迷宮は楽園の彼方 02


 事前にちゃんと連絡をしておいたので、鍵は空いている筈だった。出迎えの者もいるのだと聞く。

 だから早く帰って来い、そしてお前の生存を『お屋敷』の本当に上層の上層、五指に入る者にしか教えず俺のラギにすら隠した俺のことを褒めろ、あとあんまり時間には遅れるでないぞ、と書かれたレロクの手紙を思い出したせいだ。

 血の繋がりのない『花婿』仲間の性格が、相変わらず香ばしすぎてちょっと心配になったのはないしょである。ラギにないしょないしょってそれあとですごい怒られるんじゃないかなぁ、いけど、と呟き、その手紙は部屋に置いてきた。

 もし戻れなかったら焼却処分してもらえる手配済みである。びくともしない扉を、うーん、うーん、あれ、と押していると、失礼しますと声が響いた。聞き覚えのある、涙の滲んだ、掠れ声めいた囁きだった。

「こちらから開きましょう。すこしだけ離れていてくださいますか、ウィッシュさま」

「……アル?」

 やんわりと耳をくすぐって行くような、落ち着いた、穏やかな男の声だった。何度も呼び囁いた覚えのある単語を舌先で転がし、ウィッシュは扉から体を離し、首を傾げる。

「アルサール……?」

「はい。……はい、私です。シフィアの、ウィッシュさま……!」

 どんなにか。そう、呼ばれたかったことだろう。『傍付き』の『花婿』だと。永遠の恋としあわせを捧げたひとのものだと。もう二度と呼ばれる筈のない、その言葉を。どんなに。

『しあわせになれるよ、ウィッシュ。……大丈夫、ね? 私の『花婿』さん』

 不意に。耳鳴りのように蘇った言葉に意識を揺らしながら、ウィッシュはゆっくりと開いて行く扉を見つめていた。瞬きをする。息を吸い込んだ。

『……いってらっしゃい』

 砕け散るようなひかりのまばゆさに。ふらつくように一歩を踏み出し、扉をくぐった。濃い緑と、水と、淡い花の匂いに染まった空気が喉をするりと撫でて行く。

 内側に広がっていた風景は見覚えのない場所なのに。帰ってきた、と思った。いつの間にか閉じられた扉に、ふらつきながら背を預け、何度も瞬きをする。

「ある……アル、アル。アルサール……」

「はい」

「ほんとに、アル……? おれの、ゆめじゃ、ない……?」

 滲んだ涙をふりはらうように。息を吸って瞬きをして、立ちなおし、ウィッシュは扉を閉じてくれた男に囁きかける。ウィッシュのものとはまるで違う、煮詰めた飴色の肌に覆われた指先が伸ばされ、目尻を優しく拭っていく。

 すこし冷えた体温が。かすれた記憶を鮮やかにさせる。両腕を伸ばして、すがりつくように体を寄せた。

「アル……アルサール……! ごめん……ごめんなさい、ごめんなさい……! おれ、アル、おれ、ふぃあが……シフィアも、アルサールも、俺のことしあわせになれるって、ちゃんと送り出してくれたのに……育てて、くれたのに……! しあわせに、なれなかった……」

「ウィッシュさま。あなたが謝られることなど、なにひとつ」

「……だって。しあわせになれる、って、言ってくれたのに……いわれたとおり、できなかった……」

 ぎゅっと強く、抱きしめて。落ち着かせるように背を撫でてくれる手に、強張った力が抜けて行く。ソキがロゼアの腕の中で、怒りや悲しみを続けられないように作られているのと同じで。

 ウィッシュも『傍付き』や世話役たちの腕の中で、それをちゃんと形作らせ留めておくことができない。ましてやアルサールは『傍付き』シフィアの、補佐。ロゼアに対してのメグミカである彼は、ウィッシュの『傍付き』最終候補の片割れだった。

 うー、とむずがるウィッシュの耳元で、ふふ、と穏やかに笑う声は耳馴染みよく響いて行く。

「あなたさまが亡くなられたと聞いた時、状況と……その後の調査で判明したあなたさまの嫁ぎ先の、扱いと……あなたさまがいらっしゃった夜会での、遠目に確認できていた状態の報告を、私たちが受けた時……どんなにか申し訳なく、怒りを感じたか」

「……俺に?」

「ウィッシュさまに? なぜ? ……なにを」

 笑いながら、男のてのひらがウィッシュの頬を撫でて行く。頬を撫でたてのひらは首筋に滑り落とされ、押し当てられたあとに、前髪を散らして額にも触れて行く。

 髪を整えるように撫でながら、アルサールが幸福そうにさらさらですね、と言ったので、ウィッシュは習慣で長く伸ばしている髪を整えてくれた怖い同僚女子たちに、その日の朝から今までではじめて感謝した。

 あたたかいし、いい香りもします。いまのあなたさまは大事にされている。よかった、と嬉しそうに告げられて、ウィッシュはぎこちない態度でうん、と頷いた。

「いえに、かえるって、言ったら……ふぃあに、えっと、みんなに。九年ぶりに、会うんだよって、言ったら……皆に、ちゃんとしていけ、って。怒られて。整えて、くれたんだけど……アル、これ、好き? ふぃあも、好きかな……えっと、俺、ちゃんと……皆の、自慢のままで、いられた?」

