迷宮は楽園の彼方 04
辞表というものが、つまりはシフィアがこの『お屋敷』に勤めることを辞めたいのだという意思表明であり要求であるということまでウィッシュが思い至るのに要した時間は、十分ほど。
その間に、お前が知ってて親しかった『傍付き』だとあとはラーヴェがいないと告げられたが、シフィアが辞めたいと思っていることが衝撃的すぎて、そちらに驚いたり悲しむ余裕が生まれることはなかった。
それはソキはさぞ落ち込んだろうにと頭の片隅で冷静に考えながら、ようやっと辞表の意味を飲み込んだウィッシュは、ふらふらと視線を持ち上げてラギをみる。弱々しい息が喉を通り、空気を震わせた。
「な……なんにんころせば、ふぃあ、やめない……?」
「……ん?」
なんで、と問う言葉の盛大な聞き間違いだろうか、と思いこみたがる微笑みでラギが口元を引きつらせ、ウィッシュを守るように傍らに立つアルサールがよく晴れた蒼穹を仰ぎ見る。
レロクが責任の所在を問う視線をひたすらアルサールに向けていたが、なんとなく無視されたままだった。どこからも返事が帰って来ないので、ウィッシュは不思議そうにくてん、と首を傾げ、アルサールの服の端を摘んで引っ張る。
「アル、アル。ねえ、誰がいなくなれば、ふぃあ、いなくならない? シフィアはー、だれがー、やなんだかー、おれにおしえて? ……え、えっ。それとも、ふぃあの……だ、だんなさん、が、そういう風におねがいした、とか、なの……?」
「ウィッシュ。シフィアは結婚しておらぬ」
あとアルサールはあとでシフィアを連れて俺の部屋まで来い、と腕組みをしながら尊大に言い放ち、レロクはぱちぱちと瞬きをするウィッシュに視線を重ね合わせた。言い聞かせるようにゆっくりと告げる。
「シフィアは、結婚しておらぬぞ。辞めたい、と言っているのは、お前を探しに行く為だそうだ」
「……俺? ……え? 結婚、してないって、なんで」
どうして。だって、俺は死んだっていうことになってたんじゃないの。生きてるのはレロクとか、前の御当主とか、それくらいしか知らない筈で。ロゼアにも、しー、ってしておいたし、ソキは言う筈がないし。それに。
好きな人ができて、『傍付き』はそのひとと結婚してしまう筈なのに。シフィアはそれを、していないという。ウィッシュが生きていたことも知らないのに。
混乱しながら、なんで、としか言えないウィッシュに、レロクはくちびるを尖らせ、拗ねた顔つきになりながらしらーぬ、と言った。だが、結婚しないのも稀にいたであろうがと告げられて、ウィッシュは記憶を探りながらぎこちなく頷いた。
ウィッシュがまだ『花婿』であった頃。花を送り出した『傍付き』であるのに、彼らは恋をすることがなく。やがて、『お屋敷』で姿を見なくなってしまった。彼らはどこへ行ったのだろう。
もしかして、それが、辞めた、ということなのだろうか。
ウィッシュが知る、『花婿』を送り出した『傍付き』というのは、だいたいが数年内に恋をして結婚をして『お屋敷』に留まり、新しい『花嫁』や『花婿』たちの世話を、『傍付き』候補の手伝いをしたり、時に教員となりながらもそこへあり続けたのに。
そうだ、とウィッシュは息を吸い込む。いなくなってしまうこともあった。半年に一度、一年に数度、戻ってくる者もいたけれど。ひとりだけ、もう会えないの、と告げられた者もある。
ウィッシュとレロクより、ほんの数ヶ月だけ年上の『花嫁』を送り出した『傍付き』の女性が。どうかお健やかにと囁いて、微笑んでくれて、それきり姿を見ることがなかった。あれは別れの挨拶だったのだ。
慌てて、ウィッシュは何処へと走り出そうとして、脚をもつれさせ体勢を崩してしまう。うわっ、と思い切り慌てた声でアルサールがウィッシュを抱き寄せ、半ば共に倒れ込む形になりながらもその体を守ってくれる。
