迷宮は楽園の彼方 06
ぷぷ、と頬をふくらませてくちびるを尖らせ、ウィッシュはつんっとした横顔でのたのたと歩き出した。ふらつく体がいつ転びかけても良いよう、くすくすと笑いながらアルサールがすぐ傍らに付き従う。
歩けるよ、歩く、と言ったウィッシュにはいと微笑んでそれを許してくれたことには感謝しながら、黒魔術師たるうつくしい青年は、拗ねた顔つきのまま息を吐きだした。
「いいよ。ふぃあに教えてもらうから。ふふ、俺ねえ? 地図、読めるように、なったんだよ?」
「……それはすごい」
「ふふふん! だから、もう、読んで覚えちゃえた時は、あんまり、道に迷ったりしないんだ」
告白に対して紡がれたアルサールの声はほんものの驚愕に満ちていたが、続くウィッシュの言葉に、浮かぶ笑みはなんだか優しいものになる。読める時は、ということは。読めないこともあるということで。
完全に記憶できない時は迷うということで。つまりそれは、恐らく、地図を読みながら進んだり、現在位置をそこから把握したり、ということはできない、ということだ。ゆったりと、お屋敷の若君の歩みに似た足取りで。
どれよりはどこかつたなく、たどたどしく、とた、とた、とウィッシュは足を進め、廊下を渡り階段を降りて、差し込む日のまばゆさに目をくらませ、悲鳴じみた息を吸い込んで目を閉ざした。
ウィッシュさま、と穏やかな声が傍らに響く。疲れられましたか、なにか、と問う声がアルサールのものだと分かっても、ひゅぅ、ときしむ喉は息を吸い込むのがやっとのことで、もつれた舌と思考は言葉を、声を紡がせてはくれなかった。
ここはどこだろう。まぶしいひかりに満ちたこの場所は、ほんとうにあの場所の、そと、なのだろうか。ほんとうはまだ、ウィッシュはあの迷宮じみた一角にとじこめられていて。どこかへいく夢をみて。
魔術師になった、なんていう、途方もない夢物語を夜の眠りに、あるいは真昼の幻の中に紡ぎあげて。現実を遠ざけてしまっている、だけなのではないだろうか。つよいひかりはあしをすくませる。
影を地に焼きつける針のように。『花婿』は元より、強い日差しを苦にするように整えられるけど。そうではなくて。こわくて、こわくて、きもちわるくて、さびしくて、さむい。
ここはひとりで、とてもさみしい。ひとりきりで、とても、さむい。ひかりのなかにいるのに。ぬくもりなんて、ひとつも。
「――ウィッシュ?」
六月の、花のような声だった。細かい雨に濡れ艶やかに鮮やかにちいさな小花を開かせて咲く、真白い花のように響く、声だった。これはね、花舞に咲く花なんだよ、ウィッシュ。
大きな葉と、まるい灯篭のような大きな花を腕いっぱいに抱いて、そのひとが囁いてくれた言葉を思い出す。これはね、紫陽花、っていう花なの。きれいだよね。これは色が白くて、ちょっと緑がかってるけど、もっといろんな色があるんだよ。
紫、赤、ぴんく、きいろ、あいいろ。しろいの。ウィッシュはしろいのが好きかな、と思って持って来たんだけど、ふふ。うん、よく似合ってる。ウィッシュはしろいのがにあうね。きれいな、きれいな、わたしの『花婿』さん。
「アルサール、退いて。ウィッシュ? ウィッシュなの? ねえ……!」
熱病に犯されたような、うわずった声がどこかで響いている。荒れ狂う感情にざらりとした声は、先程のものと、記憶の中のものとも、一致しなかった。
ウィッシュはいやいや、とむずがる幼子のよう、きゅぅと目を閉じてしゃがみこんだまま、息だけを繰り返している。草を踏み乱すかすかな足音。トン、とだけ廊下を打って響く靴音。強い日差しを遮るように体に淡い影が落ちる。
「……ウィッシュ。わたしの……私の、『花婿』……」
「シフィア、落ち着け! ウィッシュさまは」
「うん? ……私は落ち着いてるよ、アルサール。黙って。静かにしていて。体調が悪い時、ひとり以上の声はウィッシュの負担になるでしょう? 私が、話すから……あなたは静かにして、アルサール」
トン、と。ちいさな音がして、膝をついてしゃがみこまれたのが、分かった。瞼の向こう、薄闇が広がるその場所に。強い光をさえぎって淡い影を投げかけながら、そのひとがしゃがみこんでいる。
