迷宮は楽園の彼方 03

 そこにしあわせがあると告げられたのに。とうとうウィッシュはそれを見つけることができずに。世界を、なにもかもを呪って、壊して、殺してしまった。そんな風にするために離されたんじゃないのに。

 それでも。どうしても。許すことができなかった。ウィッシュさま、と変わらぬ微笑みでアルサールが囁く。手を繋いでくれたまま。荒れはじめる風にも顔色ひとつ変えることなく。

「いまも、まだ、お辛いですか……? 悲しいと、苦しいは、なくなりませんか?」

「そんなことないよ。そんなことない、毎日、楽しい。……時々、だよ。体調、悪くなったり……夢見たり、したあと、だけ。なんにもしてない時に、なんか、思い出しちゃったりした時だけで。ずっと辛い訳じゃないよ」

「ウィッシュさま。いま、この時のことをお聞きしています。……シフィアのウィッシュさま。うつくしくお育ちになられた、我らが『花婿』……あなたさまは、いま、悲しく、苦しく、辛くお思いですか?」

 繋がれた手が。ここにいる、と告げていた。もうあなたはひとりではないのだと。おかえりなさい、と囁いてくれているようだった。

 ぎゅぅ、と。弱々しくはなく、それでいて痛みを感じることもなく。優しく、けれども決して離れない強さで繋がれた手に視線を落とし、ウィッシュはふるふるふる、と無言で首をふった。

 ほっ、とアルサールの微笑みが安堵に緩む。それならば、よかった。心から捧げられる言葉に、ウィッシュはまたちいさく、ごめんなさい、と言った。それにアルサールは立ち上がりながらいいえ、と告げ。

 両腕をウィッシュに回して、背をぽん、とあまく叩いてくれる。

「あなたさまは昔から、朝方にみた悪い夢を、昼間まで覚えて怖がるお方でした」

「……え。そだっけ……」

「おや。私が、あなたさまに嘘をついたことが、一度でも?」

 もう一度。体調を確かめて頬や首筋を滑って行く手に心地よく目を細めながら、ウィッシュはくすくすと肩を震わせて笑い、ないよ、と言った。

「ないけど……。アル? 俺、アルが『私』って、言うのはずぅーっと知ってたけど」

「……はい?」

「さっき、『俺』って、言ってた。はじめてきいた……アルは『俺』も言うんだ? へー……アル、アル。おれ、って言ってみて? ね、いって、いって? ききたい。それでなんか、しゃべって?」

 なんでいままで俺の前だと言ってくれなかったの聞いてみたかった、ねえねえ、と腕をやわやわ引っ張って甘えてねだってくる『花婿』に、アルサールは微苦笑を浮かべ、視線をそろりと漂わせた。

「……助けて頂いても? ラギさん」

「はえ? ラギ? ……あ、ラギだ! あとレロクだ。レロクー、ひさしぶりー」

「ウィッシュ、おまえ! この! 俺を! あと、とか言うとはどういうつもりなのだ! アルサールも、ラギに助けを求めるでないわっ! いいか、ラギは! らーぎーはー! 俺のっ! おれのなのだからなっ! だあぁれがおれのきょかなくらぎにたすけをもとめていいといったっ!」

 てしてしてしてしっ、と音がしそうな仕草で足先をぱたぱた地面に叩きつけ、それはもう怒っている『お屋敷』の若君、元『花婿』であるレロクの発音は、感情に体がついて行かないが故にたどたどしい。

 あんな感じだとホント、レロクってばソキのおにいちゃんなんだよなぁ、とのんびり感心しながら、ウィッシュはレロクの傍らに控える側近、『花婿』の『傍付き』であったラギに笑顔で手をふった。

「ラギー。ラギ、レロクといっしょにいつからそこにいたの? 俺、全然気が付かなかった」

 アルで忙しかったんだよね、とふわふわ笑うウィッシュに、ラギは心得た微笑みでしっかりと一度、頷いた。

「お帰りなさい、ウィッシュさま。最初からおりましたが……レロク。叫ばない」

「うるさいばーかばーか! だいたいお前もお前だっ、らぎ! お前が! 誰のものだか! いってみろっ!」

「この『お屋敷』の、時期御当主様たる若君。私のレロク。あなたの」

 分かっているではないかお前なぜおれのきょかなくあるに助けをもとめられたりするのだばかあぁああっ、と理不尽な怒りを叩きつけられても、常にあるラギの微笑みに変化はないようだった。

 ああもうこんなことでこんなに怒られて可愛らしい方だ、とばかり笑みに細められた目でレロクをじっくり堪能したのち、ラギの手がそっと若君の頬を撫でて行く。一度、二度、三度。ゆっくり触れて、怒りを宥めて、ラギは静かに囁き落とす。

