迷宮は楽園の彼方 07
ひ、と喉を鳴らして。うあぁあ、と声をあげて泣きだしたシフィアを、信じられない気持ちでウィッシュは見つめていた。泣くだなんて思わなかった。ひとかけらも、ほんのすこしも、そんな風にされるだなんて思わなかった。
だって『傍付き』は泣かない。ソキもロゼアが泣くどころか、涙を零した所すら見たことがないだろう。考えたこともないに違いない。『傍付き』が泣くだなんて。己の為に涙を零すだなんて。だってそんなことはあり得ないのだ。
ウィッシュがどんなに泣いて叫んで暴れて嫌がっても、シフィアは常に柔らかく微笑んで『旅行』の為の馬車に乗せて行ってらっしゃいと囁いたし。戻ってきた時もただ嬉しげに微笑んで抱きしめてくれたけど。
たとえば、ウィッシュがそうであったように『傍付き』が恋しくて苦しくて眠れなかったり、泣いたりしたような風には決して見えなかったし。だから苦しいくらい好きなのはウィッシュだけで、シフィアは違うのだと。
最後のことを。最後の別れの日を思い出す。その日は突然ではなかったから、ウィッシュが『お屋敷』から嫁いで行くまでは何日もあった。失望されるのが怖くて。
別れを嫌がっているのが、永遠に傍にいたいのが自分だけだと突き付けられるのが、それを確認してしまうのが怖くて。もしもそうであったら生きて行けなくて。
そんなことになったら、嫁ぐ為に、幸せになる為に育ててくれたその献身の、親愛の、なによりの裏切りになると教わっていたから。それを知っていたから。分かっていたから。いやだよ、とは口に出せなくて。それでも。
永遠を染み込ませたがるように、傍にいて欲しいと。もうあとほんの数日でも、数日だからこそずっとずっと傍にいて離れないでいて欲しいと希ったウィッシュに。シフィアはそっと囁いたのだ。
しあわせになれるよ、ウィッシュ。だいじょぶ、しあわせになれる。なれるよ。なれるんだよ。
その声を。その表情を。ウィッシュはずっと覚えている。忘れないでいようと思った。それを永遠にしようと思った。世界で一番求めたひと。永遠の恋。愛そのものを教えてくれた人。幸せのすべて。
その幸福が、ウィッシュのしあわせがそこにあるのだと告げたのだから。それは本当のことで。本当であるべき、ことだったのだ。シフィアは微笑んでいた。常と変らぬ柔らかな、優しい声だった、表情だった、態度だった。
抱き寄せる腕は穏やかに。『花婿』をそこへ繋ぎとめたいだなんて、ほんのすこしも、思っていてはくれないものだったから。ウィッシュは、うん、と言ったのだ。シフィアがそう言うなら。
俺はしあわせになれるんだと思う。しあわせに、なれるよ。ふぃあがそう言ってくれたんなら。
いいこだね、ウィッシュ。誇らしげに『傍付き』は笑ってくれた。その微笑みに。愛してるなんて言えなかった。たったひとりとして、好きだよ。これから出会うどんなひとにも、きっとそうは思えないくらい。あいしてるよ、あいしてる。
あいしてる。でも。シフィアは俺にそうじゃなくて。俺のしあわせは嫁ぎ先にあって。シフィアは俺がいなくなったら、誰かに恋をして好きになってこういう風に好きに、なって、愛してそして幸せになるんだろう。
その幸せをあたたかいと思う。けれども絶対に見たくはない。
ウィッシュに触れた手が誰かに伸ばされるところなんて。その微笑みが他の誰かに向けられるところなんて。望んでも願ってもどうしても得られなかった愛が、誰かに注がれているところなんて。
しあわせになっている筈だった。ウィッシュはもう嫁いだのだから。ウィッシュがその場所でシフィアの望んでくれたように幸せになっている、筈だったように、『傍付き』は『花婿』が胸が潰れるように夢想した幸福の中にある筈だった。
その筈だったのに。シフィアは声をあげて泣いている。ほんのちいさなこどものように。体を丸めてなにかに怯えるようにしながら。ウィッシュ、うぃっしゅ、と『花婿』の名を呼んで泣いている。
かたかたと震えながら、ウィッシュはぎこちなく視線を動かし、息をのんで動けないアルサールを見た。
「……かえ、の……だめ、だった……?」
「……はぃ? ……はいっ? いえ、えっと……ウィッシュさま……?」
「おれが、帰ってきたの、が、かなしくて……ふぃあ、泣いてるの……? ご、めんね、ごめん。ごめんなさい、ふぃあ。ふぃあ、ふぃあ。ごめん。ごめんね……。泣かないで、なかないで……!」
帰ってきて。ごめんなさい、と告げかけたそのくちびるを、アルサールは手で覆い隠してとめた。ぱし、と驚いて瞬きをするウィッシュに、アルサールは言葉にもできず首をふる。違う。それだけは違う。
そんな言葉を告げられたら、ここまでなんとか正気を保っていたシフィアは、今度こそ心を壊して狂うだろう。『花婿』が死んだと聞かされて。その死の、周囲の凄惨なさまを聞かされて。
