今はまだ、同じ速度で 37


 てち、て、てっ。てっ、ち。て。て。てちっ、と。どう考えても歩き慣れない上に危なっかしくて仕方がない足取りで、ソキは『お屋敷』の当主の部屋まで歩いて辿りついた。

 右の手をロゼアとしっかり繋ぎ、左にはずっとメグミカが控えた状態で歩いたソキは、ぜいぜいぜい、と荒い息を繰り返して部屋の前ですでにくたくただ。

 城からの馬車を降り、『お屋敷』の入り口から当主の部屋の扉の前まで、最短距離で百数十メートル。ふらふらと視線すら定まらない様子で最後の一歩を、てっ、とばかり室内に踏み入れた瞬間、ソキ、と囁いたロゼアがふわりと体を抱き上げた。

 ソキが、自身に体重があるということを忘れてしまうくらい、分からなくなるくらい、あっけなく。抱きあげられ、抱きしめられて、大股でソファへと歩み寄られる。くたくたの体はソファに降ろされることはなく。

 そこへ腰かけたロゼアの腕の中、くんにゃりとおさまっていた。

「ふにゃ、うゆぅ……そきぃ、がんばってぇ、あるいた、ですよ。ロゼアちゃん、なでなでぇ……して? してぇ……!」

「うん。がんばったな、ソキ。偉いな。頑張ったな……! ソキ、ソキ」

 柔らかく抱き寄せてくれる腕が、ソキの体をロゼアにくっつける。ぽんぽん、と背を撫でられ、指先が髪を梳いた。頬から首筋に滑り落とされたてのひらが、じっと押し当てられ、ほっとゆるむ息と共に額に触れ、前髪を耳にかけていった。

「頭、痛くないか? 気持ち悪くない? 咳出てないな、よかった……。ああ、飴食べような。ソキの好きな、りんごはちみつの飴。おみずも飲めるか? ひとくち」

「んー、んん……のむです……」

 すかさずメグミカが差し出した、澄んだ青いグラスに注がれた水はなまぬるい室温で、ソキの喉をするすると滑り落ちていく。

 こく、こくん。こく、とすこし多めに飲めば、ロゼアもメグミカも満面の笑みで偉いな、と褒めてくれたので、ソキはすこしだけ元気を取り戻し、えへん、とばかり胸を張った。

 でしょぉー、ソキ、えらいでしょうー、と得意げなくちびるに、ロゼアの指先がまあるい飴を食ませてくる。あむ、とロゼアの指ごとくわえて、あむあむして、なめて、ソキはようやく落ち着いた風に息を吐き出した。

「ねえねえ、ロゼアちゃんー? みぃんな、新年の、お祝いだったです」

 新年を迎えた砂漠の都市は、華やかだ。飾り灯篭がそこかしこで淡く風に揺れ、火の揺らめきの代わりに強い日差しが波紋のような輝きを地に投げ落とす。

 蒼穹の空へとまっすぐ、突き抜けるように凛とした空気が漂い、木々の葉鳴りと砂が踊る音がどこか耳の遠くで奏でられていた。常ならば行きかう人々で動くのが困難であるほどであるのだが、今日は奇妙にその数がすくなかった。

 ざわめきをそっと衣の端から払い落すように。高揚感は建物の中に満ちながら、石畳を弾まずにひっそりと奏でられている。奇妙な胸騒ぎに首を傾げるソキの頬を撫で、ロゼアがそうだな、と微笑みながら同意の言葉を囁く。

 赤褐色の瞳に僅かばかり考え込む色がちらつき、まばたきの間に消えていった。

 ぺたり、ロゼアに体をくっつけながら、ソキはねえねえ、とほわほわ響くあまえた声で囁いた。

「ねえねえ、ロゼアちゃん? ねえねえ、ねえねぇ」

「んー? うん。なに、ソキ。どうしたんだ?」

「ぎゅーって、して? ぎゅー、ですよ? ぎゅぅー、です。ねえねえ、ロゼアちゃん。ぎゅぅ、して?」

 ソキは馬車からお部屋までいっしょけんめ、あるいたです。だからね、ぎゅぅって、して。

 くてん、と首を傾げてあまくねだるソキに、ロゼアはうんいいよ、と笑って。ぺたりとくっついているソキの体にそっと腕を回し、ぎゅうぅ、とあまく抱きしめてくれた。そーき、とロゼアの声が耳元で囁く。