「私はレロクのものですよ。それをあなたは御存知である筈だ」

「……俺のことをどう思ってるか言ってみろ」

「レロク。あなたこそ私の、最愛の宝石」

 冷えた透明な氷の向こうに。揺れる火があるような、危うい声のように、ウィッシュには聞こえた。ただ触れるばかりでは冷たいばかりの、目で見るだけでは熱を感じられないだけの。

 封じられたような、削ぎ落されたような。そんな、奇妙な印象を覚える囁きだった。完成された『花婿』に、それは分からない言葉だ。分からないように作られる。意味を教えられることはない。

 ウィッシュはそうだった。レロクも、そのままなのだろう。おまえ一回くらい、いいから俺をあいしてるとかそういう風に言ってみろ、とうんざりした顔つきで呟くと、もういい、とばかり顔を背けてウィッシュに向き直る。

「で、シフィアのことだが」

「うん。俺、レロクの前置きとかそゆの全部なしに自分の言いたい用件だけ伝えてくるトコ、わりと好きだよ」

「そうだろうそうだろう。もっと褒めろ」

 ふふふん、と自慢げにふんぞり返ったのち、レロクはで、お前の『傍付き』のことだが、と言った。

「今日は休みの筈だが、『お屋敷』のどこかにはいる筈だから探していいぞ。たぶん本邸のどこかだ。たぶん」

「……ん?」

 そういえば、場にいるのはアルサールとラギ、レロクだけである。視線を彷徨わせれば遠巻きにかつての世話役たちが涙ぐんでいるのが見えるが、その中にもシフィアの姿はなかった。

 んん、と不安げに首を傾げ、ウィッシュはもしかしてなんだけどさぁ、と落ち込んだ声で囁いた。

「おれに……あいたくないとか……そういう……?」

「いえ、ウィッシュさま。ご安心ください」

 知らないだけです、とラギは言った。いやに透明感のある、すがすがしいまでの微笑みだった。

「そこのアルサールに、あなたさまの生存が伝えられたのが、今から十時間前になりますが」

「……えっと、真夜中……の、一時前、くらい……?」

「はい。そして、ウィッシュさま。あなたが帰ってくるとアルサールが聞いたのが、いまから十五分ほど前です。ちなみに、私も、まったく同じ時刻にそれを知りましたので色々と整わぬ出迎えとなってしまい、申し訳ありませんでした」

 じゅーごふん、と呟き、ウィッシュは指をはたはたと折り曲げて思い切り首を傾げた。

 色々と考えたいことと聞きたいことがありすぎて、ちょっぴり思考が停止気味なのだが、ええとええと、と困った呟きで眉を寄せ、ウィッシュは泣きだしそうな声でレロク、と若君の名を呼んだ。

「え? なんで……?」

「びっくりした顔が見たかったからに決まっておろうが」

「え? ラギ? ラギはお願いだからレロクのことを怒って? え? 怒ったよね? ね? これはさすがに怒ったんだよね……? ……え、えっと……えっとえっと、えっと……? アルに言って、ふぃあに、言わない、のは……?」

 それ以外の理由などあるわけがなかろう、とふんぞり返るレロクに頭痛を感じながら、ウィッシュはぎこちなく首を傾げる。ラギは怒ったとも怒らないとも言わずに、ただ微笑みを深め。アルサールは遠い目をして溜息をつき。

 レロクはなぜか、自慢げに決まっているだろうが、と言い放った。

「だってアイツ、最近俺の顔を見るとす辞表出してくるようになったのだ。受け取らぬと言うておろうに。なあ?」

「レロク、アイツとかいう言葉をお使いになるのはやめなさいと、私は先日も言った筈ですが」

「そ、そこじゃない……! らぎ、ラギ……! 俺が怒って欲しいのは! そこ! じゃ! ないっ!」

 でもラギがなんていうか一点の曇りも濁りもなくただひたすらまっすぐにちょっとおかしいくらいレロク大好きなのが昔と同じすぎて安心を通り越してぐったりした気持ちになった。

 元気そうだからいいことにする、と呻くウィッシュに、ラギは微笑んでごくちいさく頷いてみせた。まあ、そういうことですので、とアルサールの申し訳なさそうな声がウィッシュに囁きかける。

「シフィアはまだ、知らないのです……。ウィッシュさま」

「うん。……う? え。辞表ってなに」

 ようやくその単語の意味が脳に到達したらしい。はっとした顔でなにそれっ、と叫ぶウィッシュに、レロクはふあふあと眠そうにあくびをしながら、じひょーはじひょーにきまっているだろうが、とほわほわした響きの声で言った。

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