迷宮は楽園の彼方 05
不愉快げにふんと鼻を鳴らして眉を寄せ、レロクはラギが腰に佩く長剣の柄に手を伸ばした。やんわり咎められるのを無視して柄を握りこみ、若君は呪いすら感じさせるような低い声で一言、吐き捨てる。
「知ってるが、それでもだ。二度とするな」
「はい、レロク。私の最愛の宝石。あなたがそう望んでくださる限り、私は永遠に……最初から、最後まで。あなただけのものだ」
「そうだ。魂にまで刻み込め。お前は、俺の、ものだ。俺の傍付き。俺の、ラギ」
よーし言ったなお前ほんとにもう二度とぜったい男にも女にも触るでないぞどうしてもというのなら手袋をしろてぶくろっ、とふんぞりかえって命じるレロクは、普段の些細な接触すら許容するつもりがないらしい。
ああもう本当に困ったお方だそこがたまらない可愛い、とばかりこころもちふわりとした笑みで、ラギはあなたがそうお望みならば、と囁いている。
二人のやりとりをじーっと見つめたのち、ウィッシュはくちびるを尖らせ、頭痛を感じているらしきアルサールの服をひっぱって訴えた。
「アル。あいつら、ひどい。目の前でいちゃつかれた」
「うらやましいだろう、うらやましいだろう! お前もとっととシフィアのとこ行っていちゃってこい。そして辞表はだめだと言って来い。で、それが終わったら俺のとこに来い。ロゼアが『学園』でなんぞ不貞を働いてないか、報告を聞いてやらんでもない」
「レロクは、ほー……んとに、ロゼアのこときらーいだよなぁ……」
とりあえずいまはまだなんもしてなかったよ大丈夫だよ、と告げたウィッシュに、アルサールが頭痛を激しくさせた表情で天を仰ぐ。口元を手で強く押さえたラギが、ふるふると体を震わせながらしゃがみこみ、ぶはっ、と面白くて仕方がない様子で笑いに吹き出す。
ほほほぅ、と目を細めたレロクの顔に、よしロゼアに手紙でも書いてやろうみっちりとなっ、と書かれている。
もう、レロクはすぐそうやってロゼアいじめるー、とのんびりした声で呟くウィッシュだけが、『学園』に帰ったのち、ソキにやんやんおにいちゃんロゼアちゃんをいじめたですううううぅううっ、と怒られる未来を、予測できていなかった。
落として行った思い出を、ひとつ、ひとつ、辿り拾い上げて行くように。『お屋敷』の中をゆっくりと歩いて行く。殆ど出歩いた覚えのない場所であるというのに、そこにはウィッシュも意識していなかった記憶の欠片が零れ、転がっていた。
毛足の長い絨毯の上、落ちた綿ぼこりを摘みあげるしろい指先。本棚代わりにことことと書物が置かれた窓枠。差し込むひかりは緑の葉を透かしてなめらかな色に染まっていた。緑をまとう黄金。
綺麗だね。眩しくない、目を痛くするからあんまり長く見ちゃだめだよ、と耳元で声が笑う。白く艶のある柱には深く刻まれた一本の線がある。息を弾ませながら立ち止まり、ウィッシュはそれをするすると指先で撫でた。
幾度も。嬉しそうに。ちいさな記憶を拾い上げた。
「アル、アル。これ、覚えてる? ……ふぃあね、この時ね、なんかすごく怒ったんだよ。俺、シフィアが、怒るの、あのとき、はじめてみたんだぁ……! うふふ。あのね、えっと。糸? 鉄の、糸みたいのでね、俺に勝手に触ってきた商人をね、逆さ釣りにしてね、窓からぽいって」
「……覚えております」
ぎゃああああお前なにしてんだあぁああっ、と叫びながらウィッシュの目を手で隠したのはアルサールである。『花婿』の前での戦闘行為は御法度。だのにシフィアはそれを実行してしまったのだ。
だってコイツいやらしい手でウィッシュに触ったんだよっ、ごめんねウィッシュきもちわるかったよねすぐにお風呂へはいろうねぎゅってしてちゅってして忘れようねいますぐこれをぶちころあっまちがえたえっとえっと反省させるからちょっとまってねウィッシュ、とふわふわした常と変らぬ笑顔ではきはきと言ってのけたシフィアに、アルサールはそれはもう心から叫んだものだ。
落ち着けシフィア、ウィッシュさまの御前で荒事に走るな、と。シフィアは、えへへ、と笑って恥じらってみせたが欲しかった反応はそれじゃない。
ちなみにアルサール自身も、いいかそういう荒事は俺に任せておいてお前はウィッシュさまのお傍にいればいいんだだからその商人を俺に渡せ俺がぶちころじゃない間違えたあー反省させておくから、と発言したことがばれて、後日仲良くシフィアと共に呼び出しをくらって怒られたりしたのだが。
そのあたりはいまひとつ、ウィッシュの記憶には残っていないらしい。