 きゃあぁっ、と声をあげてはしゃぐソキの頭に頬を寄せ、ロゼアはごく穏やかに息を吸い込み、吐き出した。

「今日は元気だな。よかった……」

「ろぜあちゃん? ソキはぁ、きょう、も、ぉ! げ、ん、き、で、すー、うー!」

「うん。そうだな。ソキは元気だから、いいこで、あんまり動かないでいられるよな?」

 日中はソファの上にいること。お散歩はしない。あるくのもしない。ひとりで歩くとかだめ。ぜったい、だめ。メグミカと手を繋いでてもだめ。ソキはいいこだから、この部屋の中でじっとしてる。

 ソファの上とか、椅子の上とか。ふわふわ絨毯の上に布をひいたお昼寝場とか。そこに、いること。あるくのだめ。ぜったい。だめ。

 ぎゅっと抱き寄せられたまま耳元で囁かれるロゼアの声に、ソキはきゃっきゃとはしゃぎながらはぁいはぁい、と返事をした。

「ソキ、ロゼアちゃんのー、いう、とぉりー、でーきーる、でぇー、すぅー……う? うぅ? あれ? ロゼアちゃん? あれ?」

「うん?」

「あるくのぉ、だめ? です? だめ? おさんぽは?」

 機嫌の良い時のソキの返事は八割が勢いで、内容はほぼ聞き流しているので、理解するのにちょっと時間がかかるのである。あれ、と眉を寄せてくちびるを尖らせるソキの頬を、ロゼアは笑いながら両手で包みこんだ。

「ソキ。いま、しない、って言っただろ? 自分で、ちゃんと、俺と約束したよな?」

「んー。んんぅー……やぁう」

「や、じゃないだろ、ソキ。だーめ。歩くのは、お城に戻る時に馬車乗りに行く時だけにしような」

 やああああロゼアちゃんだめっていったああぁああっ、と涙目で騒ぐソキの背を撫で、ゆらゆらと体を揺らして宥めながら、ロゼアは落ち着いた声で囁いた。

「ソキ、ソキ。大きな声出したらだめだ。喉痛くなるだろ。熱でて、だるくなるだろ。そーき、ソキ、ソキ。いいこだな、ソキ。……ソキ、そんなにあるきたいの? あるくのがいいのか? ……だっこは、もういい?」

「ソキ、ロゼアちゃんのだっこがいいです。だっこが一番好きなんですよ。でもぉ」

「ん。……もうちょっと元気になったら、俺と一緒に、おさんぽ行こうな」

 くてん、とロゼアにもたれてうとうとしながら、ソキはすこしだけむくれた気持ちで頷いた。ちょっと歩いても咳が出たり、すぐに熱があがったりしないので、ソキとしては数日前よりはもうちょっと元気になったつもりなのだが。

 うと、うとぉ、と眠たい気持ちでとろとろしていると、ロゼアの手がやわらかく髪を撫でていく。何度も、何度も。

「……おやすみ、ソキ。良い夢を」

「おやぁ、う、なさ……です」

 ふああぁあ、とおおきくあくびをして。すりすりすり、とロゼアに頬をこすりつけて甘えるソキの耳に、寝たのか、と不機嫌そうに響くレロクの声が聞こえた。

 そこではじめて、ソキは、そういえばこの部屋の主とその側近にちゃんと挨拶をしていないことに気が付いたのだが。ふわふわと揺れる意識はすぐに夢の中に落っこちてしまう。

 ざわりと落ち着きなく揺れる祝いの空気だけが、ほんのわずか、肌に触れて残っていた。

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