ひとりの。別々の夜。 02

「……あむ。ん、ん?」

 最後のひとくちを食べ終わって、ソキがぴょこんと顔をあげる。

 すごいすごい、頑張ったねっ、と褒めてくれるナリアンに心行くまでふんぞり返って、でしょおおおおソキはすごく頑張ったんですよぉほめてほめてもっとほめて、をしたあと、ソキは目をぱちくりさせて首を傾げた。

 こん、と両手でヨーグルトの器を木盆の上へと戻す。

「メーシャくん、いま、ソキのことを呼んだです。ソキは聞いてなかったです。ごめんなさいをするです……」

「ん? 違う違う、呼んだんじゃないよ。はい、これはロゼアの。ソキもオレンジジュース、飲む?」

「……うぅ、ソキはもうお腹がいっぱい! ですからぁ……これは、ナリアンくんにあげます!」

 でもロゼアちゃんのをひとくちだけもらうことにするです、ちょうだいちょうだい、と両手を伸ばしてくるソキを見つめ、メーシャは感心しきった声でしみじみと頷いた。

「そこで自分にもらったのを飲まないで、ロゼアにちょうだい、っていうのがソキだよなぁ……」

「メーシャくん? ソキのはナリアンくんにあげたですから、ソキが飲んだらへっちゃうです。たいへんなことです」

「あれ? ロゼアのも減るよね?」

 引き算の間違いを指摘する声音で問うメーシャに、ソキはなにを言われているのか今ひとつ理解できていない表情で、くんにゃりと首を傾げてみせた。

 ん、んー、と閉じたくちびるから不安げな、むずがるような声が零れ、ソキの視線がそろそろとロゼアを見上げる。

「……でも、でも、ロゼアちゃんがもらたものですから、それはソキのです……? ちがうの……?」

「んー……」

 時と場合による、とメーシャとナリアンへの説明的に早口に呟いて、ロゼアはグラスを持ち上げた。はい、と差し出されたそれを受け取らず、ソキはロゼアの手の上に指先をそえ、背伸びをしてグラスにくちびるをくっつける。

 こくん、とひとくち飲んでから体を離し、ソキはふぅ、と息を吐いて椅子に座りなおした。

「おいしいです。……うー、ソキはもうほんとー、に、おなかがいっぱいになっちゃったです……。ロゼアちゃん、もうお部屋に帰るです……? ロゼアちゃんはもうすこしで、授業のお時間です。ん、んー……」

 ロゼアの手と床と食堂の出入り口をしょんぼりした顔でそわそわ見比べたのち、ソキはぽんとお腹に両手をおいてうなだれた。

「……おなかいっぱいでソキは動けなくなっちゃたです……。ロゼアちゃん」

「うん?」

「ソキ、ちょっぴり重いかも知れないです……。食べ過ぎないように、ソキはお昼から気をつけるです……だからね、あのね。……だっこして? だっこ、だっこぉ……!」

 両腕をまっすぐロゼアに伸ばしてぐずるソキを、伸びてきた腕がひょいと抱き上げる。ぎゅむーっと抱きついて甘えて体をすり付けた後、ソキはこてん、とロゼアの肩に頭を預けてくちびるを尖らせた。

「ロゼアちゃん、大丈夫? ソキ、おもたい……? ちゃんとかわいい……?」

「大丈夫。ソキの重みがして可愛い」

「きゃぁん……! ロゼアちゃん、あのね、あのね。ぎゅぅ、もして欲しいです」

 それで、お部屋に帰ったらロゼアちゃんはソキにメグちゃんのお靴をはかせてくれるです。ソキはそれで、ロゼアちゃんとおててを繋いで、談話室まで行って、授業にいってらっしゃいのお見送りをするです。

 ねえねえ、いいでしょ、ねえねえねえ、と体をくしくし擦りつけられながら甘えると、ロゼアはソキをやんわりと抱きなおした。ぎゅ、とすこしだけ力をこめて抱いたのち、ぽん、と背を撫でて歩き出される。

「ソキがそうしたいなら、していいよ……」

「きゃあぁあん! ひさしぶりの、めぅちゃんの、お、く、つー! きゃぁああうれしいうれしいですううう」

 ロゼアの腕の中できゃっきゃと大はしゃぎしながら、ソキはそれじゃあまた後で談話室でね、とメーシャとナリアンにぱたぱたと手を振った。

 ひたすら笑いをこらえながら手を振り返し、メーシャはナリアンの肩にがっとばかり手をおいて顔を伏せる。

「ロゼアの……ロゼアのあの不本意そうな顔……!」

『……メーシャくんって笑いの沸点低いよね……。ロゼア、そんな顔してた? いつもとあんまり変わらないように見えたけど……』

 確かに、諸手をあげてソキの要求を歓迎している、と思える訳ではなかったのだが。首を傾げてロゼアたちの歩き去った方を見つめるナリアンに、メーシャはうん、と素直に頷いた。

