日はね? おにぃ……んっとぉ、ウィッシュ先生が、ソキの授業をしに来る日! です! だからね、ソキは、とっても元気なんですよ? ご飯だって、いっぱい、食べたです。ほら、ほら、みてぇ……! ロゼアちゃん、ソキ、いーっぱい、ごはん、たべた!」

 ほら、ほら、とソキがロゼアの方へ押しやる木盆の上には、空になった食器ばかりが置かれていた。ちいさなふあふあはちみつ白パンと、ブロッコリーとニンジンの温野菜が一欠片ずつ、乗っていたお皿はなにも無くなっている。

 ロゼアからふたくち分、おすそわけしてもらったぶ厚い焼きベーコンのサイコロも、それを刺していたフォークが横になっているばかりだ。

 根野菜たっぷりのコンソメスープも、ソキの手がちょうど持ちやすい大きさのちんまりとした器によそったものであるのだが、綺麗に中身が無くなっている。

 んしょんしょ、これは今から食べるです、と決意の表情でソキが持ち直したのは、大好物のヨーグルトだった。

 季節の果物をごろごろ角切りにして贅沢に混ぜ込んだそれを、ソキはスプーンでちま、ちまっ、とすくいあげ、あむあむ懸命に食べている。おおおおお、とナリアンが驚きと感動が半々になった声で拳を握った。

「ソキちゃん、偉いね! 凄いね! いっぱい食べられるようになったんだね……!」

「あむ。ん、こくん! でっしょおおおお、でしょおおおおお? ソキ、今日は授業ですから、いっぱい食べて頑張るです。それでね、今日のソキは、いっぱい、いっぱい歩くんですよ? だからね、お部屋に帰ったらソキはメグちゃんのお靴をはきます。ソキはちゃぁんと決めてたです。ロゼアちゃんは、きっと、いいよ、って言うです。ソキにはちゃーんとお見通し! で、す、うー」

 機嫌良くはしゃぎながらそう言って、ソキはあむ、あむ、とヨーグルトを口にした。ソキを一心に見つめながら、ロゼアは難しい顔をして考え込んでいた。あむあむ、んく、とヨーグルトを頑張るソキをナリアンに任せ、メーシャが机越しに手を伸ばし、くい、とロゼアの服を引いた。

「ロゼア、どうしたの? ……不安そうな顔してる」

「……考えごと。ありがと、メーシャ」

「ちょっと咳は出てるけど、ソキは今日は元気じゃないかな。顔色いいよ。……そういう悩みじゃない? 違う、かな」

 ねえロゼア、とメーシャは囁いた。ロゼアがなにかを告げるより早く。落とされる筈だった言葉を、ふわりと包みこんでしまうようにして。拒絶ではなく、遮りでもなく。

 すこしだけ待って、俺の話を先に聞いて。そう願うように、メーシャはロゼアの目をまっすぐに見て告げた。

「なんでも話してよ、思ってること全部教えてよ、相談してよ、って言ってる訳じゃないよ。教えたくないことは言わないでいいんだ。俺だってそうしてる。言いたくないこと、たくさんあるよ。ロゼアだからじゃない。俺が、俺以外の人には言いたくない気持ちだから、ってこと。ロゼアもそれを大事にして欲しいんだ。相手が俺だから、とか。ナリアンだから、とか、思って、無理して言うことないよ。……でもね」

 抱え込んで寂しくなるのは。それだけは駄目だよ、ロゼア。空いたグラスを引き寄せ、とぽとぽオレンジジュースを注ぎ入れながら、メーシャはロゼアとソキを見比べ、にっこりと笑う。

「俺はいつか、ソキにわがまま言うロゼア、とかも見てみたいな」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る