ぶちころ、って、なぁに、ときらきらした笑顔で首を傾げた『花婿』に、シフィアのウィッシュさまお願いですからその単語の存在そのものを忘れましょうここにマシュマロがあります、と説得した成果である。
それでも、おぼろげに思い出せはするのだろう。ううぅん、と訝しげに首を傾げ瞬きをして、ウィッシュはとうめいな旋律のような声で、しっとりと問いかけた。
「アルサール? あの商人、生きて『お屋敷』から出られたの……?」
あとあのマシュマロ食べたい、とくちびるを尖らせてねだるウィッシュに後ほどお持ちしますと囁いて、アルサールは商人の生死については答えなかった。一応、その時はまだ生きていた筈である。そのあとのことは知らない。
心身に対して傷はつけなかったが、『花婿』に許可なく触れた者として『お屋敷』から出入りを禁じられた商人など、砂漠ではどこへ行こうと商売などできる筈もないからだ。
ウィッシュは瞬きをしてアルサールをじっと見つめたあと、アルサールの手に包み込むようにして触れる。煮詰めた飴色の肌に触れる『花婿』の手は。
そう呼ばれていた頃と不思議なほどに変わらぬ、月夜の大理石じみて白く日焼けを知らないままだった。
「アル、アルサール。あんまり危ないことしちゃ、だめだよ。アルは自分でしなきゃいけないんだから、危ないだろ? もしね、またね、アルが我慢できなくって、ぶちころ? みたいなのがいたらね、俺にそっと教えてくれるといいよ」
「……ウィッシュさま?」
この方にぶちころとかいう単語とその意味を教えてしまった存在をこの世から消し去りたい今すぐにだ、という感情を丁寧に包み隠し、アルサールは微笑んで『花婿』の名を呼んだ。
かつてとまったく変わらぬ、それどころか親愛と喜びを増したように響くアルサールの声に、ウィッシュはくすくすとくすぐったけに肩をすくめてはにかんだ。
「アル。俺、魔術師になったんだよ。レロクから聞いた? 俺ね、風の、黒魔術師になったんだ……だからね?」
白い手が。アルサールの頬を撫でて行く。
「アルが嫌なのがいたら、俺がぜんぶころしてあげる。おれ、じょうずにできるんだよ? ヴェルタも、ほめてくれたもん……。あ、ヴェルタっていうのはね! おれを助けにきてくれた、あんないの、ようせいさんの、なまえ、でね? おれをがくえんに、つれてってから、ずっときんしん……? ふういん……? とじこめられてた、んだけどね。おれがね、せんせい、がんばったから、こないだだしてもらえたんだ……!」
風に揺らされさんざめく木の葉の、散らす陽光のきらめきのように。幾億の輝きに満ちた光が、熱っぽい潤みを瞳に宿してウィッシュを歌わせる。
興奮でふわふわした響きになる言葉を奏でながら、ウィッシュはふふ、とはにかみ、弱く脆い喉でかふ、と乾いた咳をした。
「ん、う……。はぁ……あいにいくんだよ、っていったら。だめだったら、俺がちゃんと呪ってやるから、安心してお行き、って、いってたけど。ヴェルタはもー、すぐ呪いたがるんだからー」
わりと、なんでもかんでも、一線を超えるなりすぐにぴかぴかの笑顔でよしころそうっ、と言いだすウィッシュを迎えに行けただけある、と妖精の間でうんざりされている事実を、黒魔術師だけが知らない。
アルサールは苦笑いをしながら、ウィッシュさまのことを心配してくださったのですよ、と告げ、かふ、こふ、と咳き込む『花婿』のくちびるに、用意しておいた飴をそっと食ませてくれた。
「ウィッシュさまが、もうそのようなことをされる必要はありませんよ。……こら、飴を噛まれない」
「んー、んんー……あ。ねえねえ、いまどこらへん? それでー、ふぃあはー、どこにいるー、のー?」
飴をかしかし歯で食みながら腕にじゃれつき、甘えた声で問うウィッシュを撫でながら、アルサールは『お屋敷』の中ですよ、と囁いた。シフィアはもうすこしばかり歩いた中庭にいる筈です。
用事のない日中はだいたいそこでぼんやりとしているのだという。説明してくれたアルサールに、ウィッシュはソキそっくりの仕草でぷーぷぷぷ、と頬をふくらませてみせた。
「ある? いじわるしないでー、俺にちゃんとー、ばしょ。おしえて?」
「この廊下の先まで歩いて、右に曲がって、突き当たりの階段をひとつ降りる場所にある小庭に、シフィアはおりますよ」
ウィッシュが欲しかった説明は、そういうのではないのだが。
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