 いや俺だってちゃんとね、髪も肌も服も、飾りもだよ。いつも皆がしてくれてたみたいにね、思い出して整えて、それで帰ってこようとは思ってたんだけどね。

 俺の今の同僚のひとたちがね、あんた意外とでもなくわりと不器用なんだからひとりでちゃんとできる筈がないでしょうほら貸しなさいそして私たちの思う存分気が済むまま整えられ飾りつけられきらきらふわふわうるうるつやっつやになってでかけなさいってね、おこられてね、それでね、やってもらったんだけどね、と。

 たどたどしく、どこかいっしょうけんめい言葉を紡ぐウィッシュの片手を握り締めたまま、アルサールはその眼前に跪いて微笑んだ。

 はい、はい、と頷きながら、アルサールの指先がウィッシュの手にやんわりと触れて行く。とん、とん、とん、と穏やかな、呼吸じみた速度。言葉に詰まってしまったウィッシュに、アルサールは囁く。

 シフィアのウィッシュさま、私たちの『花婿』。あなたさまの幸福をどんなにか祈り、そしてどんなにかあなたさまの死に、それにまつわる状況に怒り、世界を呪ったか。生きてくださっていて、よかった。

 ウィッシュは目をうるませ、ほんとに、と掠れた声で囁いた。

「ほんとに、アルサール、怒ってない……?」

「ウィッシュさま。俺があなたに嘘をついたことが、一度でも?」

 肩を震わせておかしげに笑うアルサールに、ウィッシュはきゅぅと目を閉じ、ふるふるとちいさく首をふった。

「ない……。ないけど、なんで、怒ってないの……?」

「……なぜ、俺が怒るとお思いですか? あなたが、幸福に嫁ぐことができなかったのは……『お屋敷』と、前当主の不手際によるもの。そこから救い出すことができなかったのは……四年間の、ウィッシュさまの状態が『お屋敷』まで正確に伝わらなかったのは、嫁いだ『花婿』たちの状態を調査し、把握する任務を請け負った外部勤務者の怠慢によるところです。ウィッシュさまに、俺がなにを、怒らないといけないのですか」

「あれ? ……えっと。えと、えっと……んと、あれ、じゃあ、じゃあ……ふぃあも……シフィアも、俺を、おこらない?」

 だから。どうして、なにを、怒られるとお考えだったのですか、と。笑い声交じりに問いかけられて、ウィッシュはきゅうぅ、と眉をよせてくちびるを尖らせた。途方もない感情に瞳がじわりと涙にうるむ。

 水面に映った赤い花のような、雨に濡れた紅玉のような。透き通る柘榴のような、赤い瞳。まばたきで頬を伝った涙を手を伸ばして拭い、アルサールがウィッシュさま、と呼んだ。

 己が心を預けた、思い出の中に置き去りにした筈のやさしい声に、ウィッシュはそろそろと息を吸い込んで囁く。

「かえ、りた、かった……から……」

「はい。……はい、ウィッシュさま。どこへ……?」

「フィアの、とこに、おれ、ずっと……魔術師になって、『学園』に行ってから、じゃなくて。嫁ぐ時も、俺は、ほんとは……あの、四年。おれは、ずっと……しあわせに……」

 なって、なんて。願われて、手を離されて、送り出されてしまったことが。ずっとずっと。

「しあわせに、なれなくて……フィアにも、アルにも、がっかりされたら、どうしようって……」

「……がっかり?」

「あんなに手をかけてもらったのに。あんなに、優しく……いっしょうけんめい、育ててもらったのに。しあわせになれるようにって。しあわせになれるよ、って、送り出してもらったのに。かえりたい、ばっかりで。しあわせになれなくて。シフィアの……とこに、戻りたい、ばっかりで。でもほんとはずっと、傍にいたかったけど、それは言っちゃいけなかったから。だから俺、耳飾りだけ、俺の代わりに置いてったけど……でも、なんで俺は残らなかったんだろうって。なんで、俺は、ふぃあに……いかないでって、いってもらえなかったんだろって。だから、俺、こんな風になって……」

 衣を揺らして、足元を風が吹き抜けて行く。なまぬるい、刃のような風。砂を巻き上げ、ざらりとした軌跡を描く風。こぼれ出た魔力を自覚しないまま、ウィッシュの瞳が彼方を彷徨う。

 ぼんやりとした光と熱に満ちた。閉ざされた迷宮をみている。

「眠るのも、水、飲むのも。ぜんぶ、もうやだ。きらい。……そんなの、だめなのに。だめだって、わかってるけど、もうやだよ……。舌が。びりってしたら。飲んじゃ駄目、って。アルがちゃんと教えてくれたのに。でも、それしかないんだ」

「……はい」

「眠らなきゃだめよって、フィアがいうのに。でも、起きても誰もいなくて……かなしいよ。くるしい」

 ずっと。ずっと、ずっと、四年間。じわじわと体を弱らせる毒を食み、心を狂わせると分かっていながら眠りを遠ざけるしか、寂しさに嘆かぬ術をもたなかった。

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