死んだなんて嘘。生きている、と泣き叫んで、探しに行くと言って聞かなかった。嫁いだ『花婿』に会いに行くのは『傍付き』の禁忌だ。
『お屋敷』は絶対にそれを許しはしないし、本来であればそんな考えすら持たないよう、『傍付き』は丁寧に丁寧に研磨され磨かれ、一部を壊され葬られる。その願いを決して口に出せないように。
その希望すら胸に抱いてしまわないように。
引き合わされたその瞬間から。なにを犠牲にしても、どんなことをしても、この存在の傍にありたいと。
心からそう思って血の滲むような努力をして気が狂うような想いで研磨され壊され整えられ、それを受け入れてでも、そうされてでも、どんなことをされても、どんなことがあっても。
やがて来る別れの瞬間までは誰より傍にいてその存在を愛したいと。願って願って、それを叶えた者だけが『傍付き』と呼ばれるのだ。求める欲は壊される。求める言葉も同様に。
『花婿』が教育され書きこまれ刻みつけられ、徹底的に、それを罪と、それを許されないことと思い、それから逃れられないのと同様に。『傍付き』は己の花を求められないように、作られる。それなのに。
シフィアは、探しに行く、と言ったのだ。己の『花婿』を。
それが『お屋敷』の上層にどれほど衝撃を与えたか、アルサールは知っている。『運営』の一部からは処分を、との声が上がるのを、当主たるレロクが決して許さぬとがんとして受け付けなかったことも。
けれどもレロクは同時に、シフィアの辞表からも逃げ回っていた。受け取らない、無視する、火をつける、はさみで切る、土の中に埋める、水に流す、落書きをする、などなど。
若君が行った辞表拒否手段は多岐に及ぶが、いいからお前もうちょっとだけここで待っていろというのだ、と怒ったレロクの言葉の意味も、アルサールはもう知っていた。待っていろ、というのは、そういうことだ。
ウィッシュの生存を、恐らくはこの『お屋敷』の中で唯一、レロクだけが知っていたからなお、止めていたのだろう。その努力を。他ならぬウィッシュが砕いてしまうことは避けたかった。
「……嬉しいんです」
苦心して絞り出した言葉に、シフィアの『花婿』は涙の滲む眼差しでぱしぱしと瞬きをした。ぞっとするほど美しい、柘榴色の瞳。歳月を経て深みを増したその彩に、アルサールの意識はくらりと揺れた。
「シフィアは、嬉しいんですよ……ウィッシュさまが生きておられたことが」
魅了されかける。この存在を己のものに出来るなら、どんなことだってするだろう。このひとに愛される為ならば。その想いを乞うことを許されるのならば。そう囁く己の意識をねじ伏せて、アルサールはウィッシュに微笑み、言い聞かせた。
「嬉しいんですよ。……俺も、本当に。……ウィッシュさま。シフィアの、俺たちの……『花婿』。ウィッシュさま……!」
嫁いで行く別れの日に。シフィアの服の端を摘んでいたウィッシュの指先が震えていたのを、アルサールは忘れることが出来ないでいた。微笑んで。
誰よりもしあわせになるから安心してね、と囁いて、わくわくしているような態度で振舞っていた『花婿』の。その指先だけがほんとうの心だった。シフィアが気がつかなかった筈はない。
それでも、『傍付き』は『花婿』に求められなかったから。『花婿』は『傍付き』に引き留められなかったから。さよならだけを言えずに、別れて。しあわせでいてくれるようにと、それだけを願い続けていたのに。
戻ってきたのは死の知らせ。それにまつわる悪夢のような報告の数々。アルサールが知ることが出来たのはほんの一部だ。それでも、アルサールは全て殺してしまいたいと思った。
ウィッシュの嫁ぎ先の、生き伸びたほんのわずかな者も。そこへ嫁がせると決めた『お屋敷』の者たちも。
多額の金銭が戻ってくるが故にその報告を握りつぶしていた外部勤務者や、薄々はそうと知っていながら放置した、レロクの前の当主のことを。決して許すことはできなかった。
しあわせになれない場所へ送りだしてしまった己のことを。アルサールとてそうだった。『傍付き』であったシフィアの胸中はどれほどのものであったのか。言葉を告げながら。
涙に声を発せなくなってしまったアルサールのことを、ウィッシュはおろおろしながら見つめ、ちいさく首を傾げてある、と呼んだ。
ある、ふぃあ、ある。ある。泣かないで、と震えた声で伸ばされた指先が、アルサールの頬に触れ、くすぐるように撫でて行く。その指先のこそばゆさ。爪のあまい感触。
あわい熱に、アルサールはふわりと微笑み、ウィッシュをゆるく抱き寄せた。
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