迷宮は楽園の彼方

迷宮は楽園の彼方 01


 嫁いでから魔術師として目覚めるまで、四年間。魔術師として目覚め、学園で学んだのは三年間。王宮魔術師となって二年間。魔術師になった期間は、今年でもう五年目になる。

 悪夢に身を浸した四年より多くなっていることに気が付いて、ウィッシュは折り曲げた指先を眺め、現実感の乏しいまばたきをした。あれが本当に四年間の出来事であったのか、それがもう本当に終わっていることなのか。

 ウィッシュには時々、分からなくなることがある。

 案内妖精が迎えに来て、魔術師になった、なんていうのはあのサンルームの中でウィッシュが見ているだけのおかしな夢で。目を覚ましたらそこに誰もいない。

 考えるだけで指が震え、臓腑をぞわりと気持ちの悪いものが這いずって行く想像は、『学園』時代にもたびたび、今も頭にこびりついて消えてはくれない悪い夢の名残だった。

 理解はしているし、分かってはいるのだ。ウィッシュが魔術師になったことが本当で、あれは全てもう過去のことで。実際に起きた、過去のことで。忘れられないけれど、現実だった、というだけの昔であることなど。

「大丈夫。……だいじょうぶ、分かってる」

 心に祈りを灯すよう、呟き。目を伏せて息を吸い込む。瑞々しい花の香に満ちた空気が喉に触れて、ウィッシュは泣きそうな気持ちで視線を持ち上げた。ほんの数歩先に、扉がある。

 左右に続く城壁めいた高い壁に、埋め込まれるように作られたちいさな、古木の扉だった。その向こうがもう、『お屋敷』だ。

 なんの事情であるのか、この裏門の目と鼻の先でウィッシュをぽいと置き去りにした砂漠の王宮から出された馬車を恨めしく思いながら、魔術師は気のりしない様子で一歩を踏み出す。

 鉄柵に囲まれた、物々しくもうつくしい正門から入らない理由はひとつ。この訪問が白雪の国から下された仕事ではなく、また砂漠の国からの要請でもなく。ウィッシュのひどく個人的な、ただの帰省、だからである。

 おかえり、と言って白雪から『扉』をくぐってきたウィッシュを出迎えた砂漠の王は、お前ただの帰省なのになんでそんな死にそうな顔してるんだ、と呆れていたが、それにだってその通りですと返すだけの気持ちの余裕が生まれることはなかった。

 陛下、頂いた休暇が終わっても俺が戻って来なかったら『お屋敷』か砂漠に連絡とってね、俺たぶんどこかで枯れてると思うんだ、と告げた目が死んでいてもまぎれもなく本気だと感じたのか、仕える白雪の女王があれやこれやと質問してきたので、それなりに情報を伝えられたとは思うのだが、それだって昨夜遅くのことなので砂漠まで伝わっていなかったのだろう。

 なにせそのまま白雪の女王が、つまりウィッシュは九年会えなかった彼女に会いに行って告白するけどふられたら物理的に死ぬっていうことでいいのかな、と結論を下し、それを聞いていた白雪王宮魔術師女性陣を大騒ぎさせた為だ。

 ちょっとおおおやだーっ早く言いなさいよっていうかなに、九年会ってないってどういうことなの九年放置されたら私だったら処すけどなに処されて死ぬかもってことなの。えっ、ちがうの。

 ていうか兎ちゃんは明日どゆかっこで行くつもりなのちょっと服見せなさいよなにこれこんなじゃだめよ。

 陛下ー、ねえねえ陛下っ、どうせだから魔術師礼装とかで行かせるのはどうですかほらあれきれいだし礼服だし兎ちゃんに似合うし色気あるし。許可します。あくせさりとかどれにしよっかー、大丈夫安心なさいお前の意見は聞いてない。

 それでいつから休暇だっけはあああぁああああ明日とかちょっと早くいいなさいよおおおおエステよエステお肌磨いて来なさいよ使える武器は使いなさいよ俺女じゃないとか知ってるわよ黙れ。