え、は、えっ、と混乱しきったアルサールの呟きは、まさか『花婿』が自ら走ったり、歩いたりするとは思わなかった為だろう。その脚で帰ってきたのを見ていても。『花婿』がそういう風にするのを、『お屋敷』に勤める者は想定していない。
ううぅ俺なんでか急ごうとするとすぐ転ぶんだよねアルごめんねごめんね痛くない祝福かけたげるね、と腕をなでなでしながら涙目で鼻をすすり、ウィッシュはその場にぺたりと座りこんだまま、ふわふわと風を漂わせて息を吐きだした。
「うー、えー……レロクー。なあなあ、れろくー。俺がちゃんと生きてて白雪にいるってシフィアに言ってよ」
「自分で言わぬかばぁーか」
「レロク。馬鹿とかいう言葉を使わないでください、と私は先日も申し上げたばかりだと思うのですが」
自分に言われるのはよくても、人様に対してならきちんと怒るラギの説教の論点は、相変わらずウィッシュには理解できない。あとラギに怒ってほしいのはそこじゃない。
レロクは不満そうにくちびるを尖らせて腕を組みながら首を傾げ、自分で言わぬかめんどうくさがるでないわ、と語尾をやや疑問形に歪ませながら言い直した。
ラギはふっと満足げに微笑みを深め、言うことをちゃんと聞けて偉いですね、レロク、と若君のことを褒めている。
そうだろうそうだろうもっと褒めろ、とふんぞりかえって自慢げなレロクに、ソキがなにかと偉そうにふんぞりかえって自慢してくるのはぜえぇったいこれのせいだよな言うとちぁうもんちぁうもんってちょう怒るから言わないけど、と息を吐き、ウィッシュはもー、と目を細めてみせた。
「じゃあ、フィアは……俺が、ちゃんと生きて白雪にいるよって分かれば、どっか行ったりしない?」
「たぶんな」
「たぶんってなんだよー……。いい? レロク。俺は今から枯れちゃうかもしれないんだよ……?」
シフィアが俺のこと喜んでくれなかったらどうするの、とうるうるの目でくちびるを尖らせるウィッシュに、せめて自分の発言くらいは方向性を一致させぬかと呆れた顔で息を吐き、『お屋敷』の若君、元『花婿』である青年は腕組みをしてみせた。
「まあ、気持ちは分からんでもない……アルサール、なにも言うなよ。お前たちには分からぬだろうが、これが『花婿』に……『花嫁』に、施された教育というものだ。ウィッシュも、俺も、ソキも。『帰らない』ように整えられるし、『帰れない』ようにされるのだ。……お前はそれをよぉく知っている筈だな? ラギ」
「ひとつ言わせて頂くなら……『傍付き』だからこそ、明かされぬ、御花の方々に対する教育というものは存在していますよ、レロク」
「『花婿』であった俺を、『次期当主』候補に転換させたお前であるならば、それを知っている筈だな、と言っているのだ。俺は」
ラギは、常と変らぬ柔和な笑みをその顔に浮かべただけで、なにも答えようとはしなかった。ただ永遠を誓った主の傍らに膝をつき、その服の衣を指先でついと引き寄せると、そこへ口唇を押し当てる。
レロクは忌々しそうにラギを見下ろし、ちちぃっ、と舌打ちを響かせた。
「いいかラギ……。お前が俺の見えない範囲でどこの男と遊ぼうとどこの女に手を出そうと、俺が分からない範囲ならば許してやるがな……!」
「そのようなことはしておりませんので、私が何処ぞで不貞を働いているような物言いはやめて頂けますかレロク」
「俺以外に、一欠片であっても、気持ちを委ねてみろ。今度こそお前を殺してやる」
それで、そのあと俺は死ぬ。きっぱりとした宣言に、ラギは立ち上がりながらふっとあまく微笑んだ。
「レロク」
「なんだ」
「あなた以外を思って誰かに触れたことなど」
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