「ロゼア、ちょっと分かりやすくなったよ。前よりはね」

「……ねえ、メーシャくん。俺に良い考えがあるんだ……!」

「聞かせてよ、ナリアン……!」

 がっ、と二人が手を取り合って深々と頷くのに、呆れた顔で寮長がお前ら悪戯すんのも良いけど程々にしとけよー、と注意を飛ばす。

 ナリアンは、この世界で一番言ってはいけない人が言ってはいけない言葉で注意して来たよし無視しよう、という決意がこもった横顔でそれを完全に無視し。メーシャはほのぼのとした笑みで、寮長には言われたくないよねぇ、とさらりと言い切った。




 よち、よち、よち、よち。ちょっときゅうけい、です。はふ。うしょ。よち、よち、よちっ、ぷにゃああ転んじゃうですうぅ。うぅソキはがんばたです。よち、よちっ、てしっ、てち、よち、と音と声が聞こえてくる方に、談話室からはハラハラしきった視線が集中していた。

 声をかけたり手助けする者がいないのは、ソキの背負ったしろうさぎちゃんリュックに『歩く練習中です。怪我をしそうな時は止めてください。ロゼア』と書かれた紙がくくりつけられているからだ。

 紙札は、ソキがよちよち歩く度にふわふわと揺れている。俺、こどもの歩みを見守る父親の気持ちになれた、俺も私も、と胸を押さえてうずくまる先輩たちをちらりと見もせず、ソキは絨毯の上に座りこみ、額に浮かんだ汗を手でごしごしと擦った。

「……ソキは朝より、歩くの、上手になったです」

 うん、と真面目な顔をしてこくりと頷き、ソキは談話室の柱にかけられた古い振り子時計を見上げた。十一時をすこし過ぎた頃である。半にはソキの体調伺いに来たウィッシュが顔を出し、そのまま一緒に昼食を食べることになっていた。

 午後になったら図書館に移動して魔術の実技授業、というのが今日のソキの予定である。

 体調如何によっては午後は筆記の補習授業に切り替わるか、あるいは保健室か談話室で休憩の選択肢も予告されていたのだが、ソキの中でそれはないことになっていたので、つまり午後はウィッシュの実技授業なのである。

 それはソキにとって、本当に久しぶりの魔術師の授業だった。

 もうそろそろ三月の終わりであるのに、長期休暇が終わってから、ソキはまだ座学にも実技にも復帰できていないままなのだ。

 でも、でも、今日は実技のじゅぎょですし、ソキは朝よりうんと歩くのが上手になったですし、そうしたらきっと明日は座学です、とそわそわ、わくわくした声で呟き、ソキはちらっと柱時計を見上げた。

 ウィッシュが来るまで、もうすこし時間がある。ソキは歩くことにするです、と休憩をやめにして、絨毯に両手をついた。

「ん、しょ……! う……? う、や、や、や、やぅ……!」

 頑張って勢いよく立ちあがったはいいものの、勢いが良すぎてふらふらぐらぐら揺れて転びそうなソキに、見るに見かねて寮長がかけよった。

 心の底から本当にちからいっぱい不本意で嫌そうな顔をするソキの肩に手を置き、体を安定させて手を退かす。

「よし。お前そのほんっと嫌そうな顔をもうすこしどうにかしろよ……ありがとうございますとか言っても良いんだぜ?」

「ありがとー、ございます、ですー……。うぅ……りょうちょに触られちゃったです。このお服はお洗濯です」

「お前は父親を嫌がる思春期の女子か……!」

 ほら、もう座ってろ。ソファまで連れてってやるから、と差し出された寮長の手を、ソキはくちびるを尖らせてじいいい、と見つめた。手と、寮長の顔をせわしなく見比べて。

 何度も何度もそうしてから、ソキは片手をそーっと差し出し、指先でてしてし、とてのひらにじゃれた。

「りょうちょと手を繋ぐです……?」

「やだなぁやだなぁ、って顔すんなよ……ほら、手。ちゃんと貸せ、ほら」

「ソキは、お父様とだっておててを繋いで歩いたことないんですよ……? パパともないですのに、なんで寮長とおてて繋いで歩かなきゃいけないんですか……。うやんぅやん」

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