 かくして。女ども怖い、そしてさわらぬ神にたたりなしということで俺たちにはお前の魂の安息とかを願うしかないんだけどまあ生きて帰って来いよ、と微笑んで見守る白雪王宮魔術師男性陣に見送られ、ウィッシュはぴかぴかのうるうるのふわふわに磨かれ、髪と服を整えられ、アクセサリーを貸し出されつけられ、『お屋敷』に帰省することになったのだ。

 出迎えた砂漠の王が、おまえもっかい結婚でもすんの『砂漠の花婿』、と言いたげな表情でぬるく微笑んだのは、十中八九そのせいである。

 はあぁあ、と溜息をついて立ち止まるウィッシュの耳元で、飾りがシャラリと揺れ動く。くすんで鈍色に光をはじく簡素な飾りは右の耳だけを飾っていた。

 しなやかに揺れ、涼しげな音を奏でるその耳飾りは、かつて違う色をしていた気がするし、もっと飾りも多かった気がするのだが。指先で触れ、ウィッシュは深く溜息をついた。

 何色だったかも、どんな飾りがついていたかも、思い出せない。けれども、もしかしたら。それは今も綺麗な色で、なにも損なわれないまま、この『お屋敷』のどこかにあるのかも知れなかった。

 それは『傍付き』がウィッシュに贈ってくれたものだった。嫁ぐ時にいくつかの飾りを外し、ちいさく手の中にぎゅぅと握りこみ、時に服の下に隠して、どうにか、なんとか持ちだしたものだった。

 ひとつだけ、片側だけ。もう片方、左側は部屋に置いてきたのを覚えている。ひとつだけ、片側だけ。光を弾いて輝いていた。綺麗だった。

 あれはどうなったのだろう。『花婿』を送り出した『傍付き』の手に、そっと触れてもらえただろうか。抱きしめてくれた時のように優しく、彼女の手に包まれて熱を宿されただろうか。

 そうならいい、とウィッシュは思った。片側だけでおかしいと、対を探されず。勝手に持って行ったことを厭われず。眠りにつくように、彼女の私物に埋もれてしまっていてもかまわないから。まだ、近くに置いてもらえていれば、いい。

 ウィッシュが『花婿』として嫁いで、九年。大好きよ、と笑ってくれた。しあわせになれる、と抱きしめてくれた。私の『花婿』。そう告げてくれた声を、いまもちゃんとおぼえているのに。

 恋をしただろう。愛するひとがいるだろう。もしかすれば『お屋敷』をやめてしまったかも知れない。己の『花婿』を送り出した傍付きが、『お屋敷』を離れてしまうのは、多くはないが珍しいことでもなかった。

 思い至り、よろよろとよろけるように足を進めたウィッシュは、城壁めいた白壁に埋まる古木の扉にてのひらを押し当てながら、その場に崩れるようにしゃがみ込んだ。

 そうだ。どうしてこの場所にずっといてくれると思いこんでいたのだろう。もしかしたらもう会えないのかも知れないのに。とっくに、会えなくなってしまっているかも、知れないのに。

 でもロゼアもなにも言わなかったし、ソキもいない、とか。会えなかったです、とかは言わなかったので。いるはずである。

 もし。結婚して、誰かとしあわせに過ごしていたのなら。遠目にそっと見て、それで帰ろう、とウィッシュは思った。しあわせになって欲しくなかった訳ではない。しあわせに過ごしていて欲しかった。けれど。

 あの優しさが、誰かのものに。抱き寄せ触れる熱が、しあわせが、ウィッシュではない誰かに与えられているのなら。彼女がそれをしあわせだと微笑むのなら。そんなことには耐えられない。

 はああぁああでも九年だよ九年ていったら『傍付き』は結婚してこどもいたりするよなあぁああだいたいそだもんうううぅふぃあに似てたらどうしようおとこのこでもおんなのこでもなにそれちょうかわいいぎゅぅってしたいぎゅぅってしたいでもぎゅぅとかしたらそのあと俺たぶん枯れちゃうでもかわいいまちがいない、と半泣き声で混乱した呟きを落とし、ウィッシュはよいしょとよろけながら立ち上がり、扉をうーん、と押した。

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