「ウィッシュ。いいこだね、聞こえる? ……大丈夫。もう大丈夫だよ、怖くない。こわくないよ」
伸ばされた手が。白い手が、ほっそりとした、やわらかい、あたたかい指先が、そっと。肌をすべって、撫でて行く。頬を何度もなぞり、首筋に滑り落とされ、押しあてられるてのひらのぬくもり。
とくとくと拍を刻む心音を確かめるように、どちらの息もひっそりとしてかすかにしか響かない。首筋から離れたてのひらは、額に触れ、幻覚のような痛みと熱を消し去ってくれた。その手のぬくもりを知っている。
「ねむい……?」
ちがうよ、と言いたいのに。声がうまくでなかった。迷宮の記憶は渇きと熱と、喉の軋みでウィッシュのことを縛っていて。こわくて目も開けないままだ。
そのひとは淡くあわく笑い声を響かせると、指先でウィッシュの瞼や、頬や、首をそっと撫でてくれた。その輪郭を確かめるようにも。そこにある熱を、体温を、形を。存在を確かめるような。
慣れ切った仕草でありながらも、どこかたどたどしく、ぎこちない仕草だった。ウィッシュ、ウィッシュ。何度も、何度も。名前を囁き、呼ばれるのに。ひりつくような痛みで切り裂かれた喉が、言葉を発することを許さない。
呼びたいのに。何度も、何度も呼んでいたのに。閉ざされたままの瞼では、姿が見えなくて。本当にそのひとなのかも、分からない。
春の光のようなひとだった。六月に咲く、瑞々しくも生命力にあふれて凛とする、花のような声を持つひとだった。あたたかで柔らかい手が、まだ幼い頃からずっと共にいた。
その声が、熱が、姿が、形が、少女から女性になりかける時。ウィッシュは傍を離れてしまった。しあわせになれるよ、と誇らしく。見送ってくれたそのひとの姿を思い出す。そのひとは笑ってくれていた。
あまく地に降り注ぐ木漏れ日のように。いつも、いつも、穏やかでけれども活発な印象で。ウィッシュの名を呼んで笑ってくれるひとだった。別れの時でさえ。しあわせになれるよ。そう告げて。そこにしあわせは、あるのだと。
指差し示すように背をぴんとさせて、にこにこと笑っている姿が、焼きつく最後の記憶だから。
「……ウィッシュ」
つめたい、水をひたひたと含ませ、滲ませる。涙に揺れる、そんな声は。
「ウィッシュ、うぃっしゅ……いたい? どこか、痛い? どこが痛いの? 目かな。のど? 立ってたよね。あし……? ……つらいの? くるしい? ごめんね、ごめんねウィッシュ」
正気を失う境のような。不安定に揺れ動く、熱病と氷をゆらゆらと行き来する、そんな声は。
「ごめんね……」
知らなくて。分からなくて。怖々と、ウィッシュは瞼を持ち上げた。砂漠の、強い日差しが目にいたいくらいに飛び込んでくる。視界が一瞬、白く染まる。
きゅぅと目を細めて何度もせわしなく瞬きをして、ウィッシュは目の前にぺたりと力なくしゃがみこむ、どこか幼い硝子のような印象の女性に、そっと、そぅっと囁きかけた。
「ふぃあ……?」
繰り返し、繰り返し。会いたいと泣き叫んだ、その女性の名を。
「シフィア……? フィア、なの……? 俺の」
喉が引きつって痛んで軋んでも。ウィッシュはなんとか、それを言い切った。
「俺の『傍付き』」
ひよこみたいな、ふわふわした色の短い髪の。植物の葉めいた黄緑の瞳の。この砂漠に長くあっても不思議に日焼けをしていない象牙めいた、強い、しなやかな肌の。
濃紺の上下に身を包む、どこか小柄な、愛らしい印象を与える体つきの、少女めいた女性。濃い、ひかりのなかに座りこみながら、シフィアはくしゃりと顔を歪めてウィッシュ、と囁いた。
ウィッシュ、ウィッシュ。囁きながら、ひかりのなかから、シフィアが手を伸ばして、触れる。薄闇の中に座りこんだままのウィッシュに。手を伸ばして、触れる。指先が、頬を何度も、何度も撫でて。
「……ウィッシュだ……!」
弱々しく、シフィアは涙をこぼして泣きだした。
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